新・パフの創業物語<最終話>「創業物語で見えたこと」
2020年9月23日 (水曜日)
約20年前のメルマガに連載していた「パフの創業物語」。今年の5月以降、誤字などを修正しながら「新・パフの創業物語」として再掲していましたが、本日でいよいよ最終話となります。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年12月12日。この日がパフの設立日、すなわちパフが生まれた日です。
「生まれた」といっても「おぎゃ~」と産声をあげるでもなく、ただ無表情な法務局のお兄ちゃんが、会社設立登記申請の書類を受け取ってくれただけのことなんですけどね。
この日クギサキくんは、37才と0ヶ月12日。お世辞にも「青年社長」とは言えない年齢になっていましたが、それでもこれから始まる未知の世界に、まるで少年のように心をウキウキさせていました。
~~~~~
この「パフ創業物語」を書き始めたのが、昨年(注:西暦2000年)の7月30日。第1話のタイトルが「清秀誕生」(ボクの下の名前です)。
まさに丸1年の時間をかけて、クギサキキヨヒデという人間が生まれて過ごしてきた37年間を綴ってきました。
執筆当初は、単に就職シーズン端境期の、「苦し紛れのネタ」に過ぎなかったのですが、連載を続ければ続けるほど、読者の皆さんから励ましメールがたくさん届くようになり、「これは、まじめに書かねば!」という思いに変わってきたのです。
この物語の中でも明らかになっている通り、ボクは幼いときから優等生でもガキ大将でも何でもなく、どちらかというと(いや大いに)劣等生であり、いじめられっ子でした。
それでも育った時代や土地や仲間がよかったのか、「正義」や「志」や「意気」といった言葉には敏感に反応し、「後世に名を残すとまでは行かなくても平凡な人生は送りたくない」という人生観(というほど大袈裟なものではないですね)が生まれたような気がします。
そうそう、ボクは「創業物語」の執筆を通じて、図らずも遅ればせながら「自己分析」をしていたのかもしれません。
しかも、物語の主人公である「クギサキ少年」を客観的に見つめながら、「こいつは将来どんな社会人になっていくんだろう。どんな職業が似合っているんだろう。果たして、こんな奴に会社なんてつくれるんだろうか…」なんてことを、まるで自分の息子のように心配したものです。
物語を書き進めるうちに、当時は自分でも気づいていなかったことに気づかされたり、反省したり、恥ずかしくなったり、ということもありました。
どうしても、その時の自分をうまく表現できずに徹夜するなんてことも実は何回かありました。
でも、そうやって苦労しながらも、自分が送ってきた人生や、とってきた行動を振り返り考えることの大切さに、いまさらながら気づいたんですね。
この物語に、ずっと付き合ってくださった読者の皆さん、皆さんの多くは来年、社会に飛び出す方たちですね。
「クギサキ少年」という決してエリートでも何でもない極フツーの奴が、脱線気味の学生生活を送り、脱線気味の就職をして、それで、いくつかの偶然や苦境や出会いを経て、「パフ」という会社をつくった。
これがみなさんの参考になるのか、勇気になるのか、励ましになるのか(あるいは全く何の役にも立たないのか…)分かりませんが、少なくともこんな生き方をしてきた人間が運営しているのが「パフの就職応援ページ」であることをご理解いただけたらな、と思っています。
~~~~~
1997年12月12日深夜。
身内だけのささやかな「設立記念パーティー」で、日本酒をしたたか飲んでしまったクギサキくん。
明日から始まる「パフ」という会社の物語を、どう造りあげていくのか。
きっとノラリクラリと、「あー、めんどくせーなー…」と言いながら、でも結構マジメに過ごしていくんでしょうね!
