「柔道一直線」に影響を受け、一条直也や車周作のようになりたくて門を叩いた柔道部。でもドラマのように人をホイホイ投げ飛ばすなんてことはできず、厳しく苦しい毎日が続くことになった。
スポ根の時代である。練習は月曜日から土曜日までの毎日。放課後すぐに始まり、終わるのは日暮れ遅く。開始の際は準備体操として、腕立て伏せと腹筋は最低でも100回ずつ。あと腹ばいになって腕の力だけでの匍匐(ほふく)前進のようなことを50メートルくらい行っていた。
これがきつかった。
それまでろくに運動なんてしたことのなかった僕の体は悲鳴を上げて、腕がまったく上がらなくなった。服を脱いだり着たりすることもできない。肘や膝は擦り剝けて血だらけ。
最初は10人以上いた新入部員も1週間が過ぎたころには半分くらいに減っていた。
僕もよっぽど辞めようかと思ったのだが、なぜか続けていた。
母親に無理言って安くない柔道着を買ってもらった手前、すぐに辞めてしまっては申し訳ないという気持ちもあった。
柔道部の顧問の先生から、目をかけられていると勘違いしていたことも大きかったのかもしれない。
顧問は、飯倉巌先生といって、名前もそうだが、全身から威厳を感じさせる先生。大分県の柔道界では有名な指導者だった。
入部して間もないころ、この飯倉先生から「クギサキ、お前は柔道をやるために生まれてきたようなもんじゃの、練習を続けていたらそのうち強くなるぞ、ガハハ」と言われていた。
純粋だった僕は、先生のそんな根拠のない言葉を信じてしまったのかもしれない。
(続く)