新・パフの創業物語<第16話> 「売れる営業マンにヘンシーン?」
2020年7月7日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第16話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
社長 : 「分かりました。じゃあ、お付き合いさせていただきましょう」
釘崎 : 「へっ?」
社長 : 「まずは、当社の会社案内を作ってもらえますか?そうですねぇ。予算は200万円でどうですか?」
釘崎 : 「に、にひゃふまんーーー!?」
僕がリクルートで営業の仕事を開始して、はや2ヶ月。まったく売れず、情けなく惨めな思いで「もう辞めようか……」と思い始めていた矢先に、不意に訪れた初受注の瞬間でした。
釘崎 : 「に、にひゃふまん、い、いや200万円の会社案内を作らせていただけるのですか?」
社長 : 「200万円じゃ足りません?」
釘崎 : 「い、いやいや、大丈夫です。て、ていうか、僕じゃよくわからないので、制作マンをこれからすぐ連れてきます!」
会社案内の制作は、営業マン側にいろんな知識やある程度のセンスが必要とされるため、新米営業マンが受注することなんて滅多にありませんでした。
しかも、今まで何一つとして商談を成功させたことのなかった『売れない営業マン』に売れるはずのない商品だったのです。
わけの分からないままに、営業所に戻り所長に報告。
所長は「おー!くぎー、遂にやったかー!おめでとう!」と自分のことのように喜んでくれ、キツーい(キスじゃなく)握手を交わしてくれました。
制作マンや、庶務の女性や、事務所に居あわせた他の営業マン達も「クギサキくーん、良かったねー」 「おー、クギ、これでやっと棒グラフに色がつくなー」と口々に喜んでくれました。
そ、そうか……俺、ついに売れたんだ……と、やっと実感が湧いてきて、なんだか熱いモノがこみ上げてくる自分に気がつきました。
今から17年8ヶ月も昔の出来事ですが(注:2020年の現在から数えると37年前の出来事となります)、絶対一生忘れる事のない感動の日でした。
ところで、この初受注には後日談がありまして……。
初受注をくださったこの会社の社長に、「あのー、どうしてあの日、初めて会った僕にいきなり注文を出そうと思われたんですか?」と勇気を持って聞いたことがあります。
「いやー、実はね、私には関西のある会社に就職したばかりのひとり息子がおりましてね」
「は、はい」
「いま、大阪で営業をやっとって、ひとり暮らししながら苦労しとるらしいんですわ」
「そうなんですかあ」
「釘崎さんが、うちの課長に小一時間も粘りながら一生懸命営業しとる姿を遠目で見とったら、なんだかうちの息子とだぶってきましてなあ……」
「は、はあ・・・」
「うちの息子もこの若い営業マンみたいに一生懸命営業しとるんだろうか・・・よし、私がこの営業マンと直接話をしてみよう、と思ったわけですわ」
「な、なるほど・・・」
「まあそれで釘崎さんと話をするうちに、ますます釘崎さんが息子みたいに思えてきましてね。息子にエールを送るつもりで、こいつに仕事を任せてみるかと、親バカで恥ずかしいんですが、初対面の釘崎さんにお願いした次第なんですわ」
つまり、この初受注は僕の実力でも何でもなく、「たまたま」飛び込んだ会社の社長の息子さんが、「たまたま」僕と同じくらいの年頃の営業マンで、「たまたま」事務所に居合わせたその社長は、僕と息子さんのことがダブって見えてしまい、ついうっかりホロホロと注文を「出してしまった」と、いうことだったのです。
出来すぎなくらいうまい話しですが、これは全部ほんとうのこと。まさに事実は小説より奇なり。この感動の初受注がなければ、パフが生まれることなんてなかったかもしれません。
(ひとりでウルウルしながら次号につづく)
20年前に書いた37年前このエピソード。書いておいてよかったなと思います。いまならここまでリアルに描けなかったかもしれません。
この初受注をくださった会社、水道橋の駅そばにありました。現在のパフの本社事務所から歩いて10分くらいのところです。何年か前に行ってみたことがあるのですが、当時のビルも会社も見あたりませんでした。ネットで検索しても見つかりませんでした。
できることならもう一度お会いして、当時のお礼ができたらなと思うのでした。
さて、本日僕はオンラインmeetingが数本。夜は久々の会食です。
では朝食&エールの再放送後、準備します!
