パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第9話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1978年秋。

文化祭も終わり、周囲は皆、大学受験追い込みモードに突入していました。

僕もやっとこの頃からなんとなく「東京の大学に入りたいな…」と思うようになっていました。が、なんのことはない。「神田川の生活を、東京で送ってみたい」という思いと、「東京に行けば、大物になれるチャンスがあるかもしれん!」という実にいい加減な動機だったのです……。

そして1979年春。
3年間の放蕩生活がたたり志望の大学にはオール不合格。

でも「東京で暮らしたい!」という思いは捨てがたく、親に「東京で浪人生活をさせて欲しい」と頼み込んだのでした。

我が家はとても貧乏であったにもかかわらず、僕は高校の3年間を下宿住まいさせてもらっていました。

またこの上に、東京でひとり暮らしで親に経済的負担をかけるのも嫌でしたので、親には「アルバイトで生活費は稼ぐので予備校だけなんとか行かせて」と懇願し、やっと東京行きを認めてもらったのです。

4畳半一間、日当たりなし、風呂なし、トイレなし(共同トイレのみ)。家賃は、13,000円。千代田線の根津駅から西日暮里方面に10分ほど歩いたところにある木造アパート「恵荘」(めぐみそう)が、僕の東京生活のスタート地点でした。

画像は単なるイメージです(映画「東京物語」のオープニングタイトルです💦)

 

予備校は高田馬場の「早稲田ゼミナール」。アルバイト先は駅弁製造の「日本食堂」。考えてみれば引っ越しの段取り、予備校への入学手続き、アルバイト先の決定まですべて独りでこなしており、随分と自立した18歳だったと我ながら感心します。

予備校に通い始めた4月~6月にかけては、おそらく一生のうちで一番勉強した時期だったと思います。科目数が多くて現役時代に失敗した国立大学は捨て、私立一本で挑戦することに決めていました。

そして、夏休み前に行われた全国公開模試。結果はなんと全国4位!

これは、まぐれも大まぐれだったのですが、自惚れの強かった僕は「なーんだ、こんなもんかい。ちょろいねぇ」「早稲田も慶應もこれで合格確率80%以上か、楽勝だね」みたいな勘違いに陥ってしまったのです。

勉強はもうこれで大丈夫なので、あとは受験料やら入学金やら授業料やらを少しでも稼ごうと、アルバイトに生活の主軸を移していったのです。

日本食堂での泊まり込みの弁当作り、仕事は辛いのですが、休みの日や空き時間にバイト仲間と遊ぶのが楽しくて、相当にのめり込んでいきました。

生まれて初めてストリップなるものを見に行ったのもこの頃です。

当時、京浜東北線の西川口駅の側に「モーニングサービス付きストリップ」というのがありました。朝9時までに行くと牛乳とアンパンが支給され、しかも学割で千円ぽっきり。パンを左手に牛乳を右手に観音見学。

こんなことにハマリながら浪人生の夏は過ぎていき、いよいよ秋の公開模試のシーズンがやってきました。

バイトや遊びをやりながらも、そこそこ勉強もしてきた僕はまだ自信を持っていたのですが、試験後の結果(合格確率50%以下)を見て真っ青。

やばい。まさか2年連続浪人するわけにも行かず、以降はバイトからも足を洗って受験勉強中心の生活に戻ったのでした。

しかし、バイトをしないと生活費がない……。

入学金に充当しようと思って貯めていたバイト代は生活費として徐々に減っていき、それでも受験料分にだけは絶対に手を付けてはいけないと、爪に火を灯すような生活を送っていました。

受験前の秋~冬にかけては、パンの耳や即席ラーメンだけで過ごしたこともあり、僕が一生で一番、痩せていた頃だったと思います(今のぜい肉を分けてあげたい…)。

そして、いよいよ、1980年2月。2度目の大学受験シーズンが、やってきたのです。


懐かしいですね~。東京での初めての生活。夜勤の弁当作りのアルバイト。仮眠時間になると厨房に忍び込んで、とんかつをつまみ食いしたりしてましたね。美味しかったな(笑)。