お・し・ま・い
以上、20年前の自分が一年間かけて書き綴った物語でした。
稚拙な文章や言い回しが多くて、途中で再掲するのが恥ずかしくなってしまいましたが、それでもなんとか最低限の誤字などを書き直しながら、全話掲載することができました。
これでやっと一区切りです。
読者の皆さんはご存じのように、僕は明後日の定時株主総会後の取締役会をもって社長を引退します。と同時に、この「釘さん日記」も閉じることになります(アーカイブとしては残るのかな?)。
ということで、明日と明後日は、締めくくりのご挨拶でも載せようかなと思いますが、まだ何を書くかは決めていません。きっとライブの宣伝で締めくくることになりそうな気もしますが(笑)。
ところで、いま一番の心配事は関東地方に接近している台風12号。明日はスタジオに楽器を運搬しなきゃけないんですが大丈夫かな(‘◇’)ゞ
ま、心配しててもしょうがないので、対策を考えることにしましょうか。
では、朝食&エール後、たくさん来ているであろう株主さんからの委任状を確認するために会社まで行ってきます!
新・パフの創業物語<第51話>「パフが生まれた日」
2020年9月18日 (金曜日)
約20年前のメルマガに連載していた「パフの創業物語」。今年の5月以降、誤字などを修正しながら「新・パフの創業物語」として再掲しています。
昨日の第50話は、
「資本金の払込み締切りまであと3時間。なのにまだ全額が銀行口座に振り込まれていない。パフ設立ピンチ!」
というところで終わりました。さて、今回は?
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
ひきつづき1997年12月11日正午。
この日の午後3時までに株主(見込み)30人全員の出資金払込みが完了しなければ、パフの12月12日(イッチニイッチニ)の誕生は、絶望的に難しくなってしまう。
ボクはヤキモキしながら、資本金払込み事務担当の銀行員と電話で話をしていました。
銀行 「えーっと。あれー? クギサキさん、まだ3人の払込みが済んでいないようですよ。まずいですね……」
え、3人がまだ払込んでない……?
すぐに浮かんだ顔は、ルーズな性格で5年も大学に通っていた後輩2人と、パフ設立のキッカケとなったR社のM氏(と、今更ながらわざとらしく名を伏せますが)。
M氏の場合は、「人間の器の大きさ」という視点で見るとクギサキくんの尊敬の念は世界一なのですが、「事務手続きの確実さ」という視点では、友人の中でも、ワースト3に転落するのでした(ごめんね、ムライさん…)。
クギ「3人が未払いですか。まずいですね。とりあえず、その3人に至急、確認・催促してみますので名前を教えてもらえますか?」
銀行「払い込んでいない人の名前ですか?あ、すぐ分かりますよ。でも3時までに銀行の窓口に来てもらわなきゃいけないんですけど大丈夫ですかね?」
クギ 「やってみるしかないっしょ!」
銀行「万一ダメな場合は、釘崎さんが、その方々の名前で払い込みを行うということでもいいですよ。ほんとはルール違反ですけどね。 その人に成り済まして払い込んじゃってください」
クギ「あー、そういうこともできるんですね。最悪の場合はそうしますかね」
いくぶん気持ちは楽になったものの、3人分の出資金を立て替えるお金は・・・
ない!!
どっちにしろ、危機は未だ立ち去らず、という状況でした。
銀行「えーっと、じゃあ払い込み確認ができない3人の方々ですが……」
銀行の担当者から名前を教えてもらいました。2人は予想通りルーズな後輩。しかも2人とも中学校の教師。
でももう1人は、M氏ではなかったのです(ムライさん、疑っちゃってホントにごめんなさい!)。
実は、絶対大丈夫だと思っていた、昔からの仕事仲間Sさんなのでありました。
ともあれ、大至急3人に連絡を取らなければならない。まずは中学教師をしている2人に電話をしました。
「この時間だと給食中かな?」などと思いながら、それぞれの後輩が勤める中学校に電話しました。当時はまだ携帯電話が普及してなかったんですね。
後輩1「あれー?今日まででしたっけ?まっずいなー、午後は授業がびっしりで銀行に行けないんですよ」
クギ「あ、そ。まあ無理すんな。じゃあ俺が立て替えとくよ」
(おまえの授業を受ける子供たちの将来が心配だ)と、ボクの心の声。
後輩2 「あー、すみません!すぐ銀行にいきたいんすけどね。俺の中学校、ド田舎なもんで銀行がなくて来週じゃ駄目っすか?」
クギ 「あ、あー、わかった。じゃあとりあえず俺が立て替えとく」
(そんなんだから教員採用試験に何年も落っこちたんだよ)と、ボクの心の声。
まったくしょうがない後輩連中です(苦笑)。でも2人分なら、カードローンで立替え払いも何とかなりそうでした。
問題はSさん。どうしちゃったんだろう。Sさんの分まで立て替えるとなるとサラ金に駆け込まなきゃ行けないな。 んむー。ま、ともあれ電話してみよう。