新・パフの創業物語<第15話> 「売れない営業マンが初めて売れた日」
2020年6月29日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第15話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年3月中旬のある日。
リクルート神田営業所の事務所内。僕は朝から電話と睨めっこ状態。営業先のアポリストも枯渇してしまい、働くフリさえできずにいました。
受注が全然なかった僕は、事務所にただじっと座っていることに耐えられず、『営業に行って来ますー!』とカラ元気を出しながら、アポもないのに外に飛び出していきました。
自転車を漕ぎながら、営業所のあった神田多町から小川町~神保町を通り抜け、気がつけば水道橋駅にほど近い三崎町まで来ていました。歩くと30分以上かかる距離です。
当時、神田営業所には営業マン用に自転車が用意されており、アポの取れない日は、こうやって神田界隈をチャリンコで放浪していたものでした。
ふと見上げると、「○○建築設計事務所」と書かれた看板が目に入りました。
(あー、この会社、このあいだ電話した会社だ・・・。たしか、印象はあまり悪くなかったよな。よし、いっちょ飛び込んでみるか!)
先方の人事課長Aさんは、突然訪問した僕に少し驚いた様子でしたが、それでも自分の机の脇の小さな打ち合わせテーブルに通してくれました。
A課長:「うちは大学の先生からの紹介で、学生さんが結構来てくれますからねえ、わざわざリクルートブックに載せなくても大丈夫なんですよ……」
焦っていた僕は、「いや、リクルートブックだけじゃなくて、例えばDMをやらせてもらうとか、入社案内をつくらせてもらうとか、いろいろお手伝いできることはあります!是非、何でもいいですからやらせて下さい!!!」と執拗に粘っていました。
そこへ現れたのが、恰幅の良い50才くらいの男性。「なかなか頑張ってますなあ。どういうお話ですか?」と人事課長の隣に腰をおろしてきました。
僕:「あっ、は初めまして、私、リクルートのクギサキと申します」
その男性も名刺を出してくださったのですが、その名刺にはなんと「代表取締役社長」と書かれていたのでした。
社長:「私が改めてお話をお聞きしましょう」
僕は無我夢中で、自分が売ることのできるありとあらゆる商品・サービスを延々1時間くらい説明したのでした。
社長:「分かりました。じゃあ、お付き合いさせていただきましょう」
僕:「へっ?」
社長:「まずは、当社の会社案内を作ってもらえますか?そうですね、予算は200万円でどうですか?」
釘崎:「に、にひゃふまんーーー!?」
(つづく)
懐かしいですねー。この日の情景がありありとよみがえってきます。
初受注の瞬間は何の前触れもなく訪れたのですが、もしこの日、このお客さんのところに飛び込んでいなければ、その後の僕の人生はどうなっていたか分かりません。パフもなかったかもしれません。大げさかもしれませんが、その後の人生を変えた日だったのかもしれませんね。
さて、きょうは梅雨の晴れ間。朝からよく晴れています。今日の午後は打ち合わせがあるんですが、レイアウト変更工事が完了したというので朝ちょっと散歩がてら出社することにしましょう。
では朝食&エール後、行ってきます!