さて、本日も在宅のつもりだったんですが、夕方から打ち合わせの要請があって、このあとのオンライン会議が終わったら出社することになりました。

そういえば今日は記念日でした。打ち合わせが終わったらすぐにとんぼ返りです。

では、まずは朝食に行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第8話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


なけなしの小遣いと、大事にしていた漫画本や小説本や、(一般に高校生にとっては大事な)参考書を古本屋に売り払ったお金で買ったフォークギター。

メーカー品ではなかったのですが、大学2年生までずっと愛用したギターでした。

血のにじむような(ほんとに左手指先から血が出ていた)練習で数ヶ月後にはコードで弾き語りができる位に上達。

しかし!ギターが弾けるようになっても所詮素人同然の腕前。難関の文化祭オーディションを通過するには、この程度の実力ではとても無理な状況でありました。

時は流れ、高校2年生でクラス替えになった時のできごと。

「ピアノを弾かせたら高校一番」と言わしめていた天才(名前はキクチ君)と同じクラスになりました。

そいつはクラシックはもちろん、ジャズでも、ビートルズでも、ユーミンでも、なんでもござい。しかも成績は学年でも常に50番以内で東大も射程圏内にあるスゴイ奴。劣等生かつ問題児の僕とは接点などあろう筈もない存在でした。

なんとかお近づきになりたいなと思っていた矢先の春のバス遠足。

新クラスの親睦を兼ねたもので、希望者はバスの中で自己紹介と唄を披露することになっており、僕は今ギターを練習していることと、できればバンドを作りたいことを喋って、唄を一曲歌いました。

その遠足の帰り、キクチ君から「僕と一緒にやらない?」と声をかけられた時には、「え!キミが僕なんかと?」と不思議に思う反面 「文化祭オーディション突破もこれで夢じゃない!」と小躍りしたものでし た。

それからキクチ君をリーダーとしたバンドが結成され、僕はギターとボーカ ルを担当。その年(高2)の文化祭のオーディションを見事突破。

しかし、キクチ君の方針で僕は唄無しで女の子がボーカルに(くやしい!)。が、バンド2年目。高校3年のときの文化祭で、僕らのバンドはチューリップの「青春の影」を演奏することに決定。ボーカルは・・・そう!僕でした(^^)v。

高校1年の時に舞台裏で「よーし、俺も!」と心に決めてから2年後。「念ずれば通ず」とはよく言ったもので、1,000人以上の観衆の前で歌うことが遂に実現されたのでした。

「♪きみのこころーへつーづく、ながいー、いっぽんみーちは・・・」

このチューリップの「青春の影」は、僕の忘れられない一生の想い出の唄なのであります。

 

音楽活動に精を出していた高校生活でしたが、一方で僕の下宿生活にも大きな変化が訪れていました。

高校1年の終わりの頃から友達の家に下宿させてもらっていたのですが、 その友達やお母さんと、ちょっとしたことで不仲になてしまい、その下宿を高校2年の3学期には出ていかなければならない羽目になっていたのです。

で、相談したのが中学校来の親友(否悪友)で、ライバル校の野球部キャプテンのワタナベ(第6話にちょっと登場)。

ワタナベ 「おー、そんなら俺んところの下宿屋は一部屋空いちょるけん、引っ越して来いや。下宿のオバサンには俺が口ききゃー間違いねーけん、大丈夫!お前が来たらおもしろくなるのー、がはは!」

すぐさまその下宿のオバサンと交渉を開始し、即決で翌週から引っ越すことに決定。通称「尾花下宿」と呼ばれているこの下宿屋が、僕が高校を卒業するまでの1年ちょっとを過ごした場所なのであります。

