パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

世の中は10連休のまっただなか。

僕は連休初日の27日と翌28日は福岡で過ごした。

昼間はマジメに仕事をし、

 

夜はちょっとだけ不真面目にここらへんで過ごした(笑)。

 

それはともかく。

平日しか書かないこの日記なのだが、今日は平成最後の日ということなので、月並みではあるが、平成のこの30年間を振り返って書いてみることにした。

 

僕は昭和35年(1960年)生まれ。日本の高度成長とともに幼少期を過ごした。昭和39年(1964年)には東京オリンピック、昭和45年(1970年)には大阪万博の開催もあったりで、日本の未来にワクワクしたものだ。

そんな昭和が終わりをつげ、平成にバトンを渡したのが1989年1月。僕は当時28歳で社会人6年目。世の中は二度のオイルショックや円高不況を乗り越えて、バブル景気絶頂の時代を迎えていた。

僕にとって、大きなキャリアの節目となったのも、この平成元年からの数年間だった。

初の転職が平成元年6月。実はこの転職は失敗に終わったのだが、その失敗のおかげで前職と出会うことができた。

この前職で責任者となって企画したのが(当時はまだ珍しかった)パソコンを使った人事業務アプリ。その数年後の平成7年には、インターネットによる就職情報メディアの立ち上げを行うことになる。長女が生まれたのが平成3年だったので、公私ともに変化の激しかった平成一桁の時代だった。

そして平成9年10月、酒の場で衝動的に独立を決意。その2か月後の平成9年12月に株式会社パフを設立。一夜でサラリーマンから経営者に。青天の霹靂ともいうべきキャリアチェンジだった。

平成10年1月より、本格的にパフの事業を開始。しかし、世はまさにバブル崩壊とアジア金融危機による平成不況。大手金融機関の倒産・統合・合併が相次ぎ、経済大混乱の嵐の中での旗揚げだった。

しかし、平成13年くらいから景気は上向き始め、パフの事業も比較的順調に伸びていった。社員も徐々に増えていき(ちなみに新卒一期生・ヨシカワの入社が平成13年4月で、二期生・ホサカの入社が平成14年4月だった)、株式上場も視野に入れていたのが平成10年代。パフにとっては浮揚の時代だった。

過程ではいくつかの迷走があったものの基本は成長のときを過ごし、平成19年12月には無事設立10周年を迎え、「さあ、これからだ!」というときに襲ってきたのが、あの忌まわしきリーマンショック。平成20年9月のことだった。

そこからの3年間は業績が右肩下がり。赤字続きで負債は膨らむ一方だった。

が、しかし、希望だけは失っていなかった。

おやじバンドMSPの初ライブ(平成21年5月)や、新潟での50歳ライブ(平成22年11月)など、音楽活動を精力的にやり始めたのも、このリーマンショック後のことだった。

ランニングを開始したのもこのころから。初ハーフマラソンは平成23年2月。マラソン効果なのか、業績も回復の兆しを見せ始めていた。

しかし、平成23年3月11日。東日本大震災が突如として多くの人々の命を奪い、人生を狂わせてしまった。

回復の兆しを見せ始めていたパフの業績も振り出しに戻り、この年の決算も大赤字。資金も底をつき、もはや後がないところまで追い詰められてしまった。

が、後々考えれば、この平成23年の大赤字決算と、その後矢継ぎ早に実施したいくつもの施策が、現在のパフの礎を作っているのかもしれない。

すべての取引銀行に頭を下げてリスケ(返済スケジュールの見直し)を依頼したのが平成23年4月。マジックドラゴン株式会社という子会社(いまは休眠させてます)を設立したのが平成23年7月

同じタイミングで、何人かの社員にはパートナー企業に出向・転籍してもらう、という辛い決断も行った。事務所を、それまでの築地(東銀座)から茅場町に移したのも平成23年9月だった。

これら施策によって、平成24年の決算は黒字となり、3年間下がり続けた売上もやっと下げ止まった。いまのベテラン社員たちの力が急速に向上し、頼もしくなっていったのも、このリーマンショック後のつらい体験があったからこそだと思う。

