新・パフの創業物語<第3話> 「暗黒の小学校一年生」
2020年5月18日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第3話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
はからずも幼稚園中退となってしまった僕にとって、小学校の入学式はとても待ち遠しく楽しみな日でした。
入学式のあとに撮影したクラスの記念写真には、張り切った表情の僕の顔が凛々しく写し出されています。
現在の由布院小学校
ところで、少し話は遡りますが、中退してしまった幼稚園時代を思い出すに、僕はガキ大将ではなかったにしても、比較的目立つ方の子供で、ひとを愉しませることに喜びを感じる性格の子供だったようです。
遊戯室では、毎日のように多くの園児を集めて、紙芝居屋さんをやっていました。
ただ読むだけではなく、登場人物ごとに声色を変えながら演じていた僕の紙芝居は、幼稚園の子供たちにたいへん人気があり、先生からも誉められて、かなり有頂天になっていたのを覚えています。
当時の小学校入学前の子供は(田舎の方では特に)、今の子供たちと違い、字を読める子供が比較的少なかったんですね。
そんな中、僕は、5歳年上の兄が買ってくる「少年マガジン」を幼稚園入園前から愛読書にしていたため、ひらがなはもちろん多少の漢字混じりの文章でもスラスラと読むことのできる優等生だったのです。
ということで、いささかのプライドと、小学校に入っても「また紙芝居で人気者になるぞー!」という意欲を併せ持ちながら、入学式の翌日から学校に通い始めたわけです。
しかし……。
紙芝居はおろか、友達と会話すらできないつらい現実が、そこには待っていたのです。
周りの子供たちが話す言葉(大分弁)は、それまで6年間の人生でただの一度も聞いたこともないコトバで、意味がさっぱり分からない。もちろん僕も、どのように話せば良いのかさっぱり分からない。
僕は熊本弁。同じ九州だから似たようなもんでしょ?と思われるかも知れませんが、隣の県とは思えないほどに、言葉には天と地ほどの違いがあるんです(東北弁と関西弁くらいの違いがあるんですよ、ほんとに)。
大分弁は、やたらにキツクて、普段から喧嘩をしているような喋り方(大阪・河内弁と広島弁をミックスしたような感じ)。かたや熊本弁は、人懐っこくて温もりのある喋り方なんです。みなさんが良くご存知の博多弁を、もう少しやさしく、モッソリさせた感じです。
そうは言っても、6歳の子供ですから順応力があります。何日か経つと結構なれてきて、少しずつ周りの子供たちと会話が成立するようになってきました。
そのうち本来の陽気な性格がだんだんと出てきて、みんなの会話に加わるようになってきました。
しかし、これがいけなかった。
もう大丈夫、と、気を緩めた僕は大勢の友達との会話中、思いっきり「熊本弁」を放出してしまったのです。
(たぶん「ヨカたい!」とか「そぎゃんこつなか!」とか「ばってん」とか)
一瞬気まずい沈黙の後、「うわー、なんじゃーこいつー。なに言うちょんのかー。どこん人間じゃー!? 気持ちわりーのー…、はな(離)りーはなりー」
「異星人現る」という感じで、僕は皆から冷たい目で見られ、奈落の底に突き落とされてしまったのでありました。
以来、怖くて誰とも話すことができず、暗黒の小学校1年生を過ごすことになったのです。
そんな暗い僕に転機が訪れたのは、雪が本格的に降り始めた2学期の終わり頃、ある日の下校途中の事件がきっかけでした。
今でも忘れることの出来ない「礼子ちゃん」が、僕の前に颯爽と現れ、情けない僕を、自立した男にしてくれたのでした。
(え!小学校1年生で!?ドキドキしながら次号へつづく)
ついさっきまで、小学校の入学式の写真を探してたんですが見つかりませんでした。どなたかお持ちではないですかね……。
さて、本日はどんより曇り空。夕方から雨が降るようです。でも僕は出社して郵便物当番。往復2時間のウォーキングです。
では、朝食&エール後、折り畳み傘をリュックに詰めて行ってきます!
