20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第16話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
社長 : 「分かりました。じゃあ、お付き合いさせていただきましょう」
釘崎 : 「へっ?」
社長 : 「まずは、当社の会社案内を作ってもらえますか?そうですねぇ。予算は200万円でどうですか?」
釘崎 : 「に、にひゃふまんーーー!?」
僕がリクルートで営業の仕事を開始して、はや2ヶ月。まったく売れず、情けなく惨めな思いで「もう辞めようか……」と思い始めていた矢先に、不意に訪れた初受注の瞬間でした。
釘崎 : 「に、にひゃふまん、い、いや200万円の会社案内を作らせていただけるのですか?」
社長 : 「200万円じゃ足りません?」
釘崎 : 「い、いやいや、大丈夫です。て、ていうか、僕じゃよくわからないので、制作マンをこれからすぐ連れてきます!」
会社案内の制作は、営業マン側にいろんな知識やある程度のセンスが必要とされるため、新米営業マンが受注することなんて滅多にありませんでした。
しかも、今まで何一つとして商談を成功させたことのなかった『売れない営業マン』に売れるはずのない商品だったのです。
わけの分からないままに、営業所に戻り所長に報告。
所長は「おー!くぎー、遂にやったかー!おめでとう!」と自分のことのように喜んでくれ、キツーい(キスじゃなく)握手を交わしてくれました。
制作マンや、庶務の女性や、事務所に居あわせた他の営業マン達も「クギサキくーん、良かったねー」 「おー、クギ、これでやっと棒グラフに色がつくなー」と口々に喜んでくれました。
そ、そうか……俺、ついに売れたんだ……と、やっと実感が湧いてきて、なんだか熱いモノがこみ上げてくる自分に気がつきました。
今から17年8ヶ月も昔の出来事ですが(注:2020年の現在から数えると37年前の出来事となります)、絶対一生忘れる事のない感動の日でした。
ところで、この初受注には後日談がありまして……。
初受注をくださったこの会社の社長に、「あのー、どうしてあの日、初めて会った僕にいきなり注文を出そうと思われたんですか?」と勇気を持って聞いたことがあります。
「いやー、実はね、私には関西のある会社に就職したばかりのひとり息子がおりましてね」
「は、はい」
「いま、大阪で営業をやっとって、ひとり暮らししながら苦労しとるらしいんですわ」
「そうなんですかあ」
「釘崎さんが、うちの課長に小一時間も粘りながら一生懸命営業しとる姿を遠目で見とったら、なんだかうちの息子とだぶってきましてなあ……」
「は、はあ・・・」
「うちの息子もこの若い営業マンみたいに一生懸命営業しとるんだろうか・・・よし、私がこの営業マンと直接話をしてみよう、と思ったわけですわ」
「な、なるほど・・・」
「まあそれで釘崎さんと話をするうちに、ますます釘崎さんが息子みたいに思えてきましてね。息子にエールを送るつもりで、こいつに仕事を任せてみるかと、親バカで恥ずかしいんですが、初対面の釘崎さんにお願いした次第なんですわ」
つまり、この初受注は僕の実力でも何でもなく、「たまたま」飛び込んだ会社の社長の息子さんが、「たまたま」僕と同じくらいの年頃の営業マンで、「たまたま」事務所に居合わせたその社長は、僕と息子さんのことがダブって見えてしまい、ついうっかりホロホロと注文を「出してしまった」と、いうことだったのです。
出来すぎなくらいうまい話しですが、これは全部ほんとうのこと。まさに事実は小説より奇なり。この感動の初受注がなければ、パフが生まれることなんてなかったかもしれません。
(ひとりでウルウルしながら次号につづく)
20年前に書いた37年前このエピソード。書いておいてよかったなと思います。いまならここまでリアルに描けなかったかもしれません。
この初受注をくださった会社、水道橋の駅そばにありました。現在のパフの本社事務所から歩いて10分くらいのところです。何年か前に行ってみたことがあるのですが、当時のビルも会社も見あたりませんでした。ネットで検索しても見つかりませんでした。
できることならもう一度お会いして、当時のお礼ができたらなと思うのでした。
さて、本日僕はオンラインmeetingが数本。夜は久々の会食です。
では朝食&エールの再放送後、準備します!