平成25年からは新卒採用も再開。パフの仕事は昔に比べるとずいぶん高度になってきたのだが、ベテラン陣が頑張って若手の育成を行っている。20余年の歳月を経て、遅まきながらやっと会社らしくなってきたともいえる。

僕にとっての平成はいま振り返ると、元年から平成9年までの足掛け10年間がパフを作るための準備期間平成10年から平成30年までの約20年間がパフと一心同体、苦楽(生死?)を共にした期間だった。後付けではあるが、まさにパフのための30年間だったような気がする。

僕のキャリアとパフを生み育ててくれた平成の30年間に、あらゆる意味を込めて感謝したい。

そして、明日から始まる令和は、僕自身がパフを巣立ち、人生の最終章を始める新たな時代となっていくことだろう。

てなわけで、平成最後の日記を終わります。

では今夜は久々に、平成最後の家族サービスに行ってきます!

 

昨日はあさイチから久々にテンパっていた。

いま弁護士さんと、とある戦いに向けての準備(この日記でもちらちら書いているやつ)を進めているのだけど、その書類のチェックを昨日中に終えてほしいという依頼が未明にかかった。

なんで昨日中かというと、明日からの10連休のせいである。この書類を本日までに投函せねばならないのだそうだ。

その書類というのが、ファイル数で30個以上、ページ数で100ページ超。こりゃあてーへんだ。プリントアウトするだけでもえらく時間がかかってしまった。

気が付けばもうお昼。書類のチェックはぜんぜん進まず。

まだ、半日あるのだけど、昨日は午後イチから来客&ミーティングが詰まっていたため、弁護士さんに連絡し、チェックは本日の午前中までとさせてもらった(・・・ということで、この日記を書き終えたらすぐにチェックにとりかかります💦)。

 

で、昨日のメインイベントはここから。

12時過ぎに、名大社社長兼ふるさと就職応援ネットワーク会長兼パフ取締役…という長い肩書をもつ山田さんと、その部下のニムラくんが来社。

13時から始まるコラボミーティングに備えるためだ。

相手先の方々(COOと担当者)は、13時ちょうどにご来社。さらに社長(CEO)も大阪からSkype参戦。これからの方向性を確認し合う場となった。

このコラボ、まだ明らかにするわけにはいかないが、これからの新しい就職&採用を切り拓くうえでの鍵になると思われる。しっかりとやっていきたい。しっかりやってね山田さん(笑)。

 

このコラボミーティングの後、また別のコラボミーティングが始まった。

こちらには、名大社の営業のドンであるシゲノさんが新たに参戦。パフからも次代の経営を担う執行役員3名が勢ぞろい。そして、このコラボミーティングをファシリテートしてくださるマッピーさん(グロービス経営大学院の先生)も登場。

このコラボは「MAPプロジェクト」と命名されており、昨日はそのキックオフミーティングだったのだ。

18時までミッチリ、互いの事業や組織を理解し合うミーティングが実施された。

 

マッピーさんがまとめたWB。拡大しないでね(^^;

 

このMAPプロジェクトの趣旨は、名大社の昭和芸人ニムラくんが今朝のブログに書いてくれているので、気になる方はどうぞご覧ください。なんのことだか分からないと思いますが(笑) ⇒ MAP

そして会議室でのミーティング後は、近くの小さなお店での懇親会。僕は昼ごはん抜きだったこともあり、アルコールがカラダ中にすぐに浸透していき、あんまり覚えてないんだけど、えらく盛り上がった。ニムラくんは脱がなかったようだけど(笑)。

てなわけで、昨日は朝から晩まで、珍しくボーっとする時間がまったくなく真剣に仕事をした日なのでした。

では、これから朝食後、膨大な資料のチェックをしてから行ってきます!

