「言葉」は共通だけど、平等じゃない
こんにちは、よきパパもどき、コバやんです@
こどもと一緒に”パパ4歳”になったと思ったのですが
どうやらまやかしだったようです^^;
子どもの「心」の成長に日々答えのないことをぐるぐる考え
知恵熱がでて・・・いやこれは本当の風邪か。。
今日はさらに思考がまとまらないブログですがご勘弁を。
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8月頃でしょうか。
たまたま流していたテレビで
「ひきこもり国語辞典」という、不思議な本を知りました。
“国語辞典”の名前の通り
五十音順に関連する用語がまとめられてはいますが
その一つ一つの用語の解説は
「~である」「~の様」といった客観的な表現ではなく
「~な気がします」「~します」というように
その書き手が主になっているため
詩的というか哲学的というか、ぐっと心を掴んできます。
※ 以前は不登校情報センター様のHPで
辞書の内容が読めましたが
現在は出版に伴う編集の事情で見れません。
興味のある方はぜひ書籍をご覧くださいね。
私たちが「当たり前」「普通」に使う言葉や行動が
捉える人によってこうも明暗分かれるものかと
驚きとつよい共感をこのとき得ました。
人間は社会性を持つ動物ですから
誰しも様々な役割を持ち、多様な立場で営みをします。
その多様な人間同士、なんとかコミュニケーションをとるために
【共通】の言葉があるわけですが
立場や役割が変われば、たかが言葉ひとつも
その重みや意味が変わってきてします。
つまり【平等】ではなくなるわけです。
そして、たくさんの人と接する機会が多く
繰り返し言葉を使う人ほど
言葉の【不平等】を忘れがちになってしまうように感じます。
言葉が脳のなかにこびりついて固まってしまう、というか。
まぁ、何が言いたいかというと
たくさんの人と接する、この採用という仕事。
私たちが発する「就活」と学生の発する「就活」。
【平等】な言葉として、使ってはいませんか?ということです。
「就活」という言葉も、人・時期・環境・気分や性格で
感じ方は海でも小池にもなるでしょう。
私は機械ではないし、相手も機械ではありません。
そこに意思があることをいつも理解し
【不平等】を【不平等】のままに受け入れて
関わる人が今より良くあるために会話と努力をしなくては
ならないなと改めて考えさせられました。
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それではでは、コバやんのひとりごと、今日はこのへんで。
お次は清水さんです♪よろしくお願いします!