釘さん日記

幼いころを思い出してみる(最終回)

柔道部でのドタバタを中心に中学生のころのことを書いてきたが、もちろん柔道ばかりをやっていたわけではない。

中学の三年間というのは、もっとも多感な時期である。いろんなことがあった。

 

●中学一年生

本格的に異性に目覚めた。朝から晩まで女性のことばかり考えていた(笑)。

フォークソングを好きになったのもこのころだ。南こうせつとかぐや姫(これが正式なグループ名だった)の代表曲となる「神田川」がリリースされたのは、中一の秋だった。ほかにも井上陽水、吉田拓郎、チューリップ、アリス、ガロ、海援隊などなど、ラジオでよく聴いていた。

ラジオと言えば深夜放送に嵌っていったのもこのころ。鶴光のオールナイトニッポンは毎週土曜日のお楽しみだった。教科書や参考書を広げつつ、勉強などいっさい手につかなかった。

 

●中学二年生

柄にもなく学級委員を務めていた。クラスには問題児が何人もおり(根がわりとまじめだった僕は)クラス運営に苦労していた。

ひとつだけ忘れられないことがある。夏の臨海学校で級友が溺れて亡くなってしまったことだ。

その級友と僕とは仲が良く、臨海学校の前日も一緒にビーチサンダルを買いに行ったりしていた。気が弱く、クラスの悪ガキたちからよくいじめられていた級友だったのだが、僕といるときは逆に僕が彼から、からかわれたりしていた。彼にとってはホッとできるひと時だったのではないかと思う。

溺れたのは、彼が悪ガキたちに誘われて一緒に泳いでいた時だった。何があったのかは分からない。ただ、僕とずっと一緒にいたならばと、大いに悔やんだ。葬式で弔辞を読んだ僕は泣きじゃくってしまい、ほとんど言葉にならなかった。辛かった。このことを公の文章にするのは、これが初めてである。

 

もうひとつ書き残しておきたいことがあった。

僕は比較的温厚な性格だったのだが、中二の秋に、母や教師と激しくぶつかったことがある。

昔から口やかましい母だったので、僕はいつも母の言うことを「はいはい、はいはい」と言って、右から左に流すようにしていた。

二学期の技術家庭の授業で、カンナやノコギリなどが入った大工セットを買わなければならないことがあった。たぶん、そのころ我が家にはお金がなかったのだろう。母は「そげなもんは買わんでもよかっ!」といって取り合ってくれない。全員が買う必要のあるものだと、どんなに説明しても「学校にあるのを借りればよかったい。無理やり生徒に買わせる学校がおかしかと!」と言うのみ。

結局、技術家庭の先生に「うちでは買ってもらえないから学校のを貸してほしい」と頼んだところ、「お前にだけ貸すわけにはいかん。ふざくんな!」と一喝された。そのとき、どうやら僕は反抗的な態度を取ったようで、先生からいきなり殴られた。訳が分からなかった。皆の前で殴られたのである。学級委員としてのプライドもあった。先生を思いっきり睨み付けた。すると先生は、僕の顔が腫れあがるくらい、さらに何回も殴りつけた。僕は泣きじゃくった。痛いからではない。悔しかったのだ。恥ずかしかったのだ。そして、ノコギリを買ってくれない母と貧乏を恨んだ。この日の悔しさと恥ずかしさは、やはり一生忘れることがないだろう。

 

●中学三年生

中学の締めくくりとして、最高の教師や級友たちと巡り合えた。

このころの級友とは40年経った今でも交流がある。

渡辺浩という当時の生徒会長で僕の最大の敵(悪友)だった男は、高校時代も大学時代も社会人になってからも、そしてなぜか今現在も、僕の回りをウロチョロしている。来週も、会いたくもないのに会う約束をしている(笑)。

イオちゃんという当時の愛らしい副班長は現在、湯布院で福祉の仕事をしており、数年前から介護が必要となった母の心配をしてくれていた。ことあるごとにメールで近況やアドバイスを僕に送ってくれていた。

