パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

MSPというのは、(一部の)熱狂的なファンと、(多くの)冷やかな部下たちを擁した、オヤジ経営者バンドの名称である。このことは、この釘さん日記の読者であればとっくにご存じのことであろう(くどいほど、この日記で取り上げていたし)。

しかし、DMPという名前は初登場ではないかな?

D=ダイワコーポレーション

M=マングローブ

P=パフ

のことである。

この3社が共同で推進する、とあるプロジェクトがこのたび発足した。プロジェクトの主役はD社。D社をサポートするのがM社。D社とM社をコーディネートするのがP社・・・という役割分担である。

この3社プロジェクトの発足を祝い、そして成功を願うための、キックオフセレモニーが本日、東京の芝浦で催された。

出席者は、曽根代表取締役専務(D社)、今野社長(M社)、僕(P社)。そして、各社から女性2名ずつがそれぞれ選抜されてきた。それと、今回のプロジェクトをコーディネートする役目を担うP社のタカタが、本日のセレモニーの企画運営者(兼こま使い)として同席した。

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夕方6時。芝浦にあるお洒落なレストランに全員集合。美味しい料理とワインをとりながら、楽しい歓談が行われた。

「各社から女性が2名ずつが選抜された」と書いたが、実は選抜のための基準があった。

それは、『ボウリングが上手いこと』。

そう。

本日のメインイベントは、3社対抗ボウリング大会なのだ。

レストランでの歓談は7時45分で終了。その後、レストランのすぐ目の前にある田町ハイレーンに移動した。

田町ハイレーンについてビックリ。

Ca3c002800010001予約されている団体名が案内ボードに書かれていたのだが、わがDMPの社名記載がどこにもない。

が、 「高田様」という気になる名前がある。

まさか、3社の社名を差し置いて、タカタが自分の名前だけをボードに載せるなんてことないよな。まさか、そんな失礼なことをしでかすような奴じゃないよな……と、ムカムカしつつ、真相は藪の中。

 

そして、午後8時。

いよいよ、ボウリング大会は、今野社長の選手宣誓とともに開始された。

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1社3名の2ゲームトータルのスコアで順位を争う。会社対抗戦なのである。

皆、密かに闘志を燃やしていた。もちろん僕も。

これはまだ裏が取れていないのだが、D社の曽根専務も、M社の今野社長も、この日のために、隠れて練習していたらしい。

1ゲームめが終了した。

平均年齢が最も若いD社が一歩リードしている。M社とP社はどっこいだ。僕個人は、まだエンジンがかかりきっておらず、曽根専務に大きく引き離され、なんと楽勝できると思っていた今野社長にまでもリードを許してしまっていた。

しかし、まだまだこれから。2ゲームめで十分挽回可能である。

パフから選抜された選手は、イワサキとオオノ。イワサキは曽根専務も震え上がるほどの実力の持ち主。オオノの実力は未知数だが、何をしでかすか分からない不気味さがある。

僕ら3人は円陣を組んで、闘志を奮い立たせた。

いい感じで2ゲームめは進行していった。

各チームが最終フレームを迎えたときだった。

接戦である。なかなかいい勝負だ。さあ、あとひと踏ん張りだ。

しかし、皆の意欲が高まったこの瞬間、信じられない出来事が起きた。

「バシッ!」

突然、レーンの照明が消されてしまったのだ。

故障か?

一瞬、何が起きたのかわからなかった。

ただ一人、タカタの顔が引きつっていた。

実はタカタは、予約を「2ゲーム」ではなく、「1時間」で行っていたのだ。

一時間が経過したタイミングで照明が消され、ゲームが中断されるという非情なシステムだったのだ。タカタにとっては頭がクラクラするような瞬間だったのではないだろうか。なんたって3社の経営者が命運を賭けて臨んだ2ゲームマッチだったのだから。

 

しかし、つべこべ言ってもしかたない。 

我々は後ろ髪を引かれつつもボウリング場を後にし、3次会の会場へ向かった。カラオケのある居酒屋の個室だ。

ここでは敵も味方も、勝者も敗者もなく、お互いの健闘を労いつつ和やかに楽しく過ごすことになっていた。

『敗者の経営者が3次会の代金をもつ』という、屈辱のルールがあるにはあったが(苦笑)。

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 D社の曽根専務は、焼き肉を追加オーダーし、自ら焼いて、皆にふるまってくれた。

