ふと、自分の幼いころから少年時代(15歳くらいまで)の思い出を綴ってみたくなった。本日からしばらくのあいだ、全国数十万人の読者のみなさん、どうかお付き合いください。
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僕は1960年(昭和35年)11月30日生まれ。僕が生まれたとき父親は31歳、母親は37歳だった。
母親は当時としては珍しい6歳も年上の姉さん女房。そして僕は遅めの子供だったようだ(いまは37歳で子供を産むのは珍しいことではないが)。
熊本県の片田舎にある母親の実家(当時、旅館を営んでいた)で、僕ら家族は、母親の父と母(つまり僕の祖父と祖母)と、母親の兄の家族(僕にとっての叔父と叔母と従兄姉たち)と一緒に暮らしていた。
この母親の実家で暮らしていたのは僕が3歳くらいの頃まで。当然、僕にはそのころの記憶はない。
しかし、中学生になるくらいまでは、この実家にしばしば遊びに行っていたので、いまだに僕にとっては懐かしい思い出の地である。赤ちゃんだった僕を、毎日のようにおぶってあやしてくれたという従兄や従姉は、(もう何年もお会いしていないが)いまだに僕にとっては実の兄や姉のような存在である。
ところで、僕を37歳で生んでくれた母親。大正12年(1923年)11月24日生まれなのだが、実は僕はその本当の年齢をずっと知らなかった。というか、当の母親にサバ読んで教えられていた。
昔の戸籍というのは、けっこういい加減で、戸籍謄本に記載されていた母親の生まれ年は、なぜか昭和3年(1928年)。実年齢よりも5歳も若く記載されていた。
当の本人もそれをいいことに、ずっとその年齢を自分の年齢だと偽っていた。なんと、実の息子である僕にさえも、自分は昭和3年生まれであると(ほんとは大正生まれのくせに!)嘘をついていたのだ。見栄っ張りなのか何なのか。それを知った時の僕(もう20歳くらいだったけど)は、「は…?、まじ…?、アイドルじゃあるまいし…、ったくもう、もっと早く言えよ!!」と、憤りを通り越して、あきれてしまったものだ(+o+)。
それはさておき、僕の幼少の頃。
記憶に残っているのは、4歳くらいからだ。時は1964年。そう、東京オリンピックの年だ。
僕ら家族は、それまで住んでいた母親の実家から、父親の実家のすぐそばにある熊本県八代市日奈久のオンボロ借家に引っ越していた。
僕の家族は、父と母、そして5歳年上の兄と僕の4人家族だった。
この家族4人は、6畳一間+土間の小さなオンボロ借家(専用の便所も風呂もない)に肩寄せあって暮らしていた。その頃のことは、なぜかよく覚えている。押入れの襖に、マジックでさんざん落書きをしていたのだが、不思議と怒られなかった。つまり、何をやっても構わないほどのオンボロ借家だったのだろう(笑)。
このころの僕は、とてつもなく泣き虫だった。なにか気に食わないことがあると、いつも泣き叫んでいた。いま考えると、4歳のころから反抗期が始まっていたのかもしれない。
しかし、そんな泣き虫で反抗的だった僕も、5歳になると幼稚園に通わせてもらえることになった。初めての集団生活に緊張していた僕は、母親の後ろに隠れながら登園した入園式の日のことをよく覚えている。
(明日以降に続く)