あれ?エールは今日から再放送だったかな・・・
新・パフの創業物語<第14話> 「ぜんぜん売れない2人の営業マン」
2020年6月25日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第14話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年3月初旬。
リクルートで就職情報誌の営業マンとして働きはじめて2ヶ月が経とうとしていました。
昔は「リクルートブック」という分厚い就職情報誌が、大学4年生の自宅に段ボール一杯に詰められて届けられていました。
1社1ページ~4ページほどの会社情報が掲載されており、またご丁寧に資料請求用のハガキまで別冊でセットにされた、就職活動を行う学生にとってはアリガターイ就職情報誌だったわけです(今でいうと、リクナビが数十冊の本になって、各学生の玄関先まで宅配されるイメージです)。
で、僕がリクルートでやっていた仕事というのは「御社の採用情報をリクルートブックに掲載していただけないでしょうか」と、いろんな会社に営業して回る仕事。
我が神田営業所のテリトリーは、千代田区神田の中小企業がひしめき合うところ。僕たち営業A職(当時4名)は、新聞とか帝国データバンクの会社年鑑とか、学校の求人票とか、ライバル情報誌とか。とにかくどこかしらから新規の営業訪問先を独力で見つけてくるところからが仕事でした。
会社からは、どこそこに営業に行け!という指示は一切なし。とにかく自由というか放任というかいい加減というか。半端な学生を恐いくらい自由に泳がせてくれていました。
とはいえ、目標達成に対してはシビアで、僕は当時3ヶ月で1,000万円ほどの売上げ目標を持たされていました。
しかし・・・売れない。ぜんぜんっ!もう2ヶ月も経とうとしてるのに。
だいたい、アポイント(電話して訪問する約束をすること)がとれない。30件中29件は、「結構です!」と“けんもほろろ”に断られる始末。
営業所には全営業マンの売上高を示す棒グラフが貼られているのですが、僕の所だけ1ミリも色がついていない。
「あちゃー、こりゃマズイな・・・」。かなり焦っていた時期でした。
そんな状況の中、救いだったのが、ムライミツルという内定者A職の存在でした(前号参照)。
このムライという男、(人前で屁をこくのが趣味の男なのですが)やっぱりたいして売れてないくせに、極めて堂々かつ飄々としており、とても学生とは思えない心臓に毛の生えたような人物でした。
この物語から約30年後(2014年だったかな)パフに遊びに来たムライさん
そのムライ氏がある日、
「おーい、クギサキー、東神田の方にさ、俺の親戚が重役をやっているアパレル関係の会社があるんだよ。よかったら一緒に営業に行こうぜ!」
と、実においしい営業先を紹介してくれたのでした。
「はい、いきますいきます。売れますかね?ムライさん」
「おー、売れる売れる、任せとけ。新規一発で、1,000万円よ。売上げは俺とお前で折半だな」
藁をもすがる思いだった僕は、このムライ氏の根拠のない1,000万円に大きな期待を持ってしまったのでした。
そして訪問当日。先方の会社に2人で勢いよく乗り込んで、ああだこうだ、いろんな説明をするのですが人事担当者は無表情に一言。
「いやー、採用の予算はほとんどありませんので……」
夕日が西に沈みかけた東神田からの帰り道。僕とムライ氏は、両手に分厚い見本誌を抱えてトボトボと営業所に向かって歩いていました。
「クギサキさー、俺たちなんで売れないのかなー…」
ムライ氏から聞く初めての弱気な発言。そうか、ムライさんといえどもやっぱり売れないことを少しは気にしてたんだ。ムライさんは来月から正社員だしな。
「ム、ムライさん、元気出しましょうよ。あ、ムライさん、まずい!」
「え?」
「僕たちの歩いているこっち側の歩道は日陰ですよ。 向こうに渡りましょう、向こうに。せめて日の当たる道を歩いて帰りましょうよ」
「そ、そうだなクギサキ。日の当たる道を歩いて頑張ろうな!うぅぅっ(感動の涙)」
そして、それからしばらく経った3月中旬のある日。売れない営業マン釘崎青年に、電撃的な初受注の日が訪れるのでした。
脚色しているようにお思いでしょうが、これはまったくの事実です。いまでもムライさんと会うとこの日の出来事を酒の肴にしています(笑)。
このムライさんは物語の終盤(パフの創業直前)に再登場しますのでどうぞお楽しみに。
さて、本日は雨ですが、午後から客先で研修のお仕事です。客先に訪問するのは3~4か月振りくらいではないでしょうか。
では朝食&エール後、久々にネクタイを締めて行ってきます!
新・パフの創業物語<第13話>「運命の男、Mとの出会い」
2020年6月23日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第13話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年1月。
正月休みも終わり、田舎から下宿に戻った僕のもとに一本の電話。
「リクルート神田営業所の若杉ですが・・・」
(注:若杉さんとは、ニコニコしながら僕を面接してくださった所長さんです。当時30数歳くらい)
「あっ、ど、どうも…。その節はありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。さてところで先日の試験の結果ですが……」
そう、試験とは、抜き打ちで受験させられたSPIのことです。その結果如何ではアルバイトといえども採用されない、ということだったので、僕は半ば諦めかけていました。
ところが若杉さんから発せられたつぎの言葉は・・・
「ぜひね、すぐにでも働いてもらいたいのですが、いつから来られますか?」
おー、やったー! 日給1万円の仕事にありつけたぜ!