このニコニコの笑顔。実にうらやましい。

結局この日のボウリング大会。1ゲーム目の成績で勝敗を判定することになり、D社の優勝が決定したのだった。

しかも、曽根専務は、ダントツの個人優勝。

一方で、P社はまさかの最下位。まぼろしの2ゲーム目が成立しなかったことが悔やまれるが、ここは潔く、僕も負けを認めるしかない。

 

Ca3c003100020001  参加メンバーも全員、ゲームが途中で打ち切りになったことに対するわだかまりもなく、勝者を讃えながら、楽しい語らいが続いた。

ただひとり、タカタは、背を向けていじけていたが。

 

ともあれ、とても楽しく記憶に残る、DMPのキックオフセレモニーだった。

これから始まるプロジェクトの成功も祈りつつ、僕はボウリングのリベンジにしばし、闘志を燃やすことにしよう。

次回はタカタが、熱海で一泊二日のリベンジ戦を計画するという。

曽根専務、今野社長、逃げないでくださいね!!

きょうは朝から、いきなりテンションが上昇した。

8月下旬に開催する人事向けのセミナーの企画会議を行ったのだ。

テンション上昇の原因は、このセミナーにご協力いただく 「変人」の常見陽平さんにある。常見さんにも今朝の企画会議に参加していただいたのだ。

この会議で、常見さんの変人ぶりが遺憾なく発揮された。

僕は常見さんとは一昨日すでに交流(交遊)していたので、変人の片鱗を承知していたのだが、きょう初めて対面したセミナー企画班のホサカとナガサキは、びっくり&大喜び。

彼女らは、僕からまた聞きで常見さんの評判を聞いていたとはいえ、冒頭からの縦横無尽な話の展開を眼前にし、その凄さをリアルに体感したのではないかな。

約一時間のブレストの末、セミナーの骨子はほぼ完ぺきに決まった。セミナーのタイトルもばっちり決まった。

発表しちゃおっかなあ……。

でもきっと、常見さんが自分のブログで紹介してくれると思うので、僕はいったんそれを待つことにしよう。

そうそう……。

打ち合わせが終わり、常見さんが帰られた後、放心状態だったナガサキに、「常見さんって一橋のプロレス研究会出身なんだよ」と、何気なく伝えた。

するとナガサキは、「え! 私、あったことがあるかも!!」と即座に反応した。

「そ、そういえば、常見さんのこと、どこかで見たことがあると思っていたんですよ!!」と続ける。

ナガサキは、津田塾の陸上部出身で、一橋の陸上部と一緒に活動をやっていた関係で、いつも一橋キャンパスに出入りしていたのだ。しかも、プロレス研究会のファンで、よく公開試合を観戦しに行くこともあったらしい。

「あ、やっぱり。“うじきよわし”さんが常見さんだったんだ!!!」と、その正体を一時間もせぬうちに突き止めた。

これは凄い縁である。だから人間はやめられない。

ということで、8月下旬のセミナー(8月28日金曜日、午後4時開始予定。なんと懇親会付き!)。今から楽しみである。

Webでの告知と申込受付は、パフのホームページより、近日内に開始予定である。

世の中の就職と採用と変えたいと思っている「変人な人事担当者向け」のセミナーとなるはずである。

乞うご期待です!!

