お彼岸ということもあり、きょうは早起きをして、世田谷にある父親の墓(正確にはお寺の納骨堂)にお参りに行った。
親父は、僕が30歳のときに心臓発作で急逝した。いまから18年前。享年62歳だった。
田舎の温泉旅館の雇われ板前だった親父は、死ぬその日まで、包丁を片手に仕事をしていた。誰に迷惑をかけることもなく、誰にも看取られず、静かに息を引き取った親父のことを、僕は常々、親父らしい死に方をしたもんだなあと、感慨深く思う。
照れ屋で泣き虫だった僕は、小さい頃、あまり親父と会話した記憶がない。もっとも、板前という職業柄、早朝から深夜まで仕事をしている親父と一緒にいる時間も、ほとんどなかった。
親父と真面目な会話をしたことが一度だけある。
それは、僕が高校を卒業する間際。これから大学受験に臨もうとしているときだった。
受験を控えて下宿から自宅に一時的に戻った日、親父は珍しく、仕事から早く帰ってきていた。僕が自宅に戻っていたので、わざわざ早めに帰宅してくれたのかもしれない。
東京の大学に合格する見込みが殆どなかった僕は、親父に、こう言った。
「いま受けちょる大学は、全部落ちてしまうかもしれんのやけど、そんときは浪人してもいいやろか?」
「そんで、浪人するときは東京でしたいんやけど、許してもらえんやろか?」
「生活費はできるだけ自分でバイトして稼ぐけん、来年はぜったい東京の大学に受かるように勉強するけん、東京に行かしてもらえんやろか?」
たったこれだけのことを、僕は緊張しながら、意を決して親父にお願いした。
親父は、(熊本弁で) 「よかたい。わが(お前が)思うごつしたらよかたい」と、穏やかな笑顔で答えてくれた。
僕は親父に怒られた記憶がほとんどない。口やかましく言われた記憶もない。ただ、じっと見守ってくれていたという記憶だけがある。
東京で一人暮らしを始めてから、毎月の仕送り(どうしても足りない生活費だけは仕送りに頼っていた)は、決まって親父の直筆の、現金書留封筒だった。10,000円札数枚の他に、メモが1枚、いつも入っていた。 「元気でやってるか?頑張りなさいよ」という短いメッセージがほとんどだった。郵便局に備え付けられている伝票の裏紙を使った粗末な紙だったのだが、当時の僕にとって、この短いメモがどんなに大きな励ましとなったことか……。
きょうの墓参りは朝早く、周囲に誰もいなかったこともあり、線香が燃え尽きるまでずっと親父の写真を前にしながらしゃがみ込み、「そんなこともあったよなぁ…」と、写真を見ながら、懐かしく思い出していた。