その後、どんなにつらい苦難が押し寄せるかも知らずに。嗚呼、可哀想な釘崎青年の運命の1ページはこうして幕を開けたのでした。
👆この物語から35年後の若杉さん(僕の左横)です
(2017年12月、パフ20周年にお越しいただいた際に撮った当時の神田営業所のメンバーとの写真より)
1983年1月下旬。
大学の後期試験を無事に済ませ、リクルート神田営業所への初出社の日。
職種は営業であるため、スーツ&ネクタイ着用が義務づけられており、僕は商店街で買った安売りのスーツに身を包み、緊張しながら事務所に入っていったのです。
そこには既に僕の机と椅子が用意されていました。庶務のお姉さんからは営業マン用のダイアリー、文房具一式を手渡され、そして何よりビックリしたのは、所長の若杉さんから、
「おい、釘崎(すでに呼び捨てモード)、今日からよろしく頼むぞ。これがおまえの名刺だ」と、釘崎清秀の名前がバッチリ印刷された、カモメのロゴマーク入りの名刺をもらった時でした。
僕 : 「へー、アルバイトでも名刺を持ち歩くんですねー」
所長 : 「リクルートじゃね、アルバイトとは呼ばないんだ。A職といって、普通の社員営業マンとまったく一緒の仕事をしてもらうんだ。もちろん仕事の時は学生であることは忘れてもらうし、客先では、キミがまだ大学生だなんて絶対明かさないこと。いいね」
何やら大変なところに来てしまったようだ・・・と思っても、もう後の祭り。とにかく、まずは馴染むまで様子見だな。
そんなことを考えながら、ぼーっと自分の席に座っていたら、隣の営業マンが自分のリストを半分僕に手渡して、「俺、これからこのリストのお客さんにアポイントの電話を入れるから、真似してかけてみてよ」と言いました。
「あ、ど、どうも」と答えて、しばらくはその営業マンの電話に聞き入っていました。
(す、すごい、こんな電話、俺できないよ……)
次の日から、いよいよ本格的にアポ取り電話の開始です。
「えーっと、リクルートセンターのクギサキと申しますが、御社の新卒採用のご提案を・・・うんぬんかんぬん・・・」
「リクルートセンター!?ふざけるな!いったい1日に何回電話を入れれば気が済むんだ!」
こんなふうに怒られるのが大半でした。
なかには、「なに?ヤクルトセンター!?ヤクルトは間に合ってるんだよ!」と、訳のわからない答えが返ってくることもあり、前途多難なアルバイトの始まりなのでありました。
アポが一件も取れないまま勤務開始から1週間ほどが経ったある日、僕と同じくらいの年齢の茫洋とした若者が僕の隣の席にやってきました。
「俺とおんなじ学生A職かな・・・」
こう思って本人に聞いてみると、「おー、そうだよ。俺も学生A職だよ。内定者A職で、4月からは正式に社員になるんだけどな」
この男、名前をムライミツルといいます。
パフ創業の大きなきっかけを作った男との、運命的な出会いの瞬間でした。
つづく
ビジネスのことなどさっぱり分からなかった大学生の僕に仕事のイロハを教えてくれたのは、この「神田営業所」であり所長の若杉さんでした。
「最初の会社の上司と仲間たちは、その後のキャリアに大きな影響を及ぼす」とよく言われます。本当にその通りだと思います。1982年~1983年の神田営業所は僕にとってもパフにとっても、永遠に不滅なのです。
さて、本日は終日在宅です。
でも、オンラインでの会議や研修が立て続けに実施されることになってますね。これから準備に取り掛かりましょう。
では朝食&エール後、仕事します!