夜、某大手出版社が発行する若者向け雑誌の元編集長(Kさん)と元副編集長(Mさん)が遊びに来てくれた。

現在は、おふたりとも別の部門で活躍中なのだが、10数年前は、同じ釜の飯を食べていた方々である。

パフの事務所見学をしていただいたあと、お決まりの「球磨川」にお連れした。

編集者時代の裏話、苦労話など、いろいろとお聞かせいただいた。

またKさんは学生時代、僕と同じようにリクルートで、求人広告営業のアルバイトをしていたこともあり、そのころのお話も興味深かった(杉並区立和田中の元校長である藤原さんと同期なのだ)。

あれやこれやと話題が尽きず、焼酎もどんどんと進んでいった。

気がつけば、芋焼酎のボトルが3本。自分たちもびっくりするくらいよく飲んだ。球磨川で飲む焼酎はなぜかとても美味しく、いつも飲みすぎてしまうのだが、きょうはまた格別だった。

しかし、不思議と酩酊状態ではない。記憶も割としっかりしている。

元編集長Kさんは、昭和29年生まれ。元副編集長Mさんは、昭和33年生まれ。そして僕は昭和35年生まれ。

昭和の匂いをぷんぷんと漂わせたオヤジたちの、夏の夜の飲み会だった。

素晴らしき出会いの日

2009年7月28日 (火曜日)

何歳になっても、新しい「出会い」というのは嬉しいものだ。

ここで「出会い」と呼んでいるのは、単なる初対面での名刺交換レベルのことを言っているのではない。

いわゆる「同志」との出会い。同じ目的や志をもった仲間との運命的な出会いのことである。

 

先日の日記で紹介させてもらった常見陽平氏が、きょうの新しい出会いの人物である。

「アホ就職情報会社のバカ営業マン」という素敵なタイトルのブログで、僕が昔書いた記事を紹介してもらったことが、今回の出会いのきっかけとなった。

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夜、新宿の薄暗い焼酎Barで、他の仲間数名とで落ち合った。

※左端の人物が常見氏なんですが、ほとんど顔が判別できませんね。失敬!

 

 

 

氏のブログや著書から、古い枠組みに収まらない豊かな発想をもった人物であるということは理解していたが、実物も、まったくそのまんま(笑)。

なんて面白い人物なんだろう。いや、「面白い」という形容詞では、本人に失礼だな。なんだろう。

変人(ヘンジン)?

そう、変人。尊敬の念を込めて、変人と呼ばせてもらおう。だって、世の中を「変える人」が、変人なのだから。

 

常見陽平氏とは、 「8月下旬に一緒に人事担当者向けのセミナーをやろう!」ということになっている。

「人事担当者よ、目を覚ませ!!」という不遜なタイトルのセミナーが、我々には似合っていると思うのだが、さて、変人同士(同志)が開催するセミナー。どうなりますことやら……。

久々に真夏の太陽を浴びた日

2009年7月27日 (月曜日)

昨夜まで、九州の大雨の中で過ごしていたが、きょうからは、また東京の人。

東京は朝からよく晴れていた。しかも、「夏っ!」という陽気で暑かった。

朝の20分の徒歩通勤では、太陽の日差しを全身に浴びて、汗だくで会社に到着した。外の気温もぐんぐんと上がっていき、日中は30度を軽くオーバーした。

いよいよ本格的な夏である。わがパフにとっては、熱い商戦の夏である。

真夏の太陽を浴びながら、いい汗をかいて、お客様といい関係を築きながら、たくさんの仕事を受注したいものだ。

汗の量と、仕事の量とは比例する。

でも、くれぐれも脱水症状には気を付けて。

水分補給だけじゃなく、脳への(知識や教養という名の)養分補給も忘れずにね!

知覧を見て涙した日

2009年7月26日 (日曜日)

実はいま、鹿児島空港でこの日記を書いている。

ん、鹿児島? どうしてだ??

・・・と思う方がいるかもしれないが、計画通りの行動だ。今回の、福岡・熊本行きが決まったときから、鹿児島まで足をのばそうと企てていた。

僕は九州出身なのだが、鹿児島本土に足を運んだことは今まで一度もなかった。昔、家族で与論島に行ったことはあるのだが、与論島は鹿児島というよりも「沖縄のうえ」という感じなので。

鹿児島行きの目的はただひとつ。

- 知覧(特攻平和会館)を見ること -

だった。

今朝、熊本のホテルで食事を済ませた後、JR熊本駅に向かった。

特急電車で、熊本から新八代に行く。そして新八代から鹿児島までは、九州新幹線が開通している。一時間ちょっとで到着するのだ。新幹線は偉大である。

が、しかし!

