平成元年。西暦でいえば1989年。世の中はバブル真っ盛りのころ。僕は大手IT企業(当時はメインフレーマーと言っていた)のF社で、その時代においてはまだ異端だったオープンシステム(UNIXをOSとした水平分散型システム)の販売支援部門で仕事をしていた。
その頃のことは(あまりにもマニアック過ぎるので)周りの人たちに話したことがあまりない。なので、自分でも忘れていたことがたくさんある。
が、昨日はその頃のことを細かいところまで思い出した。
というのも、F社の本店所在地である武蔵中原で、そのF社の方々と酒席を共にしていたからだ。
昨日のイチバン年長者の方(採用責任者)は僕が働いていたころの新入社員。ひょっとしたら、すれ違ったことくらいあったかもしれない。
いやあ懐かしかった。
当時の話は、昔のコラムにも書いていたので、以下再掲しておきましょう。
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<第63話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その1)」 2006/02/27
小さな会社S社で、ソフトウェア開発の仕事に携わり始めて5年の月日が経と うとしていた。
それは、昭和天皇が崩御し、新元号『平成』がスタートしたばかりの1989年の 春のことだった。
僕は“人材狩り”(カッコよく言えば“スカウト?”)の標的となり、それま でお世話になったS社を離れ、大手コンピュータメーカーであるF社の系列デ ィーラーに営業マンとして転職した。
エンジニアという仕事が嫌いだったわけではない。我ながら優秀な(というよ り、気の利いた)エンジニアだと思っていた。この道でも、なんとか食べては 行けるだろうと思っていた。
しかし、もともとエンジニアを志向していたわけではなかったし、義理人情の 世界に身を任せて入社した会社でもあった。
自分なりには、エンジニアの仕事の凄さや、大変さや、面白さを分かったつも りでいたし、義理人情の世界に対しても、十分報いたつもりでいた。
だから、比較的すっきりとした気持で、転職を決意することができた(でも、 それまで苦楽を共にしてきた仲間達と分かれるのが辛くて、勤務最終日には泣 いてしまったが)。
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転職初日。僕が勤務を開始した場所は、F社のディーラーではなくて、F社の 本社そのものだった。
とても珍しいケースなのだが、ディーラーの経営陣とF社の営業幹部との話し 合いの結果、F社が発足させたとあるプロジェクトに、僕は転職早々組み込ま れることになったのだ。
そのF社のプロジェクトは、部長を含めて総勢10名程度。当時F社が取り組 み始めた初の「米国製OEMコンピュータ」を拡販するためのプロジェクトだ った。ディーラーから参加したのは僕だけで、残りのメンバーは全員F社の正 社員。プロジェクトが置かれていたのは、東京駅のまん前にあるドでかい高層 ビル。
超狭いビルにあった、それまでのS社とのあまりの環境の違いに、最初のうち は目まいがしたくらいだ。
だが、職場に慣れて仕事を進めるうちに、目まいなんかできる暇もなく、こり ゃ凄いところに来てしまった!という後悔やら、驚きやら、面白さやら、恐怖 やら、興奮やら、いろんな感情に襲われる毎日が続いていった。
転職して1ヶ月ほど経ったある日。僕は部長から、1週間後に開催される営業 会議でプレゼンテーションをするように命じられた。その営業会議は、全国の F社の支店から部課長クラスが100名ほど集まってくる大規模なものだった。
命令されたときは、そんなに大したことだとは思わずに平然と引き受けたのだ が、席に戻った後、他のメンバー達に「釘やん(と当時呼ばれていた)、ホン トに大丈夫なんか?」と口々に言われ、「え?」と大変な役目を引き受けてし まったことに気がついた。
100名を前にしたプレゼンなんてやったこともない。おまけに昔はパワーポ イントなんていう気の利いたプレゼンツールもない。できるのは、ワープロで 印刷したものをフィルムにコピーして、OHP(オーバヘッドプロジェクタ) を通して写しだすことくらいだ。
僕が途方に暮れている間に、会議は2日後まで迫っていた。
(途方に暮れながら「その2」へとつづく)
※続編を読みたい方はこちらからどうぞ( ^ω^ )
⇒ <第64話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その2)」 2006/03/06
⇒ <第65話> 「大手コンピュータメーカーF社の人々(その3)」 2006/03/13
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そんなわけで昨夜はちょっと飲み過ぎて、実はいま二日酔い。日記も手抜きでゴメンナサイ💦
では、ちょっとだけピアノ(みね子)に触ってから行ってきます!