クギ 「Sさんですか?あのう例の資本金の払込み期日、今日までなんですが……」
Sさん「ごーめんなさい釘崎さん。今朝までバタバタしてまして、ついさっき払込んでおきましたよ。もう確認とれるはずです」
クギ「あー、そうでしたか!いやあ、お忙しいところありがとうございました!!」
ほっとひと安心。その後すぐ、銀行からもSさんの入金が確認できたという電話がありました。
そして、僕はすぐに、カードローンで後輩2人の出資分を借りて銀行に駆け込み、3時のタイムリミット寸前にそれぞれの名義で払い込み完了。「間一髪、滑り込みセーフ!」という感じでした。
銀行「はい。これで、30人全員の払込み完了ですね。いやあ、こんな大勢からの払込みで会社を設立する人なんて、私の行員生活でも初めてですね。まあ、ともかくもおめでとうございます。では明日の朝、まちがいなく『保管証明書』を発行しますからね」
いやあ、ほんと、やれやれでした。
そして翌日、1997年12月12日。
『 株式会社パフ。資本金払込み保管証明書。金11,300,000- 』と書かれた書類を銀行から手渡された時には、感無量の思いがありました。
司法書士に作ってもらった書類一式と、その「保管証明書」を携えて法務局へ。
終わった……。いや「始まった」かな。
これで、「株式会社パフ」を誕生させる手続きが法的に完了したことになります。
10月上旬に、ムライさんと飲んで独立を決意してからちょうど2ヶ月。なんだか、あっけないほど短時間に「会社」ができちゃいました。
でも、この2ヶ月のあいだ、とてつもないパワーが生み出されてくるのが自分でも分かり、目に見えない力にグイグイと引っ張られるような不思議な感覚でした。
「株式会社パフ、か。なんだかまだ実感が湧かないな……」
そう思いながら、ささやかな「設立記念パーティー」の準備をカミさんがしてくれている新富町の新事務所に向かっているクギサキくんでした。
(生まれちゃいましたか。結構あっけなかったですね。次回、最終回へつづく)
クギサキくん、会社設立お疲れさまでした(笑)。
さて、本日はこの設立の日から22年9カ月を経た株式会社パフの事務所に出社します。
でも、仕事はパフの仕事ではなく、Fネットの事務局長としての仕事。ある意味、パフより厄介な仕事です(苦笑)。
そしてその厄介な仕事が終わると、株式会社パフはタイムスリップして10月1日になります。
来春入社予定の4名の入社式なんですよね。7Fのセミナールームでのリアル開催です。
では、朝食&再開したエール後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第50話>「パフ設立なるか!?」
2020年9月17日 (木曜日)
約20年前のメルマガに連載していた「パフの創業物語」。今年の5月以降、誤字などを修正しながら「新・パフの創業物語」として再掲しています。
昨日の第49話は、資本金の払込みがスタートした日のことを書いていました。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年12月11日。
この日は、パフが予定日(12月12日)通りに生まれるか否かが決定される重大な日でした。
会社の設立は、設立登記日の前日に、資本金が全額銀行に払い込まれ、銀行から「保管証明書」という書類が発行され、それを法務局に様々な書類とともに提出・受理されて初めて法的に認められます。
逆に言うと、もし前日までに資本金が振り込まれないと、会社設立はチャラ、ということになってしまいます。もう一回振り出しに戻って、様々な面倒くさい書類をいちから作り直し、印鑑をもらい直し、という大変なことになってしまうのです。
ふつう、独立・起業するような人間は、ほとんどの場合、自分自身の持ち金を資本金に充てますので、資本金が払い込まれなくて会社が設立されない!なんてことは、滅多にありません。
しかし、パフの場合はちょっと事情が違いました。
資本金に充当されるボク自身のお金は、全体のわずかに10%程度。残りの90%は、約30名ものボクの友人や知人との「口約束」で交わしたお金だったのです。
この「口約束」が実行されるはずの期日が、この12月11日なのでした。
12月5日~12月11日の一週間。土・日を除いた実質5日間の間に、約束をもらった30名すべての人に、きっちりと銀行に行ってお金を資本金として払い込んでもらわなければならない。
一人の脱落者(表現悪くて申し訳ありません)を出すことも許されない状況の中で、クギサキくんは、まさに「気が気でない」毎日を送っていたのでした。
12月11日の正午。
銀行の担当者に、全員の払い込みが済んでいるかどうかの確認電話をしてみました。
銀行「えーっと。あれー? クギサキさん、まだ3人の払い込みが済んでいないようですよ。まずいですね……」
うわ!不安的中。
きっと払い込んでいないのは、あいつとあいつと、そう大本命は、Mさんだろうな。
パフ設立危うし!