熊本駅について唖然とした。

折からの大雨で、ダイヤが大幅に乱れている。みどりの窓口は大混雑だ。

窓口の行列に並ぶのも大変なので、自動券売機をみつけて、そこで鹿児島までの切符を買うことにした。

ところが!

券売機の画面に出てくるのは、午後の特急ばかり。まだ午前10時なのになぜだ?

構内アナウンスに耳を傾けてみると、福岡からの列車がほぼすべてストップしているのだという。ありゃりゃ。

結局、一時間ほど待って、熊本始発の普通列車に乗って新八代まで行き、ようやく新幹線に乗ることができた。

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新幹線に乗ってビックリ。車内がガラガラなのだ。

なるほど。福岡からの列車はストップしているわけだから、僕のような熊本以西から来た乗客しかいないわけだ。

予定の時間をずいぶんと上回ったが、午後1時過ぎにやっと鹿児島に着いた。

鹿児島もやっぱり大雨。桜島が見えるかなと期待したが、輪郭すら見えない。まあ、しょうがない。

そして目的地である知覧へ。次の観光バスまで一時間ほど待たなければならなかったので、タクシーを使うことにした。

しかし、ここでまた事件。

事故があったらしく道路が大渋滞していたのだ。事故は、この大雨のせいだったのかもしれない……。

結局、知覧に着いたのは、午後3時だった。当初の計画よりも3時間ほどの遅れだ。

僕は急ぎ、特攻平和会館に入った。

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ちなみに、知覧特攻平和会館のことをご存じない方のために、以下パンフレットに書かれている内容を転載する。
 
—–

この知覧特攻平和会館は、大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争ともいう。)の沖縄決戦で、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するものです。

——

展示コーナーには、1,036柱の隊員の遺影や遺書が展示されていた。隊員の年齢は20歳前後である。僕らのイベントに参加している大学生たちと同年代である。中には教育係などを兼ねて死んでいった30歳前後の少佐格の軍人もいた。

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遺書の多くは両親や弟、妹に宛てられたものだった。妻や幼い子供たちに向けた遺書もあった。全体の10分の1も見ていないのに、すでに僕の目には涙が溢れてしまっていた。

若くして死んでいったこの隊員たちの行動を無駄にしてはならない。どんなことがあっても平和を守らなければならない。戦争の悲劇を二度と繰り返してはならない。月並みかもしれないが、このようなことを、ほんの数十分の時間で痛切に思うに至った。

 

知覧のことはまた改めて書いてみたい。多くの若者たちに(うちの社員たちも含めて)、ぜひこの特攻隊員の遺書を読ませてやりたい。自分の悩みがいかに小さなものか。いまの時代がいかに恵まれたものであるか。わがままな自分と贅沢な時代に、きっと気づくことであろう。

 

 

そしていま。知覧の見学を終え、タクシーと高速バスを乗り継いで鹿児島空港に着いたというわけだ。

金曜、土曜、日曜の九州で過ごした3日間。実に密度の濃い時を過ごした。記録的な大雨の中、移動した距離も半端じゃない。でもそれだけに記憶にも残るんだろうな、きっと……。

どうやら九州は記録的な豪雨らしい。なにもこんな時に限って……。僕はよほどの雨男のようだ(苦笑)。

それはともかく、予定通り、本日はTさん宅を朝の9時に出発した。

向かうは「八代郡坂本村葉木」(現在は市町村合併で、八代市坂本町葉木となっているらしい)。

山と川しかない、とんでもない田舎だ。

実は昨夜から一緒にいるTさんというのは、僕の10歳上の従兄なのである。そして、向かう先は、Tさん兄弟や、僕と僕の兄が生まれた村なのである。

Tさん兄弟(4人)と僕と僕の兄は、僕の父・母・爺さん・婆さん・叔父さん・叔母さんたちと全員一緒に暮らしていた。超大家族なのだ。特にTさんは、生まれたばかりの泣き叫ぶ僕をおぶって、面倒をみてくれたらしい。だからかどうかは知らないが、Tさんのことを皆は、「おぶあんちゃん」と呼んでいた。

