本日から時々(日記ネタがない時とかw)昔のメルマガで連載していた「パフの創業物語」を再掲していきます。
いまから20年前の西暦2000年7月から約1年間、週いちで連載していた物語です。
原則として昔の原文をコピペして載せますが、誤って載せてしまった事実、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は修正していきます。付け加えたいエピソードなんかもあれば書き加えていきたいと思います。
昭和35年11月30日。これがパフの創業者、釘崎清秀がこの世に命を授かった日であります。
熊本県八代郡坂本村(現在は八代市と合併)の「鶴の湯」という木造3階建ての旅館で、産婆さんの手によって取りあげてもらったらしいです。
この旅館は、母の実家であり、板前をやっていた父は、この旅館で調理の手ほどきをしていたことが、僕の両親が結婚するきっかけだったとのことでした。
この母の実家の旅館で暮らしていたのは3歳くらいまで。その後は父の実家にほどちかい日奈久というところに移り住みました。トイレ共同のオンボロ長屋でした。お風呂なんてもちろんありません。
当時、日奈久の街には馬車が走っており、馬の糞が道に転がっていたことと、名産だった「ちくわ」を人差し指に突っ込んで、おやつとして、よく食べていたことを覚 えています。
僕の記憶があるのは、4歳の誕生日を迎えるあたりから。昭和39年(1964年)の秋からです。
👆唯一残っている4歳前後のころの写真
このころの一番の思いでは、なんといっても昭和39年10月10日から始まった「東京オリンピック」。正確には3歳10ヶ月のころなのですが、よく覚えています。
「パーン、パーパパパーン、パーンパパパパパパパパパーン…」という、幼心にも「何かスゴイことがはじまるのかな・・・」とすごくワクワクさせるようなファンファーレの音は、ずっと脳裏に染み込んでいます。
5歳からは父の仕事(旅館の雇われ板前です)の関係で、同じ熊本の人吉というところに移り住みました。幼稚園は、この人吉の「青井幼稚園」というところに普通の乗り合いバスで通園していました。
今はバスというとワンマンで、100円玉を機械に入れて乗り込む無味乾燥な乗り物なのですが、当時のバスには黒いバッグを抱えた車掌さん(記憶にあるのは必ずキレイなお姉さん)が同乗しており、「発車オーライ!」という明るいかけ声とともに走り出す、実に楽しい乗り物でした。
若くてキレイな車掌さんの「おはよう!(ニコっ)」という清々しい挨拶と、堅い厚紙の切符をハサミでパチッと切る凛々しい姿には、たいへん憧れたものです。
この頃から、記憶がはっきりしており、自分の行動やその時の感情等もある程度正確にお伝えできそうです。
この頃大好きだったテレビは「ウルトラQ」そしてその後番組だった「ウルトラマン」です。あと、「オバケのQ太郎」も好きでした。
「ウルトラマン」も「オバケのQ太郎」も日曜の夜のテレビだったんですが、これを見終わると「青春とはなんだ!」という青春ドラマをよく観ていました。
このころのテレビは白黒テレビで、映りも相当に悪かったはずなのですが、僕はかなりの「テレビっ子」で日曜日は朝から晩までテレビばかり。藤田まことの「てなもんや二刀流」とか、アニメでは、「ジャングル大帝」、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、 「宇宙少年ソラン」、「スーパージェッター」、「エイトマン」……。それから「ひょっこりひょうたん島」もこの頃、NHKで毎日放映されていた人形劇でした。
考えてみれば、僕の5歳前後の1960年代中頃というのは非常にレベルの高いテレビ名作が多かった時期だと思います。
そう、「ビートルズ」が日本に来たのもこのころ(1966年)でした。パフの社名の由来になっているPPM(ピーター・ポール&マリー)のヒット曲「Puff」も、実はこの頃リリースされた唄なんです。
(つづく)
てなわけで、「新・パフの創業物語」第1話でした。先はまだ長いですねw。
ところで、明日からGWに突入なので「釘さん日記」もお休みです。このお休みの期間に創業物語も書き溜めておくことにしましょうか。
では、そろそろ(きょうは在宅勤務なので自宅書斎で)仕事に取り掛かります!