母屋と離れを併せて9人の学生(高校生7名、大学生2名)の大所帯だったのですが、議論と酒好きな連中が集まっており、毎晩のように酒を飲み明かしていました。

特に僕の隣の部屋にいた大学生(大分芸術短期大学声楽科1年)のヒガシさん(男)とはムッチャクチャ仲良くなり、そのヒガシさんの学友たち(男も女も)と尾花下宿生たちと、よくもまあ下宿を追い出されることもなく、また学校も退学にならずに済んだと思うくらい、酒と泪と男と女の青春ドラマさながらの生活を繰り広げていました。

そんなわけでパフ創業のルーツは、酒を飲みながら友人たちと熱い議論を繰り広げていた「酒と泪と男と女とフォークソングの下宿時代」にあるのかもしれません。

さぁ、次回はやっと「涙の貧乏浪人→大学生」に突入です!


以上、今週三話めの創業物語でした。

少しピッチを上げていかないと全話載せるのが難しくなるかなということで、来週からも週に2~3話は再掲していきます。

さて、いよいよ梅雨入りして蒸し暑いですね。夜も寝苦しくなりました。

きょうも基本は在宅ですが、ちょこっとレイアウト変更工事を覗きに行こうかなと思っています。

では、まずは朝食&エール後、行ってきません!

 

昨日の「創業物語」は、僕が高校に入学して下宿生活を始めたころのお話でしたが、「釘さんの素晴らしき100の出会い」というコラム(2004年~2007年のメルマガに連載)にもこの時のことを書いています。

こちらも昨日の話とセットで記録に残しておこうと思います。


「男おいどん」 2005/02/14

前回、高校生時代の下宿生活の話を書いた。この頃の僕は、下宿生活では仲間に恵まれ充実していたものの、学校に行っている日中の時間は、不完全燃焼そのものだった。

僕が通っていた大分舞鶴高校は、大分県内では3本の指(?)に入る進学校だった。他の2つのライバル校と、東大を筆頭とする有名大学への入学者数を競いあっていた。

僕も高校に入学した頃は、「有名大学進学」という学校側が期待する進路に何の疑問も感じず、勉学に励もうと思っていた。が、その志は、わずか半年ももたなかった。

高校の先生たちが一方的に煽りまくる進学レースに嫌気がさしていったのだ。「有名大学入学」を目標に勉強に燃えている連中を見ていて、なんだか虚しさを感じるようになっていたのだ。

「ふん。大学進学のための勉強なんてくだらない。偏差値だけで人間の価値を決め付けようとする学校なんて最低最悪だ!」などと強がったりもしていた。

でも実のところは、思うような成績をあげられない自分自身を正当化しようとしていただけだった。単に受験戦争を否定し、勉強から逃げていただけだった。だからこそ不完全燃焼で、学校に通うたびに、虚しさを感じていたのだ。

悩み苦しんでいた17歳のころ

 

そんな高校時代、はまった漫画がある。講談社の週刊少年マガジンに連載されていた「男おいどん」という漫画だ。後に宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999で有名になる松本零士氏の初期の作品である。

主人公は大山昇太(おおやまのぼった)という夜間高校に通う青年。鹿児島県出身で、中学を卒業後、大きな夢や志を持って上京するも、実際にはお金も実力も運も縁もなく、バイト先の工場もクビになり、夜間高校も中退するハメに。やることなすこと失敗だらけで、四畳半の下宿で悶々とした日々を過ごしている。

押入れを開けると、洗濯していないパンツ(いわゆる猿股というやつ)が山ほど詰め込まれており、そこにはサルマタケという奇怪なキノコが生息している。昇太は、お金が底をつくと、そのサルマタケを鍋でグツグツ煮て食べるという地を這うような生活を送る。

人から騙され、馬鹿にされ、軽蔑され続ける昇太。でも昇太には「こんなダメダメな俺かもしれないが、いつかは将来の日本を背負う大きな男になるんだ」という、大きな夢と志があった。