(タイムリミット3時間。つづく)
なかなか引っ張りますね(笑)。
この物語、20年前の中心読者は就職活動中の学生だったのですが、意外と大きな反響がありました。
それから、パフとの取引を開始したばかりの人事・採用担当者にもよく読んでもらえていました。ブログやSNSなどのコンテンツがまだ少なかった時代なので、珍しがられたのだろうと思います。
今回のこの釘さん日記での再掲は、パフ創業までの経緯を社内コンテンツとしてきちんと残しておこう、というのが動機だったのですが、これまた意外と取引先の皆様にも興味を持って読んでいただいているようです。
昨日もビジネスパートナーである名大社のニムラ君が隠れ読者だったことが発覚して、なんだか嬉しくなりましたしね。・・・ニムラくん、ありがとう( ^)o(^ )
ところで、この物語はあと2回。釘さん日記もあと3回で終わってしまいますが、そのあとはどうしようかなと現在思案中です。
本当は「フォークソング居酒屋経営日記」でも始めようと思っていたんですが、新コロに邪魔されてまだ先のことになりそうですしね(苦笑)。
まあ焦らずに、のんびりと考えていくことにしましょうか。
さて、本日は朝から高輪台に直行です。とある動画撮影のためなんですが、たぶん一か月後には皆さんにもご覧いただけるようになるのではないかと思います。
では、朝食&再開したエール後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第49話>「ついに資本金の払込日がやってきた」
2020年9月16日 (水曜日)
約20年前のメルマガに連載していた「パフの創業物語」。今年の5月以降、誤字などを修正しながら「新・パフの創業物語」として再掲しています。
昨日の第48話は、当時(20年前)のクギサキくんが忙しかったようで、話がぜんぜん進んでいませんでしたが、さて、今回は?
