パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

幼いころを思い出してみる(休憩)

2014年10月30日 (木曜日)

我が家は貧乏だったので、カメラという高価な文明機器を持っていなかった。

よって、幼いころの写真がきわめて乏しい。

下の写真は、小学校入学前の写真として唯一手元に残っているもの。いわば、僕にとっての貴重品である。

kugi5yearsold

この日記にデジタルデータとして載せることによって、半永久的に後世に残っていってくれるかな?

けさは日記執筆のための時間が取れなかったので、「湯布院編」の執筆はまた後日。本日はちょっと休憩ですね(^_^;)。

(明日は書けるかな?続く…)

 

 

幼いころを思い出してみる(4)

2014年10月29日 (水曜日)

いったい、いつまで続くんだろう…と、自分でも不安になりながら今朝も執筆を続けます(´・_・`)。

他にも断片的ではあるが、いろいろと覚えている幼稚園時代の出来事がある。

●当時、住んでいた家には風呂がなく、大きな共同温泉(都会でいう銭湯)に通っていた。しかも女湯に(!)。男女の下半身の造りの違いをいつも不思議に感じていた。

●普段は旅館の仕事で滅多に家にいることのない父親が、その夜は珍しく家にいて、僕の隣で寝てくれた。落語の小噺を面白おかしく喋ってくれた。なんだかとても嬉しくて幸せな気持ちだった。

●七夕の日(7月7日)、幼稚園ではひとりひとりに小さな笹が配られた。色紙をはさみで切って作った短冊に願い事をたくさん書いて、その笹に括り付けた。その笹は各自家に持って帰って親に見せることになっていた。しかし家に着いた時には、括り付けたはずの短冊はひとつも笹に残っていなかった。実は、人吉地方はこの日午後から大雨。笹の短冊は、帰り道に雨に打たれ、すべて流されてしまっていたのだった。当然、家で大泣きして母親を困らせた。

●当時、幼稚園には毎日お弁当を持って行っていた。ジャングル大帝のイラストが施された、お気に入りのお弁当箱だった。うちの母親の作る弁当は美味しかった。しかし、その日の弁当だけは、なぜかとても不味かった。理由は分からないが、びっくりするくらいに不味かった。全部食べることができず残してしまった。先生から怒られた。僕は悲しくて大泣きした。先生から怒られたからではない。いつもは美味しいはずの弁当が、食べられないくらいに不味かったことが悲しかった。弁当に残ったおかずやご飯を母親に見せてはいけないと思い、帰り道、川に捨ててしまった。

●夏休みに、家族みんなで旅行をした。(たぶん)生まれて初めて動物園に連れて行ってもらった。ライオンやトラやキリンの実物を見て、感動した。それ以上に、家族みんなで一緒に出掛けられたことが、とても嬉しかった。

●休みの日、朝から一人で留守番をしていた。夕方になっても誰も帰ってこなかった。大泣きした。暗くなってやっと母親が帰ってきた。腹ペコだった。肉なしカレーライスを作ってもらった。不味かったけど幸せだった。

これらは、1966年4月から11月までの、約8か月の出来事。正確かどうかは分からないが、50年近く僕の記憶の中に生き残っていた他愛もない出来事の欠片である。

さて、人吉(熊本県)の幼稚園時代の話はこれくらいにして、次回からは湯布院(大分県)に移り住んでからの話を書いてみたいと思う。

(懲りずに続く)

幼いころを思い出してみる(3)

2014年10月28日 (火曜日)

