新・パフの創業物語<第30話>「転職」
2020年8月7日 (金曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第30話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年2月某日。釘崎青年28才。
某人材スカウト会社のコンサルタントと池袋の喫茶店で待ち合わせをしていました。
この時のボクは比較的冷めており、「まぁ、話は聞くだけ聞いておいて損はないしな。よっぽど良い話なら考えればいいか」くらいの気持ちでした。
「あのう、釘崎さんですね?」
ボクが席に着くやいなや現れたコンサルタントTさん。非常に柔和な表情で、落ちついた物腰のジェントルマンといった感じの方でした。
一時間ほど、話をしたでしょうか。
・ボクに転職の意志があるかどうか
・検討して欲しい会社が3社あること
・そして、その3社の事業内容や募集職種の説明
が、話の中心だったと思います。
最初の方は、冷ややかに話を聞いているだけだったのですが、最後の方では思わず身を乗り出して自分からいろんな質問をしていました。
正直なところ、かなり心が揺れていました。
一晩じっくりと考えた末、「よっしゃ、いっちょ転職してみるか!」という結論を出したのです。
もちろん、在籍していたS社には、様々な恩もあり、またボクが採用した可愛い後輩たちもたくさんいる。非常に悩ましい決断でした。
しかし、自分の将来を犠牲にすることはできない。自分を高く買ってくれる会社が、いま目の前にいるこのチャンスを逃がしてはならない。
そう考えたのでした。
翌日、コンサルタントのTさんに電話で、その3社の話を今一度詳しく聞いてみることにしました。
3社とも無条件にボクを受け入れるということではなく、一通りの面接試験を経たうえで、ということでした。
3社中2社は外資系のコンピュータメーカー。1社は国内最大手コンピュータメーカー系の大手ディーラーでした。
ディーラー以外はSEとしてのみの採用。ディーラーはSEもしくは親元のメーカーに出向して販売推進プロジェクトメンバーに加わることを前提とした採用だったのですが、ボクがひかれたのは後者の販売推進プロジェクトでした。
早速そのディーラーM社の面接を受けに行くことになりました。
出てきたのは、その会社のナンバー2の専務と営業担当の取締役。何を話したかはよく覚えていないのですが、面接は1時間ほどで、その後その会社が別会社として経営していた高級中華料理の店に連れて行かれ、ぜひ転職を決心してほしい、という話になっていました。
先方の熱意あふれる誘いの言葉にボクの気持ちもどんどん揺れていき、会食の終盤では、新たな道への意欲が湧いていたのでした。
問題は、5年間お世話になったS社の社長に何と言うか。また、ボクが採用した可愛い後輩たちにどう説明するのか。
この2つのことだけが気がかりでした。
(懐かしいなぁ…つづく)
「池袋の喫茶店」と書いていますが、このお店は「談話室滝沢」というところ。若い人はご存じないでしょうが、知る人ぞ知る、上流(?)社会人の密談場所です。wikipediaでは次のように紹介されています。
談話室滝沢(だんわしつたきざわ)は、日本にかつて存在した喫茶店。東京都に4店舗を構えていた。
1966年に1号店がオープン[1]。コーヒー・紅茶などの飲み物は一律1,000円(但しケーキ類のデザートをセットすると総額1,100円~1,200円程度でセットメニューになった)と割高であったが、マスコミ・出版業界を中心に利用者は多かった(被取材者へのインタビューなどに利用)。接客態度を重視する姿勢から、ウェイトレスは全て正社員で、全寮制の社員寮に入れて接客教育を行っていた[1]。
しかし、従業員の確保が困難になったことから社員寮を廃止し、ウェイトレスの約8割がアルバイトになっていたこともあり、サービスの質を保つのが困難になったため、閉店することになり、2005年3月31日午後9時50分を持って全店を閉店した[1]。新宿東口店と池袋東口店の跡地には「椿屋珈琲店」(東和フードサービス直営)が入居している[2]。
なお、最終日前日当日の売り上げは災害復興支援として日本赤十字社に寄付された[1]。
なるほどねー、歴史を感じますね( ^)o(^ )。
さて、本日は終日、某社での研修です。リアルな場で講師をやるのは何カ月ぶりでしょうか。うまく喋れなかったらどうしましょう💦