 

<追伸>

世の中は明日から10連休なのですが、わたくし日曜日までオシゴトであります。平成最後の日記は、日曜日のオシゴトが終わったら書こうと思います。

病院で内視鏡検査を受けた日

2019年4月25日 (木曜日)

昨日は日記にも書いた通り、朝から病院に行き、内視鏡検査を受けてきた。

僕は昨年の春先から咳喘息のような症状が数か月続き、その原因も分からずに苦しんでいた。

通院していた呼吸器系の医師から「これは逆流性食道炎が原因かもしれませんね。専門の病院を紹介しますので検査してもらってください」と言われて、専門の病院で内視鏡検査など受診したのが昨年の7月。

「たしかに逆流性食道炎ですが、それほど重症ではないです。それより胃にポリープがあります。幸い悪性ではなく、まだ切除するほどの大きさではないのですが、急変する可能性もありますので、半年後にまた検査を受けに来てください」との医師の説明だった。

「瓢箪から駒」というか「逆流性食道炎から胃ポリープ」ということで(ぜんぜん例えが違うねw)、昨日は、ポリープが急成長していないかを確認する検査だったのだ。

もしポリープが大きくなっていたらその場で切除する予定だったのだが、幸い昨年の大きさのままで、切除の必要なしと判断された。

しかし、その後の医師の話。

「ポリープは引き続き経過観察ということで問題ないのですが……」

「え、な、なにか?」

「逆流性食道炎の方が悪化してるみたいですね」

「・・・」

「風邪でもないのに咳が出たりします?」

「ああ、たまに」

「胸焼けしたりとかは?」

「ああ、たまに」

「そうですよね。それは逆流性食道炎が原因でしょうね」

ということで、その後いろいろと指導を受けた。いちばんは「一回の食事は控えめに。まんぷくになるまで食べちゃダメ」ということだった。

最近は太り気味なので(というか腹回りが史上最高の成長をみせているので)、飲みすぎ食べ過ぎには注意しなきゃと思っていた。目的は違うけど、ちょうどよかったのかも(苦笑)。

ということで健康第一。

健保の定期健診(数時間で終わる簡単な人間ドック)は毎年受けているのだが、それだけでは見つけられない体の不具合もたくさんあるようだ。

今後は、一泊二日の本格的な人間ドックでも受けてみようかしら。あと10年はフォークソング居酒屋で元気に働きたいですからね。

では、控えめの朝食&自分の演技に悩んでいるなっちゃん応援後、行ってきます!

 

子分と2年ぶりに対面した日

2019年4月24日 (水曜日)

いまから7年以上前のことになる。職サークル主催のイベントに、奇妙な学生が紛れ込んできた。

鼻だったか耳だったかにピアスをして、ズボンはお尻が見えるくらいにずり下ろし、アタマは丸坊主。私服で参加できるとはいえ、就職をテーマとしたイベントの場にはまった相応しくない恰好だった。

当時は、まだ僕がイベントの司会やコーディネーターとして運営にも携わっており、「なんだ、あいつは? なにか変なことしたらすぐに摘まみ出せ!」と、スタッフに命じていた。

ところが彼は、その外見とはまったく違って、とても素直で謙虚。イベントの片付けなども率先して手伝ってくれた。

話を聞くと彼はまだ大学二年生。関わっていた(パフがイベントの告知を依頼していた)学生団体の先輩に命じられて参加したのだという。

彼は、その後のイベントにも自分の意志で頻繁に顔を出すようになり、僕ともなぜか仲良くなっていった。

彼の名前はカメ(本名は違いますよw)。

「おいカメ、おまえ俺の子分になるか?」

「はい、親分!」

という契りがあったのは、彼が大学三年生になるころ。

その後は、まさに僕の子分のように、いろんなことを手伝ってもらった。名刺も持たせていた。さすがに名刺に「子分」と書くわけにはいかず「インターン生」と書いていた気がする(笑)。

あ、そうそう、彼はドラムを叩くこともできたので、僕のライブにも2年連続で出演してもらっていた。使いパシリはもちろん、ステージで前説なんかも無茶ぶりでやらせたりしていた。

そんな彼も大学卒業後、とあるサービス業界の中堅企業に就職していった。僕はパフで雇いたい気持ちもあったのだが、彼のことを毛嫌いする社員が当時いて断念した(いま初めて明らかにしますw)。