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年11月30日
この日(たしか日曜日でした)、ボクは37歳の誕生日を迎えていました。
この前日、サラリーマン時代の最後の大仕事、求人サイト「登龍門」の1999年新卒採用に向けたリニューアルオープン作業を終えたばかり。
掲載各社からの原稿の遅れやシステム開発の遅れなどもあり、この数日間は徹夜続きだったのですが、ひとつの仕事をやり終えたという充実感があり、とても清々しい気持ちの誕生日だったのです。
思えば、1995年にスタートしたこの「登龍門」の企画・開発・運営の責任者として足かけ3年間過ごせたことが、ボクの独立には大きな影響を与えています。
このことは、ボクが所属していたH社の社長をはじめとする先輩方・同僚諸子に深く感謝しなければいけないことだと、いまさらながら思っています。
さて、翌日の1997年12月1日。いよいよ会社設立に向けた実務が本格的に開始されることとなりました。
まずは、事務所の決定。
これも本当に恵まれており、仕事仲間のデザイナー事務所が入居していたビルの1フロア(最上階の超狭い事務所)が空いており、そのビルのオーナーを直接紹介してもらうことができたのでした。
(2020年9月16日注釈:このデザイナー事務所というのがグレートロークアソシエイツ社で、多摩美術大学のOBOGたちが学生時代に作った会社です。創業の中心メンバーだった福田聡さん<現スア・フォルマ代表>はパフの創業以来、数多くの制作物やロゴをデザインしてくれました。さらに現在では、「山と鼓と葉」のバンドメンバーとして、パーカッション、ベース、ボーカルを務めてもらっています)
そして、なんと!ふつう賃貸契約を結ぶ時には、相当額の保証金(敷金)を払わなければいけないのですが、このビルオーナーは「会社を作るときはいろいろモノ入りだと思いますから保証金はいいですよ。私も多少は起業家支援をしなきゃね!」と言ってくれたのです。
これには、ほんとうに助けられました。事実、設立1年目、預貯金残高が底をついた時には、この保証金免除がなかったら今ごろは……と、青ざめたものでした。
1997年12月3日。
この日に行った大仕事が定款の認証。「定款」とは、会社にとっての法律みたいなもので、会社の基本的な決まり事を一冊の書類にまとめて、法務局所属の公証人に認証をもらわなければならないのです。
これは司法書士の方の助けを借りながら作成し、無事12月3日、認証を得ることができました(学生時代の後輩が勤務していた司法書士事務所にお願いしました)。
そして……
1997年12月5日。
問題の資本金の払い込みがスタートしました。
独立を決意してから、この約2ヶ月間、友人・知人に出資のお願いをして回り、結果的に総額1,130万円の資本金を集めることができたのでした。
が、この段階では、あくまで口約束。実際には、12月5日から12月11日までの1週間の間に、会社設立用の特別口座に振り込んでもらわなければならないのです。
果たして本当にみんな払い込んでくれるんだろうか……
いざとなったら、“やっぱりヤーメタ”ってならないだろうか……
正直言ってかなり不安でした。
資本金の払い込み事務をお願いした東京三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)月島支店のO課長に、おそるおそる初日の午後3時過ぎに電話を入れて払い込み状況を確認したところ、
「あー、クギサキさん、早速何件か払い込まれてますよー。えーっと、クギサキヒロミツさん、ベンチャークリエイト(注:K氏が 運営するベンチャーキャピタル)さん…。あ、とりあえずこの2件ですねー」
そうか。さすが血を分けた兄弟。真っ先に振り込んできたか。そしてさすがその道のプロKさん、ソツがないな。
しかし……。
初日に払い込んでくれたのはわずか2名。
ま、まぁ、あと6日もあるしな。今日は週末で忙しかったろうから、きっと来週になるんだろうな。
・・・と、つとめて冷静になろうとしたものの、イヤな予感に襲われた資本金払い込みの初日だったのでした。
(あの心配な人物が株主候補なんだもんな。つづく)
現在では会社設立の手続きはずいぶんと簡素化されています(資本金も1円で設立できることになっています)が、当時の商法(現在の会社法)の定めるところでは、起業までの手続きはとても面倒くさく(最低資本金も1千万円だったし)、起業までのハードルはずいぶんと高いものでした。でも、このハードルの高さがあったからこそ、創業時の危機を乗り越えることができたのかもしれません。万事塞翁が馬ですね。
さて、本日は午前中、2021年入社予定の内定者にパフの歴史をオンラインでレクチャーしてからの出社です。「この新・創業物語でも読んどけ!」で済ませようかなと(笑)。
では、朝食&エール後、準備します!
新・パフの創業物語<第48話> 「パフが生まれそう…」
2020年9月15日 (火曜日)
約20年前のメルマガに連載していた「パフの創業物語」。今年の5月以降、誤字などを修正しながら「新・パフの創業物語」として再掲しています。
前回では、やっと「パフ」という社名が決定したところまでお届けしました。
さて、今回は?