永遠のマドンナきよさんは、いまでも僕の誕生日にバースデーメッセージを送ってくれる。つい先日も54歳の誕生日にもらったばかりだ。ちょっとだけキュンとした。できれば40年前にもらいたかった(#^.^#)。

姫野はガソリンスタンドを経営する社長だ。帰省した時はいつもこのガソリンスタンドに顔をだし、「おう元気か?じゃまたな!」と1分間だけ会話することにしている。それだけで十分だ(笑)。

潤一郎は、大手の航空会社で整備士をやっている。消息が一時途絶えていたのだが、4~5年前に同窓会で再会して以来、年に一度は会っている。あいかわらずスケベだ(爆)。

他にもまだまだ仲の良かった級友たちがたくさんいるのだが、切りがないのでこのへんで。

 

そして、担任の中島先生は怖かったけど、僕に大きな影響を与えてくれた先生だった。こういう大人になりたいと、15歳の僕に思わせてくれた。殴られたりビンタされることもあったけど、理不尽に殴られることはなかった。いつも納得のいく、愛ある体罰だった。

この先生やクラスのことは昔(15年ほど前)、メルマガに連載していた「パフの創業物語」のなかで書いたことがある。

中二のときは辛いことの多い毎日だったのだが、中三のときは本当に毎日が楽しかった。本来であれば高校受験を控えた大変な一年のはずなのだが、いま思い出されるのは楽しいことばかり。

中島先生と素晴らしい級友たちが作りだした「三年一組」には、いまでも感謝している。

その中島先生は、7~8年ほど前に病気で亡くなった。翌年、悪友の渡辺浩といっしょに帰省して墓参りに訪れたのだが、先生はきっと喜んでくれたことと思う。

卒業アルバムより。右端にいるのが中島先生。後ろにうっすら見えるのは由布岳。

 

 

 

そして湯布院中学校を卒業し、僕は大分市内の高校に進学。一人暮らしを始める。

以来僕は、両親と一緒に過ごすことがほとんどなくなった。長期の休みの時も、ほとんど自宅には寄り付かなかった。高校を卒業して、東京に行ってしまってからはなおさらだ。

だから親孝行らしい親孝行を、僕は何もしてこなかった。一緒に暮らすことが親孝行だとするならば、それすらもしてやれなかった。

 

 

僕の父は今から23年前、心臓の発作で急逝した。享年62歳という若さだった。

そして母はつい先日、脳梗塞が原因で亡くなった。享年90歳。母は長生きしてくれたのだが、「東京に連れて行ってほしい」という願いは、ついに叶えてあげることができなかった。

貧乏だとか口やかましいだとかいろいろ書いたけど、なんだかんだいって僕を産み育ててくれた実の親である。感謝してないわけがない。

母が亡くなったと聞いたときは(覚悟していたとはいえ)相当にショックだった。母を困らせたり怒らせたり悲しませたりしたことを思い出しては後悔した。

昨日、母の四十九日の法要と納骨を、東京のお寺で済ませてきた。父のお骨を納めているのと同じお寺だ。きっと今ごろ母は、23年ぶりの父との再会を楽しんでいることだろう。いや、ひょっとしたら母のことだから、高倉健さんや菅原文太さんに目移りしているかもしれない(笑)。

実はこの「幼いころを思い出してみる」というシリーズは、母が亡くなった翌日から、自分の幼いころの姿(つまりは父や母がまだ若かったころの姿)を思い出しつつ、追悼のつもりで書き始めたのだった。

終わってみれば自分の情けない話ばかりだったけど、父と母には天国で、暇で暇でしょうがないときに読み返してもらえたらと思う。そして長男とは違い、反抗的で出来の悪い次男坊だったけど、僕は僕なりに懸命に生きていたことを分かってもらえたらと思う。

ちなみに母の逝去のことは、どなたにもお知らせしなかった。いまこの日記で初めて公開する。どうか非礼をお許しいただきたい。

そして皆様からの永年にわたるご厚情に心より感謝しつつ、幼いころの思い出話を終了とさせていただきます。

読者のみなさん、長らく私的なことにお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。

(完)

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