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第29話>「脱SEを考えていた自称優秀SE」
2020年8月6日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第29話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
S社でのボクの働きぶりは、自分で言うのもおこがましいのですが、新人離れしたモーレツぶりだったと思います。
採用担当者として、毎年数名ずつ優秀な人材を確保するかたわら、SEとして数々のシステム案件を受注し顧客に納得してもらえるシステムを開発し続けており、取引先から厚い信頼をいただけるようになっていました。
ボクが評価されていた点は技術力ではなく、エンドユーザーとの交渉力(交渉姿勢)や、トラブルが発生したときの対応力、そしてプロジェクトメンバーの志気を維持させながらタイトな開発スケジュールをこなしていった統率力といったものだったように思います。
とにかく我ながらよく働きましたが、その原動力となっていたのは2つ。
1.がむしゃらに働くことによって会社を成長させ、自分の会社選択の正しさを周囲(特に親兄弟)に証明したかった
2.自分の働きにより顧客が大きな信頼を寄せてくれ、様々な新しい仕事を発注してくださっていた
この2つが、ボクをモーレツに働かせた大きなエンジンだったのですが、悩みも次第に大きくなっていったのでした。
この悩みも大きく2つありました。
1.低すぎる収入
2.このままSEの道を歩んでいっていいのだろうか、という疑問
収入については、ホントに洒落にならないくらい低レベルでした。
とくに入社3年目くらいまでは、アパートの家賃と光熱費を払うともう手元には数万円しか残らず、食事さえ不自由するような状態。電話代の滞納常習犯で、NTTに止められてしまうこともしばしばでした。
1~2年目の頃は「会社さえしっかり大きくなってくれれば…」と、さして不満に思うこともありませんでしたが、3年目以降、自分の働きや稼ぎに自信を持つようになっていたボクは、次第に会社の経営に不信感を覚えるようになってしまいました。
しかし、変なところでプライドが高いのと同時に気の弱いボクは、「カネのことでグチャグチャ言うのは男らしくない」などと自分に言い聞かせてしまい、不満を内に募らせるようになっていました。
それともっと根本的な問題。
元々SEになろうと思っていたわけではなかったボクは、SEとしての仕事をバリバリとこなせばこなすほど、顧客から誉められれば誉められるほど、満足感を得る一方で「このまんまでいいのだろうか?」と思うようになっていたのです。
自分は確かに与えられた仕様に基づいて、最適なシステムを設計したりプログラムを考えたりすることにおいては能力を発揮していたと思います。でも、自分の本来の能力・持ち味は、もっと違うフィールドにあるのではないかと思うようになっていました。
それに元々ボクは、細かいことを理詰めで考えるのが苦手なタイプで、SEの仕事で上を目指すには、きっと近い将来(性格のうえで)破綻を起こすのでは?と思っていたのです。
普通ならば「よし、転職しよう!」と考えるところですが、義理人情で入社したこの会社を自発的に去るという考えには、なかなか向かうこともできませんでした。
将来の人生設計について、いろいろな悩みを抱えながら仕事を続ける内に5年の月日がすでに流れていました。
1989年2月。
釘崎青年が28才の頃です。会社で仕事をしていたボク宛てに1本の電話が突然かかってきました。
「えー、私、○○(某人材スカウト会社)のKと申します。突然のお電話で恐縮なのですが、内々に一度お会いさせていただけないでしょうか?」
「は?なんのご用件ですか?」
「釘崎さん御自身のキャリアアップにつきまして…いや、実はある会社で釘崎さんのような経歴の方を強く望まれておりまして…」
この1本の電話が、ボクのその後の人生の大きな転換点となったのでした。
(どうすんの?会うの?…つづく)
悩んでますねー。若きウェルテルの悩み・・・ならぬ、若き日の釘さんの悩みですね。
20代後半というのは、誰しも自分の将来のキャリアで悩む時期なのかもしれません。
いずれにしてもパフ創業までの道のりは、まだまだ遠いようです💦
さて、本日は対外的なwebミーティングが三連荘。外は猛暑なので、こんな日のwebミーティングは気が楽ですね。
では朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第28話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~3~」
2020年8月5日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第28話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
「む、むちゃくちゃですね。2ヶ月間かけて、これですか……」
ボクが生まれて初めて作ったパソコンのプログラム。それはそれは、ひどいモノでした。
悪いことに、このシステムのエンドユーザー(最終納品先)はC社の大得意さんで、国内最大手コンピューターメーカーであるF社だったのですが、その納期(エンドユーザーの立ち会い検査日)まで、実はあと1週間しかなかったのです。
普段は飄々としている技術者E本さんも、この無茶苦茶なプログラムを目の当たりにして、さすがに言葉を失った様子でした。
しかし、しばらくして…
「釘崎さん、どんなことをしてでも、あと1週間で完成させますからね。明日からは、この技術センターに缶詰になっていただきます。一緒にプログラムを完成させましょう」
「は、はい」としか答えることの出来なかったボクは、翌日からまさに一睡もできない状況下におかれ、日々プログラムの修復(というかほとんど作り直し)に追われる毎日でした。
もっとも、ほとんどのプログラムを作ってくれたのは担当のE本さんであり、ボクはその助手みたいな感じで、E本さんの鮮やかなプログラミング技術に感心しながら、次第次第に出来上がっていくシステムに感動を覚えたものでした。
そして1週間後、無茶苦茶だったプログラムは見事生まれ変わったのでした。
「釘崎さーん、なんとか間に合いましたね。ほら、ちゃんと仕様通りに作動してますよ。やりましたねー。これで我々クビにならずに済みますよ。やれやれ(笑)」
このE本さんの、納期までにシステムをキチンと完成させるという執念。休むことなく、寝ることなく、黙々とシステム作りを行う集中力、精神力。
そして、ほんとうに納期通り完成させてしまった凄い技術力。おそらくE本さんは、この1週間ほとんど寝ていないはずで……。
社会人(というかプロのエンジニア)というのは、かくもスゴイものかと思い知らされた1週間でした。
それにしても、どうしようもないまったくのド素人である外注のボクを見捨てるどころか、一緒に最後までつきあってくださたE本さん、未だに感謝しています。ボクの大恩人のひとりです。
このシステム案件がきっかけで、以降たくさんの仕事をボクご指名でいただくことになり、ボクのシステム技術者としての社会人生活が本格的にスタートすることになったのでした。
そして5年後、社会人としての岐路がまた訪れることになるのです。
(いきなり5年後?ずいぶん端折るねー。…つづく)
このE本さん、20年近く前に再会した(先輩格のエンジニアで子会社の社長になっていた)S藤さんに「実は昨年ご病気で亡くなられたんですよ」とお聞きしました。たいへんショックを受けたものです。
どうしようもなかった素人のボクが、いっぱしのプログラムを組めるようになったのはE本さんのおかげなのです。
上の物語の数年後だったでしょうか。「釘崎さん、今度のシステム、すごくいいプログラムを書きましたね!そのモジュール(部品)、私のシステムでも使わせてもらっていいですか?」と、褒められたことがありました。とても嬉しかったことを覚えています。
現地調整作業のときなどは終電や終バスを逃すことも多かったのですが、僕の住むアパートまでクルマで送ってもらうこともしばしばでした。
天国のE本さん、その後のボクはE本さんに教えてもらったプログラミング技術や知識を応用しながら、あるいは執念やマインドを見習いながら、コンピュータ関連の世界でどうにかこうにか生きることができました。いまさらですが、本当にありがとうございましたm(__)m。
さて、本日の午前中は第25期8月度のキックオフミーティング。次期社長率いる初めての月次業績はどうだったんでしょうか。僕はwebで参加することにしましょう。
午後は銀行とのリアル会議なので出社しますけどね。
では、朝食&エール再放送後、まずは家からキックオフミーティングに参加します!