新・パフの創業物語<第2話> 「ゆふいん」
2020年5月11日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第2話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
大分県の観光都市別府から、車で山道をクネクネと1時間ほど走り続けると 狭霧の彼方に、情緒豊かな盆地風景が広がってきます。
この地こそが、僕が小学校~中学校の少年期を過ごした「湯布院町」なのです。
熊本の人吉温泉で板前をやっていた父は、昭和41年11月下旬に、勤め先の旅館を変えるために、一家を引き連れて、この湯布院に引っ越してきたのです。
当時、僕は幼稚園児。当然、湯布院の幼稚園に通うんだろうなと思っていたのですが、小学校入学まで間もないということで、「わざわざ通わんでもよかたい!」という親の非情な判断で、あまり聞かない「幼稚園中退」という悲しい学歴を僕は背負うことになりました…(当時の僕には自覚がありませんでしたが、我が家は相当に貧乏でした)。
ともあれ、小学校入学までの数ヶ月間、僕はプータロウ状態。
友達が誰ひとりとしていない、孤独な6歳の冬を迎えることになった訳です。
湯布院は標高が500メートルほどの高地で、九州とはいえども、ものすごく寒いところなのです。特に湯布院に移り住んだこの年は、12月から連日雪が降っていたのを覚えています。
湯布院には、由布岳という実にきれいな山があります。標高1,583メートル。阿蘇九重連峰のひとつなのですが、その美しさゆえ「豊後富士」と呼ばれていたほどの山です。
現在の由布院小学校から望む由布岳
この由布岳が雪化粧につつまれた景色は、幼かった僕の目にも焼きついており、「幼稚園には行けないけどいいところに引っ越してきたんだな…」と感じさせてくれたものです。
ところで、僕には5歳年上の兄がいて、当時彼は小学校5年生。兄はさすがに小学校中退というわけにも行かず、引っ越し後すぐに学校(由布院小学校)に通い始めていました。
その兄が学校から帰ってきて次のようなことを言っていたのをよく覚えています。
「湯布院はな、言葉が熊本とはぜんぜん違うとバイ」「熊本の言葉で友達にしゃべってもな、なーんもわからんとバイ」「なんかな、みんな喧嘩ばしようごたるとよー」「よーしゃべりきらんバイ」
数ヵ月後、兄と同じ由布院小学校に入学することになった僕は、その言葉の違いに散々悩むことになるのでした。
(つづく)
ということで、本日は「新・パフの創業物語」第2話でした。次回はいつなんでしょうね。案外明日だったりして(笑)。
さて、本日は晴天。東京の気温は30℃まで上がるそうです。では、朝食&エール後、ポロシャツ姿のウォーキングで行ってきます!
新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
2020年5月1日 (金曜日)
本日から時々(日記ネタがない時とかw)昔のメルマガで連載していた「パフの創業物語」を再掲していきます。
いまから20年前の西暦2000年7月から約1年間、週いちで連載していた物語です。
原則として昔の原文をコピペして載せますが、誤って載せてしまった事実、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は修正していきます。付け加えたいエピソードなんかもあれば書き加えていきたいと思います。
昭和35年11月30日。これがパフの創業者、釘崎清秀がこの世に命を授かった日であります。
熊本県八代郡坂本村(現在は八代市と合併)の「鶴の湯」という木造3階建ての旅館で、産婆さんの手によって取りあげてもらったらしいです。
この旅館は、母の実家であり、板前をやっていた父は、この旅館で調理の手ほどきをしていたことが、僕の両親が結婚するきっかけだったとのことでした。
この母の実家の旅館で暮らしていたのは3歳くらいまで。その後は父の実家にほどちかい日奈久というところに移り住みました。トイレ共同のオンボロ長屋でした。お風呂なんてもちろんありません。
当時、日奈久の街には馬車が走っており、馬の糞が道に転がっていたことと、名産だった「ちくわ」を人差し指に突っ込んで、おやつとして、よく食べていたことを覚 えています。
僕の記憶があるのは、4歳の誕生日を迎えるあたりから。昭和39年(1964年)の秋からです。
👆唯一残っている4歳前後のころの写真
このころの一番の思いでは、なんといっても昭和39年10月10日から始まった「東京オリンピック」。正確には3歳10ヶ月のころなのですが、よく覚えています。
「パーン、パーパパパーン、パーンパパパパパパパパパーン…」という、幼心にも「何かスゴイことがはじまるのかな・・・」とすごくワクワクさせるようなファンファーレの音は、ずっと脳裏に染み込んでいます。
