パフは毎週月曜日に、学生向けのメルマガを発行している。
パフを創業して2年目(西暦1998年の年末)から現在まで、ずーっと続いている。西暦2002年ころまでは、執筆兼編集者は、僕が自ら担当していた。
当時は『パフのメンバーメール』と呼んでいたのだが、その人気コーナー(と勝手に決め付けている)のひとつに、 『パフの創業物語』というのがあった。2000年7月から2001年8月までの約1年間。僕の生い立ちからパフ創業までを、物語風に書き綴ったコラムである。
全52話にもおよぶコラムなのだが、その始めのほう、第6話に、 『中島先生』という話がある。
僕の中学3年生のときの担任の先生だ。僕がきょうまで(比較的)まともに人生を送ってこれたのは、この中島先生のおかげかもしれない。 『人が人として生きていくために大切にしなければならないこと』を、たくさん教えてくれた恩師である。
しょっちゅうビンタを喰らっていた。グーで殴られたことだって一度や二度ではない。が、一度も先生を恨んだことがない。すべてに“愛情”がこもっていたからだ。
『こりゃ、パンダ! (僕のあだ名) 、何しよるんじゃあ!!』 といって、僕をダシにしながら、おどけてクラスに笑いを振りまいてくれたこともよく覚えている。
その中島先生が昨年亡くなられた。聞いたのは昨年の暮れだった。とてもショックだった。
最後に先生とやりとりしたのは、一昨年の年賀状。それまで無礼を重ねていた僕は、卒業30周年ということもあり、先生に年賀状を書いた。
すぐに返事が来て、 『顔を見せてくれんから、中国四川省に里帰りしたのかと思っていたぞ』と書いてあった。あいかわらずユーモア溢れる突っ込みだなと笑ってしまった。
考えてみれば、最後にお会いしたのは僕が大学4年生の正月の帰省のとき。先生の自宅で深夜まで酒を飲み、酔いつぶれてしまい、奥さんに大迷惑をかけてしまったのだが、それ以来、いちどもお会いできていなかった。
今回の帰省のひとつの目的は、この中島先生の墓前に、僕の近況と、いままでの感謝をあらためてお伝えするためだったのだ。
僕と同様、可愛がってもらっていた同級生のWとふたりで、墓前に手を合わせた。
30数年経ってもいまだに交流が続いている(でも中学のころは犬猿の仲だった)僕とWがふたりでお参りに来たことで、中島先生は、さぞかし驚いていることだろう。
中島先生、どうぞやすらかにお眠りください。そして天国から、かつての悪ガキだった僕らを、どうかいつまでも見守ってやってください。