5月の初夏の陽気の日だった。幼稚園が終わり、いつもどおり帰りのバスに乗った。

なんだかボウっとしていた。バスを降りて家まで歩いていた。自分の影がゆらゆらと踊っていた。自分の頭もくらくらしていた。

「あれ?なんだかおかしいぞ」。自分でも気が付いていた。

フラフラしながら自宅までやっと辿り着いた。でも、母親は勤めに出ていて家には誰もいない。玄関の土間から靴を脱いで部屋に上がり込む力はすでに残っていなかった。

ここでいったん記憶は途切れる。

目が覚めた時には布団の中にいた。片側には白衣をまとったお医者さんと看護婦さんがいた。そして反対側には心配そうに覗きこむ母親の顔が見えた。

本当に不思議なのだが、この目覚めた瞬間の景色は、この50年近くずーっと頭の中に焼き付いている。

病名は、あとから知ったのだが、はしか(麻疹)に罹っていたのだ。倒れた日から数えて完治するまで2週間ほどかかった。

久々に幼稚園に行けることになった日のこと。季節は、もうすっかり夏になっていた。

病み上がりということもあり、母親が仕事を休んで付き添ってくれた。

緊張しながら幼稚園の門をくぐった。

園児たちが遊んでいる姿を見てショックを受けた。僕が着ている制服と違うのだ。

僕がはしかで休んでいる間に衣替えとなり、制服制帽が夏物になっていたのだが、そんなこと5歳の僕が知る由もなく、悲しくて泣きだしそうになった。

教室に入った。なんだか皆がよそよそしく感じた。

でも、先生は久々に登園した僕を見て喜んでくれ、制服の違いで受けたショックも和らいできた。

しかし、その数分後、さらなるショックを受けることになる。

先生がオルガンを弾き、園児全員での「朝の唄」が始まったのだが、僕の知らない唄だった。僕が休んでいる間に教えられたと思われる「新曲」だったのだ。

一生懸命、他の園児の口の動きを真似しながら歌おうとするのだが、ついていけない。悲しくて悲しくて、ついに僕はワンワン泣き出してしまった。

大泣きしている僕を見て、先生はやっと気が付いてくれた。オルガンを中断して、僕のところに駆け寄って来た。

「ごめんね、クギサキ君、この歌まだ知らなかったんだよね、ごめんごめん」

母親も、僕の泣き方があまりに酷かったので、心配そうに駆け寄ってきて頭をなでてくれた。

 どうってことのない5歳児の1シーンなのだが、人間というのは不思議なもので、こんなことを50歳を過ぎた今でも覚えているのだ。

(次回に続く。明日は書けるかなあ…)

 

幼いころを思い出してみる(2)

2014年10月24日 (金曜日)

僕の父親の職業は流しの板前。まさに「包丁一本」で、いろんな温泉旅館を渡り歩いていた。僕ら家族がそれまで暮らしていた八代市日奈久から人吉市に引っ越したのも、父親がそれまでの日奈久温泉の旅館から人吉温泉の旅館に仕事場を移したことによる。

人吉市で暮らしていた家は、それまでの日奈久の家に比べると、いくぶん広かった記憶がある。寝る場所と食事をする場所は別々だったし、なにより「すごい!」と思ったのは、それまでの共同便所から家の中に我が家専用の便所があったことだ。

ひとりで便所に行くことができなかった僕にとって、この専用便所は革命のようなものだった。都度、僕を便所まで連れて行かなければならなかった母親も、おかげでずいぶんと救われたことと思う。

僕がひとりで便所に行けるようになったからかどうかは分からないが、母親はこのころから勤めに出るようになった。生命保険会社の外交員だったと記憶している。生保会社の社名と母の名が刷り込まれた名刺が、なぜか脳裏に焼き付いている。

通っていた幼稚園は、人吉市の青井幼稚園というところ。国宝にも指定されている青井神社の境内にある。自宅のあった人吉温泉街からはかなり遠く、毎日バスで通っていた。母親が働き始めていたこともあり、幼稚園が終わって家に帰っても誰もいない。小学校5年生だった兄が帰ってくるまで僕は一人ぼっちだった。そんなこともあり、ひとりでマンガ週刊誌を貪るように何回も何回も読んでいた。

現在の青井幼稚園。6年前、熊本出張した折に立ち寄ったときに撮影

現在の青井幼稚園。6年前、熊本出張した折に立ち寄った

このころ我が家では、週刊少年マガジンを定期購読していた。毎週、本屋のおじさんが自転車で配達してくれていた。発売日になると、家でそわそわしながら自転車の到着を待っていたことをよく覚えている。このころの僕にとっての一番の友達は少年マガジンだったのだ。僕は小学校に入学する頃には、ひらがなはもちろんのこと、カタカナや(ある程度の)漢字が読めるようになっていたのだが、すべて少年マガジンのおかげだと思っている。

この人吉市で暮らしたのは、僕の幼稚園入園時の1966年春から1966年秋までの半年ちょっと。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「オバケのQ太郎」といった歴史に残る名作がテレビ放映されていた時期とも重なっている。ビートルズが来日したのもこの頃だ。高度成長の波に乗った古き良き時代だったのだろう。

(続く。次はたぶん来週の月曜日かな?)

幼いころを思い出してみる(1)

2014年10月23日 (木曜日)

ふと、自分の幼いころから少年時代(15歳くらいまで)の思い出を綴ってみたくなった。本日からしばらくのあいだ、全国数十人の読者のみなさん、どうかお付き合いください。

—–

僕は1960年(昭和35年)11月30日生まれ。僕が生まれたとき父親は31歳、母親は37歳だった。

母親は当時としては珍しい6歳も年上の姉さん女房。そして僕は遅めの子供だったようだ(いまは37歳で子供を産むのは珍しいことではないが)。

熊本県の片田舎にある母親の実家(当時、旅館を営んでいた)で、僕ら家族は、母親の父と母(つまり僕の祖父と祖母)と、母親の兄の家族(僕にとっての叔父と叔母と従兄姉たち)と一緒に暮らしていた。