新・パフの創業物語<第12話>「日本リクルートなんちゃら会社」
2020年6月22日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第12話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1982年12月下旬。釘崎青年、大学3年生のクリスマス前の頃。
大学のサークルである人形劇団の団長を務めていた僕は、その年最後の公演を終え、ちょっとした達成感と充実感に浸りつつも「あー、これで俺の人形劇団生活も終わり……。青春の1ページも幕を閉じるんだな」という寂しさに似たものを感じていました。
我が「人形劇団ZOO」では、大学3年生の後期公演が終わった段階で後輩に道を譲るしきたりになっており、翌年に控えている卒論やら就職活動やらに精を出すことになっていたのです。
「就職といってもなー…なんだかピンとこないな…」
「卒論もまだまだ先だしなー…」
「ぐだぐだぐだぐだ…」
それまで人形劇やはとバスでむちゃくちゃ忙しかったことによる反動なのか、なんとなく燃え尽き症候群みたいにボーっとしていました。
ちょうどその頃、兄から「おい、お前うちの会社で働いてみんか?」と、声がかかったのです。
兄は僕よりも5歳年上で、当時は入社4年目の会社員。兄の立場は、総務部人事担当。会社の名前は、株式会社日本リクルートセンター。
「日本リクルートセンター?たまに学生の意識調査やらを発表しとる何やら胡散臭い調査会社みたいなところやろ?なんで東大まで出て、そんな訳の分からん会社に就職するん?」
兄が大学4年生の頃、就職先をこの会社に決めたと聞いて不思議に思って尋ねたものです。東大卒といえば、大蔵省とか弁護士とか検事とか、民間であっても銀行とか新日鐵とかの重厚長大企業に入るもんだという固定観念があったんですね(事実多くの東大生はそうでした)。
それはともかくとして、そんな兄が胡散臭い(と相変わらず僕は思っていた)自分の会社に来いと言う。
僕:「んー、まぁいいけど、いくら貰えるん?」
兄:「1日7時間の勤務で7,200円。残業を含めれば1日1万くらいかの」
なにー!イチまんえん!?
当時の学生アルバイトの相場は、せいぜい時給500~600円程度。はとバスなんて、時給450円の薄給でした。
それに比べて兄の会社は、時給に換算するとその倍以上。
僕:「やる、やる、今すぐやる。はとバスも辞める。で、いつから?」
兄:「おー、そうか。じゃあ適当な営業所を紹介するから待っちょれ」
その数日後、兄から「話をつけておいたから行ってこい」と指示されたのは、神田多町の薄汚いビルに入居している同社の営業所。20人くらいの従業員が働いている営業所で、行くなりそこの所長さんが大変親切かつ丁重に仕事の説明をしてくれたのでした。
「なかなか感じのいい会社じゃん!」と思ったのもつかの間、「じゃ釘崎くん、こっちの部屋にきてください」と通されたのはガラーンとした殺風景な会議室。
所長:「今日あと2時間ほどいいですか?」
僕:「へっ?2時間もですか?別にいいですけど…」
と返事も終わらぬ間に出されたのが、共通1次試験(注:1979年から1989年まで行われていた国公立大学の入学試験)みたいな問題冊子とマークシートの解答用紙。
所長:「一応、会社の決まり事で、全員にこのテストを受験してもらうことになっているんですよ」
と、ニコニコしながらその所長は説明するのですが、一応という割に2時間のテストというのはちょっと異常だ。
そう思った僕は、「あの~、このテストの成績が悪いとどうなるんですか?」と恐る恐る聞いてみたら、その所長は平気な顔をして「そりゃあ、仕事をしてもらうに足る成績じゃないとねぇ、いくらお兄さんの紹介とはいってもねぇ、ま、気にしないで受けてみて」と、いとも簡単に「ダメなら落とす」と言ってくれるではありませんか。
内心、『ゲッ!そんなこと聞いてねぇぞ!』とビビリつつも、「わかりました。頑張ります」と答えてしまったのでした。
その試験の名前は(もちろん後から知ったのですが)「SPI」。そう、今年就職活動をした諸君がさんざん受けてきた適性検査だったのです。
賢明な読書のみなさんは、もうお分かりでしょう。日本リクルートなんちゃら、という調査会社もどきの会社は、実は「リクルート」そのものだったんですね。
このSPI受験の日が、僕のその後の人生を大きく決定づけた記念すべき日だったのですが、もちろんその日の僕はそんなこと知る由もなく……。
抜き打ちで2時間以上も散々難しい試験をやらされヘトヘトになっていた僕は、帰りに神田の駅前で憂さ晴らしのパチンコに興じていたのでした。
つづく
高い時給に釣られて、なかば騙されるようにして受けたリクルートの入社試験(単なるアルバイトのはずだったんですが)。
果たして合格するんでしょうかね(‘_’)
この続きは、また明日載せることにいたしましょう。