どんなに人から馬鹿にされようとも、「いまに見ちょれ!おいどんだって、おいどんだって、おいどんだって……」と歯を食いしばって頑張り続ける昇太。

当時ダメダメだった僕は、四畳半の下宿でひとり頑張っている昇太と自分とを重ね合わせて眺めていたのであろう。

失敗を続け、極貧生活を送っている昇太に、「負けるなー!ガンバレー!」と声援を送っていた。漫画を読みながら、ひとり泣いたこともある。傍から見れば相当に変な危ない奴である。

僕の下宿の本棚には「男おいどん」の単行本がズラリと並んでおり、落ち込んだときなどは、昇太にずいぶんと助けられたものだ。

・・・・・

12番目の素晴らしき出会い。劣等感に苛まれていた僕を、四畳半の下宿の本棚から励ましてくれた「男おいどん」の主人公、大山昇太のお話でした。


 

きょう再掲した「100の出会い」は、丸3年ものあいだ書いた自分史で、創業物語を補完するものになっています。これからも時おり、番外編として採録していこうと思います。

さて、事務所は現在レイ変工事のまっただなか。今日の工事立ち合いはヨシカワ副社長がやってくれるそうなので、僕は自宅待機です。

では、朝食&エール後、行ってきません!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第7話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1976年4月。

湯布院の山奥から抜け出して、都会生活(といっても大分市内だけど)に胸をふくらませ僕が入学したのは大分県立大分舞鶴高校。当時は、大分舞鶴、大分上野丘、大分雄城台の三高校がライバル関係にあり、東大を頂点とした旧帝大や国公立大、有名私大に何人送り込めるかを競い合っていました。

上昇志向のほとんどなかった僕は、そんな学校の事情とは一切関係なしに、とにかく都会でひとり暮らしできるのが嬉しくて嬉しくて、舞い上がっていました。

 

高校入学時の集合写真(前2列目の右端が僕ですね)

が!

下宿生活スタート初日から、その嬉しさが大きな不安へと変わっていったので す。

・ごはんがまずい・・・

・下宿のオバサンがちょっと・・・

・下宿の娘(当時高2)がちょっと・・・

・隣の部屋の下宿生(大分大学1年生)が困った奴で、麻雀や飲み会に毎晩誘ってくる

とまぁ、様々な不安要素があったわけでして、それぞれの不安要素はそれぞれの現実的な問題を引き起こしてしまったわけでして・・・。

学校の勉強などするはずもなく成績急降下。下から数えた方が早い成績で、最初の頃は目をかけてくれていた先生も、1年生の夏頃には「問題児」として扱われてしまいまいました。

この怠惰な下宿生活に転機が訪れたのが、秋の文化祭。

僕の高校の文化祭の最終日は、市内の大分文化会館(2,000名ほどが収容できる大ホー ル)を借り切って、コンサートを丸1日開催するという豪華なもの。「かぐや姫」の南こうせつや伊勢正三を輩出した高校としても有名で、フォークソングが好きな生徒が多かったんですね。

僕はたまたまこの文化祭のコンサートの舞台裏担当に任命され、楽器の搬入搬出や、幕の上げ下ろし、マイクテスト、出演者の誘導などなどを行っていました。

このコンサートでは、プロなみの腕前を持ったスゴイ先輩たちが、かぐや姫、陽水、拓郎、ビートルズ、チューリップ、アリス、その他当時流行っていたニ ューミュージックのコピーを演奏したり、オリジナル曲を披露したりしていました。

この模様を舞台の袖から見ていた僕は、すっかりそのパワーに魅せられてしまい、「よーし、俺も来年はこの舞台に立ってやる!」と、問題児生徒にもひとつの目標がメラメラと燃え上がっていったのです。

翌日、書籍・参考書なども古本屋に売り払い、なけなしの小遣いと併せて1万円ほどの資金で中古のフォークギターを質屋から調達しました。

そして、下宿の環境も変えなければなりません。

クラスの友人に頼み込み、 急遽その友人宅2階の一部屋を借りて新たな生活をスタートさせたのでありま した。。

(つづく)


この物語を再掲させるにあたって昔の写真を漁っていたんですが、高1、高2、高3になるにしたがって顔つきがどんどん変化していました。成長期だったんですね。

さて、会社はいまレイアウト変更工事まっだだなか。朝食&エール後、ちょっと様子を見に行ってきます!