この母親の実家で暮らしていたのは僕が3歳くらいの頃まで。当然、僕にはそのころの記憶はない。

しかし、中学生になるくらいまでは、この実家にしばしば遊びに行っていたので、いまだに僕にとっては懐かしい思い出の地である。赤ちゃんだった僕を、毎日のようにおぶってあやしてくれたという従兄や従姉は、(もう何年もお会いしていないが)いまだに僕にとっては実の兄や姉のような存在である。

ところで、僕を37歳で生んでくれた母親。大正12年(1923年)11月24日生まれなのだが、実は僕はその本当の年齢をずっと知らなかった。というか、当の母親にサバ読んで教えられていた。

昔の戸籍というのは、けっこういい加減で、戸籍謄本に記載されていた母親の生まれ年は、なぜか昭和3年(1928年)。実年齢よりも5歳も若く記載されていた。

当の本人もそれをいいことに、ずっとその年齢を自分の年齢だと偽っていた。なんと、実の息子である僕にさえも、自分は昭和3年生まれであると(ほんとは大正生まれのくせに!)嘘をついていたのだ。見栄っ張りなのか何なのか。それを知った時の僕(もう20歳くらいだったけど)は、「は…?、まじ…?、アイドルじゃあるまいし…、ったくもう、もっと早く言えよ!!」と、憤りを通り越して、あきれてしまったものだ(+o+)。

 

それはさておき、僕の幼少の頃。

記憶に残っているのは、4歳くらいからだ。時は1964年。そう、東京オリンピックの年だ。

僕ら家族は、それまで住んでいた母親の実家から、父親の実家のすぐそばにある熊本県八代市日奈久のオンボロ借家に引っ越していた。

僕の家族は、父と母、そして5歳年上の兄と僕の4人家族だった。

この家族4人は、6畳一間+土間の小さなオンボロ借家(専用の便所も風呂もない)に肩寄せあって暮らしていた。その頃のことは、なぜかよく覚えている。押入れの襖に、マジックでさんざん落書きをしていたのだが、不思議と怒られなかった。つまり、何をやっても構わないほどのオンボロ借家だったのだろう(笑)。

このころの僕は、とてつもなく泣き虫だった。なにか気に食わないことがあると、いつも泣き叫んでいた。いま考えると、4歳のころから反抗期が始まっていたのかもしれない。

しかし、そんな泣き虫で反抗的だった僕も、5歳になると幼稚園に通わせてもらえることになった。初めての集団生活に緊張していた僕は、母親の後ろに隠れながら登園した入園式の日のことをよく覚えている。

(明日以降に続く)

 

なな子のヒモ生活

2014年10月22日 (水曜日)

一昨日の昼食は午後4時で、夕食は午後10時。昨日の昼食は午後3時で、夕食は午前零時。そしてお茶と味噌汁代わりに飲んだのが、芋焼酎と缶ビール。

うむ、どう考えても健康的とは言えないが、連日、来客や打ち合わせや会議が詰まっており、通常の時間に食事が出来なかった。

そんなとき、僕の強い味方になってくれたのがコレ。

nanako

 

 

 

 

 

 

 

 

会社から徒歩1分。夜遅く自宅に帰るときにも、地下鉄出口のすぐ傍に、なな子の家はある。

どんなに中途半端な時間でも、サラダやお弁当、おにぎり、パン、ビールを常備してくれている。そして上のカードを見せるだけで、好みの食事を振る舞ってくれる。

財布にお金が入ってなくても大丈夫。滞在時間は数分なのに、文句を言われるどころか「いつもありがとうございます♪」と気丈な笑顔を見せてくれる。なんて良い子なんだろう。

とはいえ、2日で4食をなな子に頼るのは、さすがに不健康な気がしてきた。毎食、意識的にサラダを中心に食してはいるのだが、なな子に食べさせてもらっているというヒモ感は拭えない。

今日こそはまともな時間に、普通の食事をしたいと思うのだが、予定表をみると今日も難しそう……。

せめて今夜は帰り道になな子の家ではなく、親友の「吉野君の家」にお邪魔して食べさせてもらうことにしよう(´・_・`)。

と、くだらないことを書いたところで、朝食だけは正妻宅でまともに食べてから行ってきます!

 

 

日記ネタが乏しい日

2014年10月21日 (火曜日)

さて、困った。本日は日記ネタがないぞ。

昨日は、

8時~8時45分 営業進捗チェック会議

8時45分~9時 朝礼

9時~11時 デスクワーク

11時~15時 会議4種ぶっつづけ

15時~17時半 デスクワーク&昼食

17時半~19時 中途採用の面接

19時~19時半 セミナールームに移動

19時半~20時半 職サークルアカデミー(プロ出前講座見学)

20時半~21時半 打ち合わせ

という一日。

イライラしたり、モヤモヤしたり、クスクスしたり、ザワザワしたりはしたが、日記に残そうと思えるようなネタはなかった。

ということで、本日は執筆断念。まあ、こんな日もあるさ(´・_・‘)。

では、朝食後、マッサン抜きで行ってきます!