さて、本日は行列のできない法律事務所に行って、そのあと大阪の方々とのテレビ会議です(正確にいうと会議ではないんですがw)。
では、朝食&エール後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第11話> 「宝塚月組のお姉ちゃんたちと…」
2020年6月18日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第11話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
大学1、2年の頃は、学校と人形劇団とはとバスとで、24時間フル稼働の状況でした。
・日中は、比較的まじめに授業に出席(休講時はパチンコ、麻雀、ボウリング)
・昼休みは、大学本館屋上で発声練習(♪あえいうえお、あお、あいうえお…)
・午後5:30~8:00、人形劇団の公演稽古などの活動
・夜9:00~、はとバスへ。夜のコースの添乗・車掌業務
・深夜~、大学の仲間の下宿で酒盛り
というのが平均的な僕の毎日でした。
土・日は、はとバスの団体旅行(外人さんのツアーが多い)の添乗で、 鎌倉・箱根・富士山のどこかに毎週必ず行っていました。
はとバス(ホームページより)
そうそう、はとバスの仕事で一番記憶に残っているのが、宝塚歌劇団の送迎の仕事です。
僕が大学2年生の秋、新宿コマ劇場で宝塚(確か月組)の公演が2週間連続で 行われていました。
女優さんたちは、恵比寿にある宝塚の寮に宿泊しており、はとバスは、コマ劇場から寮まで女優さんたちを送り届ける仕事を請け負っていたのです。
バスの運転手さんは毎日入れ替わるのですが、僕は車掌としてほぼ毎日女優さんたちをコマ劇場の通用門まで迎えに行き、そこからバスの駐車場まで誘導し、発車オーライして一路、恵比寿までの運行を繰り返していました。
僕のようなチンピラ学生にとって宝塚の女優さんなんて高嶺の花もいいところ。「挨拶以外は絶対に自分から話しかけるなよ!」と会社の人からも言われており、僕が彼女らに発する言葉といえば「お疲れさまでした」の一言だけでした。
一週間ほど車掌業務を続け、女優さんたちとも目で「ニコっ」と挨拶できるようになったある日の車中での出来事です。
「ねえ、お兄ちゃん!そこのマイクとって」
リーダー格の大物女優(あとで調べて分かったんですが、当時のトップスター、榛名由梨さんでした)から声をかけられ、「は、はい、ただいま!」と、その大物女優にマイクを渡そうとしたところ……、
「ちゃうちゃう、マイクはお兄ちゃんが持つんよ、いまからウチらがいろいろインタビューするから、お兄ちゃんがそれにマイクで答えるんや」
「へ? は、はい」
新宿から恵比寿までの約30分の間、僕はにわかアイドルみたいな立場で、女優さんたちにいろいろ弄(いじ)られており、ついには当時僕が作っていた人形劇の主題歌(ガンバの冒険やブレーメンの音楽隊の主題歌でした)まで歌わされてしまい、車中はもう「バカウケ」状態でした。
そして、その翌日からすっかり女優さんたちと打ち解けて、「お兄ちゃん、この後どう?」なんて誘惑されたらどうしよう…なんて毎日ドキドキしながら劇場まで迎えに行ってましたが、どうやらその心配は杞憂に終わったようで、いつの間にか公演最終日を迎えていました。
最終公演を終え、恵比寿に向かう送りの車中。例の大物女優が、おもむろに立ち上がり、「えー、はとバスのお兄ちゃん。今までの2週間、わがままな私たちにお付き合いいただき、1日も休むことなく恵比寿まで送ってくれてありがとう」と、お別れの言葉を喋り始めたのです。
そして、大きな花束と、靴下の詰め合わせと、寄せ書き(色紙)を贈呈され、最後にみなさん揃っての大拍手。いやー、これは感動ものでした。
(「立派なはとバスの運転手さんになってください」という色紙のコメントにはちょっと焦りましたが笑…)
バスの送迎の車掌の仕事で、こんなに感謝されるだなんて…。
「人と接する仕事、人に感謝される仕事っていいなー…」と、心から感じられた出来事でしたね。
この「はとバス」のアルバイトは、大学3年の秋まで、ずっと続けたのですがいろんな人(わがままなお客さんや気むずかしい運転手なども含めて)とのつきあい方を学んだ気がします。
そして、1982年12月(僕が大学3年生の時です)、運命的な会社との出会いが訪れたのでした。
その会社の名は「株式会社日本リクルートセンター」。
なにやら怪しい名前の会社ですが、この会社の人事担当者だった兄の口利きで「情報誌の営業アルバイト」の試験を受けることになったのでした。
つづく
ついにリクルート神田営業所との出会いですね。あとから思えば僕の人生にとって最大の出会いでした。ムライさんとの愉快な話も登場します。
さて、本日僕は終日在宅です。課題図書を読むことにしましょう。では朝食&エール後、行ってきません!