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第6話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


中学2年まで、いろんなコンプレックスに苛まれていた僕ですが、中学3年の担任の先生との出会いによって、それまでの闇が一気に晴れていくこととなります。

とても素晴らしい、一生を通じて尊敬できる先生でした。

その先生の名は「中島先生」。当時40歳ちょっと。考えてみれば今の僕とさほど大差ない年齢です。

でも、今の僕なんかまったく及びもつかない、とってもとってもどでかい先生でした。

中島先生(卒業写真より)

人と人とを決して比較しない、差別しない、個をものすごく大事にしてくれて、良いところを見つけだし伸ばそうとしてくれる先生でした。

コンプレックスを抱えていた当時の僕がどんなに救われたことか。

優しさと厳しさとを兼ね備えた先生で、顔が腫れ上がるほどのビンタを何回も経験していますが、全くと言っていいほど恨むことなんてありませんでした。

この先生のおかげで、僕のクラスの連中は、頭のいい奴も悪い奴も、顔の美醜や、運動の出来不出来、家庭の貧富なんかもまったく関係なく、みんな明るく楽しい中学生最後の年を過ごせたんじゃないかと思います。

僕が後年、大学でサークルの部長を務めたり、会社で組織のリーダーを務めた時、あるいは経営者となった今、この中3の時の先生を見習うことが実は多いんです(さすがにビンタはしませんが!)。

余談ですが、この湯布院中学3年一組には、渡辺という野球部(全国大会で準優勝するほど強いチームだった)のキャプテンだった奴がいました。彼とはいつも喧嘩ばかりしていたのですが、この先生のおかげでいつのまにか大親友となりました。その後も腐れ縁が続いており、今でもたまに会って酒を飲んだりしています。

 

こんな素晴らしき中3も終わりに近づき、高校受験の時期となる訳です。

天才と比べると凡才だった僕でしたが、それほど苦労することもなく大分市内の進学校に見事合格。そして仲の良かったクラスの仲間たちとも離ればなれになる日がやって来ました。

卒業式の後、教室にもどった僕たちに先生は多くを語らず、おもむろに背広のポケットから小さいハーモニカを取り出し静かに演奏をはじめたのでした。

その曲は「ふるさと」。
(うーさーぎー、追ーいし、かーのーやーまー…)

我らが湯布院中学校は、山村の中学校のため、都会(というか大分市内)の高校に入る僕は、高校入学後は湯布院を離れて下宿することになっており、本当にこの日は、多くの仲間たちと(先生も含め)離ればなれになる日だったんですね。

そんなこともあって、先生のハーモニカを聞いて号泣状態。号泣しているのはもちろん僕だけではなく、ほとんどのクラスメートが泣いていました。「3年B組金八先生」さながらの情景でした。いや、僕らにとってはドラマよりずっとずっと感動的だったはず。一生忘れることの出来ない、感動の卒業式の日でした。

そして、それから数週間後の1976年4月。大分県立大分舞鶴高校に晴れて入学する日がやってきました。

初めての親元を離れてのひとり暮らし。「酒と泪と男と女」の下宿生活がスタートするのでありました。

(つづく)


この中島先生は今から13年前(2007年)に他界されました。

その翌年、上の物語にも出てくる同級生の渡辺と二人でお墓参りに行った時のことを当時の日記に書いていましたのでリンクを張っておくことにします。

中島先生の墓前に、旧友とともに近況を報告した日(2008年1月27日の日記)

中島先生率いる湯布院中学3年一組の級友たちと過ごした楽しい日々。45年経ったいまでも、思い出しては幸せな気持ちになります。

さて、本日は朝から雨模様。歩いていくかどうか悩みどころですが、朝食&エール後、傘をさして行ってきます!