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年12月。
ボクが生まれてから30年以上の人生を書き綴ってきた「パフ創業物語」も、あと少しで終わりを迎えようとしています。
この物語を書こうと思ったきっかけは、なんのことはない、メンバーメールのネタ切れを補うために、「じゃ、自分の人生でも振り返りながら自分自身をネタにして書いてみるか!」と思ってのことでした。
毎週毎週、結構頭を悩ませながら、眠気と闘いながら書いてきました。それがよもや今まで続くとは…。
この物語を書くことで、あらためて自分がどんな奴か、ということを客観的にとらえることが出来ました。
同時に、大勢の読者の皆さんに、「ヘナチョコ」なクギサキを想像してもらうことで、いささかなりとも、みなさんの希望や勇気につながったとすれば、このうえない光栄なことだと思っています。
最終回まであと数回。
7月末をもって、この大作(?)を完了させたいと思っています。
そこで今日は、物語をちょっとお休みさせてもらいました。
なぜか?
自分の創業の思いを伝えるには、あまりに準備不足だし、もう少し色々と考えてみたいと思ったからです。
次号とその次の号で、そのことをおそらくキチンと伝えられるかな?と思っています。
ということで今週はゴメンナサイ。
次回、あらためて設立前夜~設立の日までのクギサキを追ってみたいと思います。
(頭が回らないクギサキくんでした)
これを書いたのは、記録によると「2001年7月23日」となっています。
言い訳だらけの原稿で手抜きもいいところなのですが、何かあったんでしょうか。仕事に追い込まれていたんでしょうか。資金繰りに窮していたのでしょうか。
そういえば、この時期は新卒1期生3名が入社して4ヶ月が経ったころ。加えて新卒2期生の6名が内定者インターンとして働き始めたころ。9人もの若者たちが、狭い社内を好き勝手に跋扈。営業活動では、日々誰かが何がしかのトラブルを引き起こしていたのではなかったかと。
短くて中身のないお粗末な原稿なのですが、そんな未熟な時代のパフや自分を表しているとも言えるので、あえて再掲することにしました💦
さて、本日の午前中は在宅で会議2連チャン。午後からは監査役(森のくまさんキムラさん)のところに行って決算報告です。来週末は株主総会ですからね。
では、朝食&昨日から再スタートしたエール後、仕事します!
新・パフの創業物語<第47話>「社名はどうするんだ!?」
2020年9月14日 (月曜日)
さて、5月からリライト・再掲しはじめた「新・パフ創業物語」も今週で最終章を迎えました。
先週は「番外編」と称して、ちょっと寄り道をしましたが、本日からまた本編に戻っての再開です。
本編の前回(第46話 )は、若手起業家の支援をしているKさんから500万円の出資を得たところで終わっています。
本日はこの続きの第47話「社名はどうするんだ!?」です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1997年11月初旬。
会社の設立日をいつにするか?
大株主のKさんにも相談したところ「1日でも早い方がよい」と言われました。
ボクも会社を作ると決心した以上、いまの会社の仕事をなるだけ早く引き継ぎ、スッキリしたいという気持ちになっていました。
いろいろ考えたあげく、設立日(銀行への資本金払い込みの翌日で法務局への登記日)は、「イッチニイッチニ」の12月12日にしよう!と考えたのでした。
当時ボクがサラリーマンとして仕えていたH社の社長にも、12月いっぱいで会社辞めて、新しく会社を作りたい旨を話しました。
H社の社長も若いころ、リスク覚悟で大企業からスピンアウトした人なので、ボクの独立には十分理解を示してくださり、結果的には同意してくれたのでした。
心配された資本金も、どうにかこうにか1,000万円調達のゴールが見えてきていたのですが、実はもうひとつ先送りにしていた問題が残されたままでした。
それは「社名」です。
ふつう会社を作ろうなどという奴は、最初から社名を考えているものでしょうが、ボクの場合、まったくのノーアイディア。
会社設立に向けて、定款だとか発起人議事録だとか株式申込証だとか、実に様々な書類を作らなければならないのですが、すべてにおいて社名は当然必要となります。
社名が決まらないと、それら書類に押す会社の実印すら作れない。書類作成期限までさほど猶予がないというのに、「これだ!」という社名が浮かばない。
ぜんぜん案がなかったかというとそうでもなくて、いま思い出しただけでも恥ずかしくなるような変な社名は、頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かびしていました。しかし、これといったものがなく、ちょっとしたスランプに陥っていたのです。
「社名も考えつかないなんてなー。オレ本当にやる気あんのかな……」
そう思いながら、夜、ひとりで地下鉄(丸の内線でした)に乗りこんだボクのあたまの中に、ある名曲が突然流れてきたのです。
♪Puff the magic dragon lived by the sea, and frolicked in the autumn mist in a land called Honahlee…
1960年代、アメリカの3人組のフォークシンガー、P.P.M(ピーター・ポール&マリー)が唄った、その名も「Puff(パフ)」という曲でした。
「Puff」とは歌に登場する主人公。子どもたちが大好きで、いつも一緒に遊んだり冒険に出かけたりする「魔法の竜」の名前だったんです。
どうしてこんな歌が突然浮かんできたのか?