新・パフの創業物語<第27話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~2~」
2020年8月4日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第27話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年6月。
大手計測制御メーカーC社からシステム開発を受注して2ヶ月ほどの月日が経っていました。
開発メンバーはボクを含めて3名。ひとりは、SE歴15年の大先輩。もうひとりは、SE歴2年の小先輩。そして経験年数ゼロのボク、という組み合わせでした。
システム構成は大きく2つに分かれていました。ひとつは計測装置に組み込むROMそのものを開発する部分。もうひとつは、計測装置の起動、中断、終了などの運転制御や、計測されたデータの分析や運転状況の監視を画面表示を通じて行うパソコンシステムの部分です。
実は先輩の2人、いろんなシステムの開発経験はあるものの、パソコンのプログラミングはまったくの初体験でした。「え?」と思われるかもしれませんが、パソコンがやっと世の中に出回り始めたのがこの頃だったので、無理のないことでした。
「釘ちゃんさー、俺たちもパソコンに関してはまったくの素人だからさー、パソコンの担当は釘ちゃんがやっても俺たちがやっても一緒だよな」
「は?」
「うん、ということで、釘ちゃんがパソコンの担当ということで決まり!」
「え?じょ、冗談でしょ?またー、は、ははは。え、マジっすか?」
ということで、システムのイロハも分からぬまま、独学でBASICなるプログラミング言語と格闘することになったわけです。
それからの2ヶ月間、アパートに帰ったのは土・日含めて数えるだけ。
ボクの寝床は、会社の机の上に敷き詰めた古新聞。
枕は、MS-DOSの分厚い英語のマニュアル。
そして掛け布団は、トグロを巻いたストックフォーム(プログラムリストを出力するための連続帳票用紙)。
売れっ子漫画家顔負けの、想像を絶する生活が続いたのでした。
そんなこんなで悪夢のような日々は過ぎ去り……。
まがりなりにも組みあがったシステムを、先方の担当者に見てもらう日がやってきたのです。
「あ、釘崎さん、できましたか?難しかったでしょう。どれどれ動かしてみてくださいよ」と、先方の技術担当者であるE本さん。
出来上がりに自信なんてまったくなかったのですが、「えーい、もうどうにでもなれ!」という心境で、フロッピーディスクに格納したプログラムをパソコンに読み込ませ「RUN」というプログラム実行ボタンを押すボク。
E本さんの顔が見る見る変わっていくのが、怖いほどよく分かりました。
「む、むちゃくちゃですね。2ヶ月間かけて、これですか……」
釘崎青年の本当の地獄の生活は、ここから始まるのでありました。
(や、やっぱり死ぬのか?つづく)
そりゃあ経験ゼロの素人が組んだプログラムがむちゃくちゃなのは無理もありません(苦笑)。でも、このとき先輩二人が組んだ計測装置側のプログラムもぜんぜんダメだったんですよね。
実はこの計測装置はC社にとっても新製品で、参考にできる過去の事例やノウハウなどもありませんでした。C社の技術担当者と共に途方に暮れていた1984年の初夏の夜だったのです。
さて、本日は事業承継スキームを考える日。明日の金融機関との打ち合わせに備えて、あたまの中の構想をパワポに整理します。わりとややこしいのですが、計測制御のシステムを作るのに比べれば何倍も楽ちんな仕事です(笑)。
では朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第26話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~1~」
2020年8月3日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第26話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年4月某日。
計測制御技術では定評のある(といっても当時のボクは、全然知りませんでしたが)C社技術センターでの、腕利き技術者とのシステム開発のための仕様打ち合わせ。
入社2年目のSEだなんて偽ったって、所詮ボクは、つい先日までリクルートブックの広告営業しかやったことのない超文系人間。あっという間にボロが出てしまいました。
この時に打ち合わせをしたシステムは、「ZD(ツェナーダイオード)エージング装置制御システム」というやつで、極めて荒っぽく説明すると…
「ダイオードを冷蔵庫の化け物みたいな恒温槽という入れ物に保管し、温度を0℃~100℃くらいまで切り替えていきながら、ダイオードから得られる電流・電圧・光量なんかを1週間サイクルで計測し、そのデータを計算式を駆使しながら様々なチャートやグラフで描くシステム。この温度制御や、データの取得、分析・作画・作表などの一切合切の処理をパソコンで取り仕切る」
というシロモノです。・・・といっても、わかんないでしょ?