卒業後も何回か会ったり、メールでやりとりをしていたのだが、この2年半くらいは、彼には会えていなかった(というか彼は消息不明になっていた)。

それが先日、急に僕の携帯に電話があった。

「あ、ご無沙汰してます、子分のカメです」

「なんだお前、生きてたのかよ!」

まあ、そんな感じの久々の電話での会話だ。

聞けばカメの会社では、このほど営業所を秋葉原に立ち上げることになり、カメはその責任者として着任したのだという。

「じゃあ、とりあえず会社に来い。メシぐらいご馳走してやるから」

ということで、昨日の夕方、カメは2年ぶりにパフにやってきた、というわけだ。

カメは現在社会人5年目。新しくなった名刺を見ると「部長」と書いてある。ほほう、なかなかやるじゃないか。

その後、近場の中華料理屋に連れて行って、いろいろな近況を教えてもらったのだが、まさにマネージャーとしての視座での話も多く、あのズボンずり下ろしのピアス野郎が、よくもまあこんなに成長したものだと嬉しくなったのだった。

 

カメは来年には東南アジアに渡って飲食店を出店する計画も持っているのだそうだ。やるね、なかなか。そのうちフォークソング居酒屋も手伝ってもらうかな(笑)。

ということで、本日の日記は子分カメとの再会ばなしでした。

 

さてと、実は僕はこれから会社を休んで病院に行く。全身麻酔をしたうえで消化器官の内視鏡検査を受けることになっている。年明け早々には受けなければならなかったのだが、なんだかんだで先延ばししてしまった。

「前日の食事は20時までには終わらせてください」ということだったので、昨日の中華料理も20時ジャストで打ち止めにしたのだが、大丈夫かな(苦笑)。

では、今朝は食事抜きで、なつぞら後、病院まで行ってきます!

 

ちょっと前の日記( よわい者いじめをするな。強い者の理不尽に負けるな。2019年2月7日 の日記 )で、「筋の通らないイチャモンを付けられてしまって憤慨している」ということを書いた。

そして、「売られた喧嘩は買わなきゃ男じゃない」「強い者の理不尽に負けるな」「義を見てせざるは勇無きなり」……なーんて勇ましいことを書いていた。

僕はどっちかというと平和主義者で、争いごとは好まない。なので、できれば喧嘩になるまえに丸く収めたいと思っていたのだけど、今回は無理やり土俵に引きずり込まれてしまったのでやむを得ない。勝負する。

ということで、昨日はその勝負に勝つための準備を進めていた。

第一ラウンドが連休明け早々に大阪で始まるのだが、第三ラウンドまでには敵をリングに沈めたいと思っている。

昨日の準備状況を見る限りは、こちらにはまったく隙がない。対する相手は隙だらけ。イチャモンの論理が破綻しまくっている。そもそも筋の通らないイチャモンなのだから、論理なんてあるはずもないのだけど。

早く決着をつけて今回のイチャモンの事実を世の中に知らしめたい。業務妨害で訴えたいくらいだけど、ま、それはいま売られている喧嘩に勝ってからかな。

ほとんどの読者の皆さんには何のことだか分からないと思いますが、経過を日記に残しておくことも大事なので、本日はご容赦のほどを(^^;

さて、本日は数年ぶりに子分が僕のところにやってくる。堅気の仕事にはもう慣れたかな?

では、本日はちょっと早めに行ってきます。なつぞらは録画して今夜観ます!

 

平成最後の皇居ラン

2019年4月22日 (月曜日)

先週末は、皇居ランを決行した。

今週末は(GWなのに)福岡に出張となってしまったので、おそらくこれが平成最後のランニング。

であれば、やっぱり皇居を走ろうと思ったのだ。

まずは自宅のある浜町公園付近から皇居の大手門まで準備運動を兼ねてのジョギング。約3kmの距離だ。

そこから左回りで皇居を一周するのがいつものコース。

 

 

上の写真は大手門から平川門に向かう途中で咲いている八重桜。ソメイヨシノよりも2~3週間遅れで満開になるこの桜。ピンクの色がキレイですよね。

 

 