新・パフの創業物語<第10話> 「大学入学・・・人形劇とはとバスと」
2020年6月17日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第10話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1980年2月。
2度目の大学受験シーズン到来です。
密かに大学コンプレックスをお持ちの皆さんも、結構いらっしゃるのではないかと思います。僕もその昔、情けないことにその一人でした。
成績が悪く、勉強もしなかったくせに、「どうせ行くなら一番有名で難関の大学に行きたい!」なんてことを考えていました。
高校在学中のころは、教師主導・生徒不在の「目指せ!有名大学!」に反発し、大学に行くことそのものに対して疑問を感じていたのに、いざ大学を目指そうと思ったとたん、負けず嫌いなのか、ミーハーなのか、いわゆる「受験小僧」に陥ってしまいました。
が、大学入試って、結構フェアなもんですねー。
にわか受験小僧の実力など、ほとんど通用しなかったようです。
結果的に僕が入学した大学は、明治学院大学経済学部です。
この大学以外に受かったところが、もうひとつ。その大学は…明治大学政治経済学部でありました。
同じ「明治」つながりでありますが、校風というか雰囲気のまったく違う大学です。
田舎出身で、鈍くさい僕は、たぶん「明学」よりも「明治」に相応しい人間だと思ったのですが、迷った結果の選択は「明学」でした。
(#注意:明治のみなさんが「田舎出身で鈍くさい」と言っている訳ではありません!)
選択の大きな理由は、明学の経済的優位性にありました。
明学は当時、入学金と授業料が、他の私大に比べて格段に安かったのです。国立大学よりもやや高い程度で、比較対象の明治大学の半額以下でした。さらに家庭の経済状況と成績次第では「授業料全額免除」という制度もあり、これも大きな魅力でした(その後、僕はこの制度で大学2年生まで授業料が免除されました)。
明学は、貧乏人にたいへんやさしい大学だったんですね。知名度とか規模とか入試難易度の割に、社会で活躍している先輩が多いのはこの辺に理由があるのかもしれません。
ともあれ、港区白金台の(一見)お洒落な大学、明治学院大学が僕の愛すべき母校であり、1980年から1983年までの4年間、様々な「青春」を生み出す舞台となった訳であります。
大学生と言えば、やっぱり「サークルとバイト」です。
僕が選んだサークルは「人形劇団ZOO(ずー)」という団体。幼稚園や小学校、養護施設、児童館などを巡り、子供たちに対して人形劇の公演をドサ回りする団体でした。
自分たちで脚本を作り、人形を作り、主題歌・劇中歌を作り、照明を作り、大道具・小道具を作り、そして自ら人形を操りながら演じていく、プロさながらの劇団でした。
かぐや姫の「神田川」をモチーフにした映画「神田川」(草刈正雄、関根恵 子主演)の舞台がやっぱり大学の人形劇サークルだったこともあって、僕は「横丁の風呂屋」を期待しながら、そのサークル(劇団?)への入部(入団?)を決めたのでした。
人形劇団zoo(地方公演後の写真かな?)
そしてアルバイトは、大衆割烹と焼鳥屋を経た後、1年生の秋より「はとバス」の「バイト車掌」という珍しい職業へ……。このサークルとバイトを通じて得た経験、人との巡り会いは、その後の僕の生き方やパフの創業にも影響を及ぼすことになりました。
つづく
ふー、今日でやっと10話が終わりました。
この物語、実は全部で51話あります。ということは今やっと2合目までたどり着いたということ。まだまだ先は長いですね。
明日もこの続きを載せることにしましょうか。はとバスでのとっときのエピソードですので、どうぞお楽しみに。
さて、本日は朝から千代田区役所でのお仕事です。
中央区役所には創業時から数えきれないくらい行きましたが、千代田区役所には2年前に九段下に移転して以来まだ一度も行ったことがありません。どんな感じでしょうね。
では、朝食&エール後、行ってきます!