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第5話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。


礼子ちゃんのおかげで自信を取り戻した僕は、以降の小学生時代をとても楽しく過ごしていました。

時が過ぎ、中学(湯布院中学校)に進学した僕は、入学式の初日に柔道部の門を叩きました。

この頃テレビで「柔道一直線」(桜木健一主演、近藤正臣が足でピアノを弾いたことで有名)が流行っており「強くなって黒帯を締めたい!」と単純に思ったのが入部のきっかけでした。

ブームだったこともあって4月には新入部員が30名ほどいたのですが、3ヶ月後に残ったのはわずか7名。

先輩に容赦なく畳に投げつけられる毎日に、ほとんどの連中は逃げ出すように退部していきました。

僕も毎日辛くて、辞めたいと思ったこともしばしばだったのですが、意外と負けず嫌いなところもあり、そのままズルズルと続けることになりました。「黒帯をいつかは締めたい!」という思いもかなり強かったのでしょう。

結果的に中学3年の夏の大会まで柔道を続けることになり、3年生の夏には昇段試験にも受かり、念願の黒帯(初段)を締めるまでになりました(初段の免状と黒帯を先生から受け取ったときには、ムッチャクチャ嬉しかったです)。

今では、お腹も胸もぜい肉だらけでプヨプヨしていますが、当時は結構逞しかったものです。

卒業記念に撮った柔道部の写真

ところで、中学生ともなると高校進学を前提とした勉強にも力を入れざるを得ない時期。我が湯布院中学校は、田舎の中学校でありながら学業指導にも熱心な学校でした(それが普通なんですかね)。

僕は柔道漬けの毎日だったため、家で勉強や宿題をやることは殆どありませんでしたが、それでもまー、授業中はちゃんと起きていたこともあってクラスでは2番か3番、学年では10番前後をキープしていたでしょうか。

自分では「我ながらよーがんばっちょる。こんくらいの成績やったら上出来じゃよ…」と思っていたのですが、学校の先生や母親は、そうは思ってくれなかったようで、 「お前なー、どしちもっと勉強せんのかのー。お前の兄ちゃんはのー、学年で1番以外取ったことなかったんぞ!」と、いつも口やかましく言われていました。

僕には5歳年上で「中学始まって以来の秀才」とまで言わしめた成績優秀な兄貴がいて、当時の学年主任や数学や英語など主要科目の先生の多くが、兄を教えた人だったんですね。

そんな秀才だった生徒の弟が入学してくるということで、先生たちの期待はずいぶんと大きかったようです。

折悪しく?そんな兄が、東大法学部に受かってしまったものだから、余計その期待は膨らんでいきました。

「おい、お前の兄ちゃんは東大ぞ!お前もがんばって東大めざさんか!」と母親や一部教師たち。

「うるせー、俺は俺じゃ!兄貴なんかと比べるんじゃねー。何が東大じゃ!」「お前らは兄貴の東大入学だけで満足しちょりゃ、それでいいんじゃ」と、僕の心の叫び。

なぜか学業の上ではかなり劣等感を抱いていた中学時代。普通なら誉められてもおかしくない成績だったのに、おかしなものですね。

おそらくこの中学時代に兄と比較された悔しさが、大学卒業後に普通の進路を選択しなかった僕の生き方に繋がっているような気がします。

(つづく)


そういえば先週放送の「エール」に、桜木健一が登場していました。スランプに陥っている主人公(窪田正孝)に気づきの一言を語るレコード会社の録音技師として。ほんの数十秒の出演だったんですが感激しました。桜木健一、もう72歳なんですねえ……。

さて、本日は在宅勤務の予定だったんですが、会社に置いてある資料を取りに行かねばなりません。今週は月末なので、郵便受けには請求書もぼちぼち届き始めるころですしね。ついでに経理担当者宅までお届けすることにしましょう。

では朝食&エール後、きょうは自転車で行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第4話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。