原因は不明なのですが、ともかくもその時のボクは目から鱗が落ちたように、
「そうかー。『パフ』っていうのも悪くないな。魔法の竜ということは、いままで運営してきた『登龍門』にも通ずるところがあるしな。若い学生相手の仕事だし。なんだか夢があるし。おまけに短い社名だから、印鑑を作るお金も安くて済む。そして何より覚えてもらいやすい!」
もはや、もうこの社名しかない!という勢いで、自分の気持ちを固めつつありました。
帰宅して、カミさんと娘に社名の報告。このときの娘は幼いながら、ボクが独立して会社を作る、ということを理解していたようです。
ボク「決まったよ!社名」
娘「え?何にするのー♪」
ボク「パフ」
娘「パフ?なにそれ?パフやだ、パフやだー!」
ボク「えー、そんなこと言うなよー!もう決めたの!」
という、思わぬ身内からの反対はあったものの、他の支援者のみなさんの評判は概ね良好で、新会社の社名は 『 パフ 』 ということで、様々な書類作り及び印鑑の発注が始まったのでした。
さーて、あとは……。
あー!オフィスどうしよう?机も椅子も必要だし!!
( キミキミ!事務所も決まってないの?つづく)
講演会などで「パフの社名の由来」を説明するとき「若者の社会への巣立ちを喜ぶ、強くて優しいパフのような魔法の竜になりたくて・・・」などとそれっぽいことを語っていますが、真実は上に書いてある通りなのでした。
とはいえ、この社名はとても気に入っています。
それまで「パフ」という唄はカラオケでも歌ったことがなかったのですが、社名にした以上はちゃんと覚えなきゃ、ということでCDを慌てて買ったりもしました。
来週末に開催する「社長引退記念ライブ」でも歌うつもりです。ぜひ皆さんも聴いてやってくださいね(^^♪
さて、本日は朝イチで会社です。ホントは朝からスタジオを借りて練習するはずだったのですが……。
では、朝食&今日から再スタートするエール後、行ってきます!
