釘さん日記

幼いころを思い出してみる(2)

僕の父親の職業は流しの板前。まさに「包丁一本」で、いろんな温泉旅館を渡り歩いていた。僕ら家族がそれまで暮らしていた八代市日奈久から人吉市に引っ越したのも、父親がそれまでの日奈久温泉の旅館から人吉温泉の旅館に仕事場を移したことによる。

人吉市で暮らしていた家は、それまでの日奈久の家に比べると、いくぶん広かった記憶がある。寝る場所と食事をする場所は別々だったし、なにより「すごい!」と思ったのは、それまでの共同便所から家の中に我が家専用の便所があったことだ。

ひとりで便所に行くことができなかった僕にとって、この専用便所は革命のようなものだった。都度、僕を便所まで連れて行かなければならなかった母親も、おかげでずいぶんと救われたことと思う。

僕がひとりで便所に行けるようになったからかどうかは分からないが、母親はこのころから勤めに出るようになった。生命保険会社の外交員だったと記憶している。生保会社の社名と母の名が刷り込まれた名刺が、なぜか脳裏に焼き付いている。

通っていた幼稚園は、人吉市の青井幼稚園というところ。国宝にも指定されている青井神社の境内にある。自宅のあった人吉温泉街からはかなり遠く、毎日バスで通っていた。母親が働き始めていたこともあり、幼稚園が終わって家に帰っても誰もいない。小学校5年生だった兄が帰ってくるまで僕は一人ぼっちだった。そんなこともあり、ひとりでマンガ週刊誌を貪るように何回も何回も読んでいた。

現在の青井幼稚園。6年前、熊本出張した折に立ち寄った

このころ我が家では、週刊少年マガジンを定期購読していた。毎週、本屋のおじさんが自転車で配達してくれていた。発売日になると、家でそわそわしながら自転車の到着を待っていたことをよく覚えている。このころの僕にとっての一番の友達は少年マガジンだったのだ。僕は小学校に入学する頃には、ひらがなはもちろんのこと、カタカナや(ある程度の)漢字が読めるようになっていたのだが、すべて少年マガジンのおかげだと思っている。

この人吉市で暮らしたのは、僕の幼稚園入園時の1966年春から1966年秋までの半年ちょっと。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「オバケのQ太郎」といった歴史に残る名作がテレビ放映されていた時期とも重なっている。ビートルズが来日したのもこの頃だ。高度成長の波に乗った古き良き時代だったのだろう。

(続く。次はたぶん来週の月曜日かな?)

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