この「おぶあんちゃん」(Tさん)のお母さん(つまり僕の叔母さん)が、昨年末亡くなられたのだが、僕はお葬式に伺うことができずにいた。ずっと気になっており、今回の九州遠征の機会にお参りさせてもらうことにしたのだった。

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この写真が、僕らが生まれ育った家なのだが、右にみえるのは球磨川。左は急斜面の山(というか崖?)だ。

この山と川に挟まれた家が釘さん生誕の地なのである。

昔は旅館でかなり賑わったのだが、いまはTさんの長兄ご夫婦だけがひっそりと暮らしている。建物も、もう築57年である。

 

久々に訪れた生誕の地。奥にある仏壇の叔母さんの位牌の前で手を合わせた。

これで、本日の大目的は達成した。

Tさんは、「せっかくここまで来たんやけん、人吉にでも行ってみるか?」と言ってくれた。

人吉(ひとよし)というのは、球磨川の最上流にある町で、生誕の地を離れた僕ら家族(父、母、兄、僕の4人)が、一年弱の短いあいだ住んでいた土地だ。僕が5歳のときだった。短い期間ではあったのだが、僕にとっては思い出深い土地。なぜなら僕の小さい頃の記憶は、この土地からスタートしているからだ。卒園(正確にいうと中退なんだけど…)した幼稚園も人吉にあった。

しかし、僕は5歳のとき以来、人吉には行ったことがない。44年ぶりの帰郷なのだ。

家があったであろう場所に行ってみた。もちろん昔住んでいた家はあるはずもなかったが、周囲の風景には見覚えがあった。

そして向かったのが幼稚園。青井神社という大きな神社のなかにある幼稚園なのだ。

Ca3c000600020001_2 うわー、懐かしい。だんだん昔の記憶がよみがえってきた。

幼稚園のある敷地まで行く。

昔と同じだ。44年前、僕は毎日バスでこの幼稚園に通っていたのだ。

ついつい嬉しくなって、パチパチと写真を撮り始めた。

Ca3c000800050001_2 なにごとかと思ったのか、若い保育士さんと園児が、「こんにちは、どうかされましたか?」と出てきた。

「あ、ぼ、僕、44年前にこの幼稚園に通っていたんです。いまは東京にいるんですが出張のついでに寄らせてもらいました。44年ぶりなので、ついつい懐かしくなっちゃって…」

と説明すると、保育士さんはニッコリ笑って、「ああ、そうでしたか。私もこの幼稚園の出身なんですよ」と、最近の園の話などしてくださった。

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記念に保育士さんと園児のツーショットをパシャッと撮らせてもらい、ブログへの掲載許可もいただいた。

保育士さん(お名前をお聞きするのを忘れちゃいました)、どうもありがとうございました。

 

 

生誕の地へ行きお参りをし、出身の幼稚園に行き、これでもう思い残すことはない。

Tさんと一緒に一路、熊本に戻った。車で2時間以上かかる。途中、大雨の隙間をぬって熊本ラーメンを食べたりしながらの、ゆったりとしたドライブだ。

そして夕方。

現在、熊本に住んでいる中学の同級生に会うことになった。4~5年前の同窓会で、数分会話したことがあったものの、きちんと会うのは30年ぶりだ。何を隠そう、中学時代、ずっと憧れていたマドンナなのである。

そのマドンナもすでに49歳。3人の子供のお母さんだ。上のお子さんはなんと25歳。時の流れの速さを痛感する。

雨の中、マドンナは僕を宿泊先のホテルまで迎えに来てくれた。いやー、久しぶり。ぜんぜん昔と変わらない。マドンナはいくつになってもマドンナなのだ。

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熊本料理の店で昔話に花をさかせながら食事をし、その後、お決まりのカラオケへ。短い時間だったが、「15歳のあの頃」に戻った幸せなひとときだった。

 

Ca3c001400010001_2 特別に許可をいただいたので(あれ?いただいたっけ?ま、いいですよね、笑)、記念に写真を載せることにしよう。

 

こんな感じで、熊本の2日めは幕を閉じた。

しかし、激しい雨はあいかわらず降り続いている……。