新・パフの創業物語<番外編>「仙台の志田かっちゃん」
2020年9月11日 (金曜日)
今週は、創業物語<番外編>として、創業時の株主で、とくにパフの若い社員たちにも知っておいてほしい方々のことを紹介してきました。今回はその締め括りとして「仙台の志田かっちゃん」をご紹介します。昨日の「仙台の菅原さん」の続編「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第75話を再掲してご紹介します。
「求人サイト『登龍門』で出会った人々(その5)」 2006/05/22
前回のコラムで、メディアバンクが東北・仙台で開催した学生向けイベントのことを書いた。もう10年以上前のことである。前回も書いたが、このイベントに招いていただいたことで僕は、かけがえのない出会いを得ることになる。
このイベントには、地元(東北地方)の30社ほどの企業が出展していたのだが、気になる会社がその中に1社あった。
数週間前に『登龍門』に掲載を申し込んでくれた「サイデック株式会社」という会社だ。
仙台に本社を置く会社で、電子部品や精密機器の包装資材を供給しているメー カーだ。国内のいくつもの大手電機メーカーが取引先で、この分野では大きな 影響力を有している会社である。
「へー、サイデックさんも出展してるんだ。あとでご挨拶させてもらうとするかな」
イベントの全プログラム終了後、出展企業同士の情報交換を兼ねた懇親会が開かれた。
ビールでの乾杯後、サイデックの担当者を探すことにした。会場で遠目に見て チェックしていたのだが、とても体格のいい人だったので、苦労することなく探し出すことができた。
「あのー、サイデックさんですよね? 私、登龍門の運営責任者のクギサキと申します。先日は掲載をお申込みいただきまして、ありがとうございました」
「え、クギサキさんですか!ぜひお会いしたいと思ってましたー!!」
こんな感じで名刺交換をし、二人の初めての会話は始まった。
もらった名刺を見てびっくりした。「常務取締役」と書いてある。常務といえば、会社の重鎮である。ナンバー2とか3のポジションだ。
名前は、志田雄彦(しだかつひこ)さん。常務という役職に似合わず、飾らない気さくな人柄で、すっかり二人の会話は盛り上がっていった。
志田さんの年齢は僕と同じ(当時35歳)。子供の年齢も同じ(当時4歳)。 子供が女の子だということも同じ。ついでに言えば、愛(恐)妻家だということも同じ。他にも共通点がたくさんあり、なんだか初めてお会いしたとは思えないような親しみを覚えた。
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このイベントから1年半後。僕は仙台まで志田さんを訪ねた。H社を辞め、独立することを告げるためだ。
志田さんはビックリした様子だったが、我がことのように喜んでくれ、独立後も応援してくれると言ってくれた。仙台駅前の料理屋さんで、東京行き新幹線の最終ギリギリの時間まで、二人で酒を酌み交わした。
そしてパフ設立後。志田さんは約束どおり、パフの協賛企業第一号として、契約を交わしてくださった。パフに何の実績も能力もない段階の時である。
志田さんは、それから現在に至るまで、パフの良き理解者として、ほとんどの社員たちと(お酒の席を中心に)交流を持ってくださっている。
社員たちとだけではない。企業同士の会合の席などでも、その独特で天真爛漫な(明るく元気で野性的な)キャラクターを存分に発揮しながら、パフの『広告宣伝部長』として大活躍してくださっている。
ある協賛企業の方に「パフを語るとき、志田さんを抜きにしては語れない」と言われたことがあるが、まさにその通りだ。志田さんとの出会いがなければ、 今のパフはないといっても過言ではない。
ということで今回は、『登龍門』を通じた出会いの5人目(通算47番目の出 会い)。サイデック株式会社の社長(当時常務)、志田さんでした。
※志田さんは2003年3月、サイデック株式会社の代表取締役社長に就任。 現在に至っています。
このコラムを書いたのが14年半前。志田さんとの出会いが、そこからさらに遡ること10年前。つまり志田さんと出会ったのは、いまから四半世紀も前になるわけですね。
当時僕らは35歳だったということに、このコラムを読んだいまビックリしています(笑)。
このときのコラムには書きませんでしたが、志田さんに独立を告げた直後、志田さんは即座にパフへの出資を決めてくれました。
パフ創業から5年間くらい、僕は月に最低一回は仙台に出張して、採用コンサルだけでなくITコンサルのようなこともやらせてもらっていました。目的の半分は、国分町で飲むことだったように思いますが(苦笑)。
👆5年ほど前のかっちゃん@仙台
いまでは会える機会は年に数えるくらいになってしまいましたが、いつも会えば深夜まで大いに盛り上がってしまいます。お互い、いい歳なのに……。
パフの10周年式典のときも、20周年式典のときも、登壇していただいて楽しいコメントをいただいたりもしていました(20周年のときは紅白歌合戦の審査員でしたねw)。
志田さんは通称「かっちゃん」と呼ばれています。僕もオフタイムでは、いつも「かっちゃん」です。かっちゃんとの友情は一生もの。これからもずっとお付き合いが続いていくことは間違いありませんね。
さて、来週は創業物語の本編に戻り、いよいよ最終章を迎えます。最終回は、リライトではなく新たに書き下ろそうかとも考えています。
ではまた来週もお楽しみに(@^^)/~~~