湯布院の冬はホントに寒い。12月頃でも、雪の降る日は珍しくありませんでした。

その事件当日も前日にまとまった雪が降り、登下校途中の道路には雪がたくさん積もっていました。

クラスの仲間とうち解けることのできなかった僕は、その日も学校が終わると、ひとりトボトボと家に続く一本道を歩いていました。

ぼーっと歩いていた僕の背後に人の気配を感じたと思った瞬間、うしろ襟をグイッと引っ張られて冷たいものが背中に流し込まれていきました。

一瞬、何が起こったのか分からず振り向くと、そこには図体のでかい、いわゆるいじめっ子ども数名が卑猥な笑いを浮かべながら、さらに大きな雪の固まりを僕の襟首めがけて執拗に放り込もうとしています。

泣き叫びながら必死に抵抗するのですが、多勢に無勢、攻撃の手はいっこうに緩みません。

僕は悲しいのと悔しいのと冷たいのとで、相当な混乱状態だったと思います。

と、その時です。

「やめなさいよー!」と、ひとりの女の子が、そのいじめっ子どもに飛びかかっていったのです。

「あんたたち、なにしよんの!」「こげんこつして、ひでーと思わんのかい!」「先生にいうちゃるけんね!」

と、いじめっ子どもを睨み付け、見事に蹴散らしてくれたのです。

その女の子は、同じクラスの「礼子ちゃん」。

礼子ちゃんのイメージイラスト(フリー素材)ですw

 

この時まで一度も口をきいたこともなかった女の子でした。

彼女は、いじめっ子を追っ払った後、「くぎさきくん、いっしょに帰ろう!」と言って僕の手を握り、家まで送っていってくれました。

礼子ちゃんとその日の帰り道に交わした会話は、残念ながら思い出すことが出来ないのですが、礼子ちゃんのいじめっ子に放った威勢のいい啖呵と、手をつないだ横から見る礼子ちゃんの可愛い横顔(透き通るような白い肌と、大きい瞳、小さい唇…)は、33年経った今でもハッキリ覚えています。

唯一、礼子ちゃんから言われたことで覚えているのが「負けちゃ駄目!」という言葉でした。

翌日から、クラスに礼子ちゃんという味方がいるということだけで、自然と勇気が湧いてきて、徐々に「暗黒の小学校一年生」を脱却することになりました。

 

初めての春休みを経て、2年生の始業式の日のことです。

クラス替えが行われ、指定された教室に入って真っ先に礼子ちゃんを探したのですが、礼子ちゃんの姿はどこにもありませんでした。

「何組になったんだろう……」と、他のクラスをのぞきに行っても礼子ちゃんは見あたりません(当時は1学年3クラス編成でした)。

意を決して、「先生、1年2組だった礼子ちゃんは、今度は何組になったん?」と聞いてみたら、ショッキングな答えが返ってきました。

「礼子ちゃんはな、お父さんの仕事の関係で、湯布院を引っ越したんよ」

礼子ちゃんのお父さんは、湯布院の駐屯地に勤める自衛官だったのです。自衛官は転勤が多く、別の部署に異動になったとのことでした。

ほんの数ヶ月しか顔を合わせることのなかった礼子ちゃん。でも間違いなく、ずーっと僕の心に残り続けています。

「弱きを助け強きを挫く」という言葉や「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が本などに出てくるたび、礼子ちゃんの威勢のいい啖呵を思い出し、少しだけ胸がキュンとしてしまいます。

(つづく)


 

この回を書いたとき(西暦2000年8月でした)の読者の反響は大きくて「礼子ちゃんを探せ!」というプロジェクトが作られたほどでした。

でも、結局は見つからず……。

上の物語では「礼子ちゃん」となっていますが、ひょっとしたら「令子」や「玲子」という字だったかもしれません。

なにしろ小学校1年生のころのお話。あれからすでに53年もの年月が過ぎようとしています。6~7歳だった礼子ちゃんも、もう還暦を迎えてしまうわけですが、僕の中ではいつまでもイメージ画像の可愛い女の子なのであります(#^^#)。

さて、本日は寒いですね。朝食&エール後、上着を羽織って久々に会社に行ってきます!