時間は6時前。夕暮れ時だ。向こうに見えるのは毎日新聞やマイナビさんの本社があるパレスビル。前日はあのビルの2階で打合せしてたんだよな……。

 

平川門から北詰橋門、そして千鳥ヶ淵の交差点に出る。

いつもならここを左に曲がって、千鳥ヶ淵公園を抜けて内堀通りを桜田門まで駆け降りるのだが、この日は反対の右に曲がった。

千鳥ヶ淵沿道を走ってみようよ思ったのだ。

 

2週間前まで、このあたりは花見客で大賑わいだったはずだが、いまでは桜の花も散ってしまって、人影はない。

でも景色はいいし、ランニングするには絶好の環境だ。

 

 

 

ボート乗り場もあるんですね。ここでデートするのもいいかもね(#^^#)。

 

咲き遅れたソメイヨシノが寂し気にひっそりと。

 

 

沿道にはまっすぐツツジが植えられています。あと1週間もすれば、一面見事な色で染まりそうですね。

 

 

対岸に見えるのも遅咲きのソメイヨシノ。あの向こう側は北の丸公園、そして武道館ですね。

 

そして靖国通りに出て、九段下、神保町、大手町、日本橋を抜けて、また自宅のある浜町公園まで。約10kmのランニングでした。

最近は走ることが激減したのだけど、こうやってのんびりとマイペースで走るのはいいものだ。

平成のランはこれで終わりだけど、令和になったら週に1回は走ることにしよう。

まずは令和の第一日目は、朝ランして朝日を浴びるつもり。晴れますように。

そういえば昨年は、北海道ひとり旅のとき富良野の町を朝ランしたなあ。今年もまたふらっと行ってみようかしら。

では、昭和30年の十勝を描いているなつぞらを観てから、行ってきます!

 

分かる人にはわかると思うけど、井上陽水の名曲の数々で日記タイトルを作ってみました。考えるのに10分くらいかかってしまったけど(笑)。

昨夜は、井上陽水のデビュー50周年記念ライブ。数か月前にチケットを入手してこっそりと行ってきた。

 

 

陽水のライブには昨年初めて出かけたのだけど、そのときに生で聴くあの歌声とおしゃべりにすっかり魅せられてしまった。

※そのときの日記はこちら⇒ 東へ西へ (2018年7月4日の日記)

陽水が元気なうちに(僕も元気なうちにだけど)絶対もう一回行こうと思っていたのだが、そのチャンスが意外と早く訪れたのだった。

場所は渋谷区神南のNHKホール。3,800人収容の会場はもちろん超満員。

 

 

周囲は明らかに60歳を超えていると思われる方々が多かったのだけど、若い人の姿もチラホラ混じっていた。僕は全体の平均年齢よりは少し若い方ではないだろうか。

陽水は現在70歳(今年8月の誕生日で71歳)。今から50年前、福岡から上京しデビューする。陽水が21歳になったばかりの時だ。

そのときの名前は陽水ではなく「アンドレ・カンドレ」。そしてデビュー曲が「カンドレ・マンドレ」。冗談みたいな芸名とデビュー曲で、案の定まったく売れず、陽水は3年間は暗黒の日々を過ごす。

が、1972年に芸名を「井上陽水」にし(字は本名そのまま。本名のヨミは「いのうえあきみ」)、「人生が二度あれば」や「夢の中へ」で一挙にブレークする。

そして、陽水の地位を決定的なものにしたのは、1973年12月にリリースしたアルバム「氷の世界」だろう。スゴイとしか言いようのない曲ばかりが詰まった日本初のミリオンセラーアルバムだ。

陽水さん、これからも、ずーっと元気でライブをやり続けてほしい。昨日も、あの美声と脱力系のお喋りは健在だったし。

来年の「春よ来いライブ」でも、また陽水の曲をひとつくらいはやってみようかな…。「傘がない」をギター一本でやってみるのもいいかもね(^^;

そういえば先日のSONGS ☝ でも「傘がない」をやってましたね。

 

さて、今週も今日でおしまい。今夜は雨が降るかも、ということだけど、こないだ出張先のホテルに置き忘れて、傘がない……。

では、なつぞら後、行ってきます!