5歳からは父の仕事(旅館の雇われ板前です)の関係で、同じ熊本の人吉というところに移り住みました。幼稚園は、この人吉の「青井幼稚園」というところに普通の乗り合いバスで通園していました。
今はバスというとワンマンで、100円玉を機械に入れて乗り込む無味乾燥な乗り物なのですが、当時のバスには黒いバッグを抱えた車掌さん(記憶にあるのは必ずキレイなお姉さん)が同乗しており、「発車オーライ!」という明るいかけ声とともに走り出す、実に楽しい乗り物でした。
若くてキレイな車掌さんの「おはよう!(ニコっ)」という清々しい挨拶と、堅い厚紙の切符をハサミでパチッと切る凛々しい姿には、たいへん憧れたものです。
この頃から、記憶がはっきりしており、自分の行動やその時の感情等もある程度正確にお伝えできそうです。
この頃大好きだったテレビは「ウルトラQ」そしてその後番組だった「ウルトラマン」です。あと、「オバケのQ太郎」も好きでした。
「ウルトラマン」も「オバケのQ太郎」も日曜の夜のテレビだったんですが、これを見終わると「青春とはなんだ!」という青春ドラマをよく観ていました。
このころのテレビは白黒テレビで、映りも相当に悪かったはずなのですが、僕はかなりの「テレビっ子」で日曜日は朝から晩までテレビばかり。藤田まことの「てなもんや二刀流」とか、アニメでは、「ジャングル大帝」、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、 「宇宙少年ソラン」、「スーパージェッター」、「エイトマン」……。それから「ひょっこりひょうたん島」もこの頃、NHKで毎日放映されていた人形劇でした。
考えてみれば、僕の5歳前後の1960年代中頃というのは非常にレベルの高いテレビ名作が多かった時期だと思います。
そう、「ビートルズ」が日本に来たのもこのころ(1966年)でした。パフの社名の由来になっているPPM(ピーター・ポール&マリー)のヒット曲「Puff」も、実はこの頃リリースされた唄なんです。
(つづく)
てなわけで、「新・パフの創業物語」第1話でした。先はまだ長いですねw。
ところで、明日からGWに突入なので「釘さん日記」もお休みです。このお休みの期間に創業物語も書き溜めておくことにしましょうか。
では、そろそろ(きょうは在宅勤務なので自宅書斎で)仕事に取り掛かります!
パフ25周年の社史
2020年4月8日 (水曜日)
緊急事態宣言が発令されて、心配なことがひとつあります。
それは、日記ネタが激減してしまうことです……。
「おいおい、そこかよ、もっとほかのことを心配しろ!」という声が聞こえてきそうですね(笑)。
いつも日記ネタにしていた、会社でのリアルな出来事、出張という名の旅行、飲み会、お客さんとの会食、ピアノや歌の練習・・・といったことがしばらくの間ありません。
「釘さん日記」の大ピンチなのです。
こう見えても毎朝の日記執筆(ルーティン30分)は大事な仕事です。
前日に起きたことをふざけながら(たまに真面目に)書いておくことは、数年後その時の自分や会社を振り返るときに、とても役に立ちます。
そう書いていて、いいことを思いつきました。
パフは再来年(2022年)の12月に創業25周年を迎えます。つまり創業から4半世紀が経つんですね。
そこに向けて、あらためて25年の歩みを振り返るための原稿をしたためておくっていうのはどうでしょうか。
その原稿を使って、2年後に社史でも作ってもらえると創業者としては嬉しいですし(却下されるかもしれませんが💦)。
幸い僕は、生まれてから会社を設立するまでのことを書き綴った「創業物語」(2000年~2001年に執筆)や、設立から3年間くらいの悪戦苦闘ぶりを記録した「自転車操業物語」(2001年~2003年に執筆)や、僕やパフに影響を与えた方々のことを紹介した「釘さんの100の出会い」(2004年~2007年に執筆)といった連載を、当時週一で発行していたメルマガに連載していました。
これら原稿に加筆修正していきながら、あらためて25年(まだ23年ですが)を振り返ってみる。日記ネタにもなって一石二鳥ではないかと(^^)v
いま思いついたジャストアイディアなので、もうちょっと検討してからにしましょうかね。
さて、本日は僕が日本採用力検定協会の代表理事として講師を務めるオンラインセミナーです。僕からは受講者の顔は見えませんが、受講者の画面には僕の姿が映ります。会社には誰もいませんが、ちゃんとした服を着ていくことにしましょう。
では、朝食&エール後行ってきます!
パフの “ものがたり”
2008年1月1日 (火曜日)
釘さんの生い立ち、創業までの経緯、創業後の苦難の道のりなどなど……。パフの原点はここにあります。
⇒ http://www.puff.co.jp/sogyo/index.html
⇒ http://www.puff.co.jp/jitensha/index.html
⇒ http://www.puff.co.jp/member/column/kugi05/kugiCollList.html