こんなワケの分からないシステムを、文系の大学を卒業したてで、数学も物理も化学も音痴で、コンピュータもさわったことのない奴が理解できるはずがない。
打ち合わせが本格化して15分ほど。真っ青な顔をして脂汗を流しているボクに気づいた先方の技術者は、
技 : 「あのー釘崎さん、わかります?ちょっと難しいかな?」
釘 : 「え、え、えぇ、いやー、ちょっと…」
技 : 「釘崎さんて、学生時代の専攻は?物理?数学?電気?情報?」
釘 : 「い、いや、あのー、ま・マーケティングを少々…」
技 : 「マーケティング?あ、じゃ、じゃぁ、パソコンのプログラミングには詳しいんだ。で、ですよね?」(覗き込むように)
釘 : 「い、いやー、それも実は……」
技 : 「……」
もうウソはつけないと観念したボクは、
釘 : 「すみません、ボクはつい先日、大学を卒業したばかりで、パソコンもまるで触ったこともなければ、ましてやダイオードなんてさっぱり分からないまるっきりの素人なんです」
と、蚊の泣くような声で、白状をしてしまったのです。
これにはさすがの、技術者S藤さん、E本さんもビックリされたのでしょう。しばらくは沈黙が続きました。
しかし先輩格の技術者S藤さんは、
「まぁ、仕様書はキチンとあるわけだし。今日の打ち合わせの内容を持ち帰っていただければ、会社の他の皆さんでなんとかしてくださるでしょう」
といって、残りの説明を懇切丁寧にしてくださったのでした。
薄れ行く意識の中での打ち合わせも終わり、「もうこの会社に来ることはないだろうな。社長には悪いけど、この会社との取引はオジャンだ。あーあ」と思ってその日は帰宅。
ションボリとして翌日会社に行くと、思わぬ社長の一声が…。
「おーい、釘ちゃーん。昨日はお疲れさま、悪かったね。さっきC社から電話があってさ、昨日の打ち合わせのシステム、よろしくお願いしますってさ!釘ちゃん、なかなか評判良かったみたいだねー。『なかなか頼もしい新人ですなー』って俺誉められちゃったよー!」
おいおい、ホントかよ?
正式な受注は、会社としては嬉しいことかもしれないけど、あのワケのさっぱり分からない「エージングシステム」、ホントに俺やるの……。
得体の知れぬ恐怖と不安が一気に襲ってきた瞬間でした。
そしてその恐怖と不安は、みごと現実のものとなり、身も心もボロボロのグチャグチャ新社会人生活1年目がスタートするのでした。
(し・死ぬなよ!つづく)
この物語を書いたのは丸20年前ですが、システムの説明がわりと詳しく書いてあってビックリしました。ちゃんと覚えていたんですね。それにしても、よくもまあこんな難しいシステムを作っていたものだと我ながら感心します(苦笑)。
さて、本日は売られた喧嘩を買いに行かねばなりません。もういい加減うんざりで、早くこの詳細を公表したいんですけが、もう少し先になりそうです。
では朝食&エール再放送後、重い資料をゴロゴロしながら行ってきます!
新・パフの創業物語<第25話>「おそるべきチョー素人エンジニア」
2020年7月31日 (金曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第25話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年4月某日。
東武東上線上福岡駅からタクシーで15分ほど坂道をのぼったところに、ボクが「偽SE」として乗り込んだ会社「C社」の技術センターがありました。
リクルートで、どんな相手にも怖じ気づかない営業マインドだけは備わっていたボクなので、受付でも堂々と
「えー、S社のクギサキと申しますが、計装技術部のS藤さんとE本さんをお願いします」
と言ったまでは良かったのですが……。
数分、打ち合わせコーナーで待たされた後に現れた2人のいかにも頭の良さそうな担当の技術者であるS藤さんとE本さん(ご本人に承諾の連絡がとれませんでしたので伏せ字で失礼します)。
お二人とも、当時30代半ばの、いちばん働き盛りのバリバリのエンジニアでした。
「あー、どうも初めまして。クギサキさんと仰るんですな?ほー、珍しい名字ですなー。ご出身は?え?九州?はーそうですか、いや、私はですな、東北出身でですなー、九州というとお酒はお強いんでしょうなー、私の田舎も日本酒はなかなかのものでしてなー・・・」
リーダー格のS藤さんはこんな感じで、技術者にしては珍しくよく喋る超フレンドリーな方で、打ち合わせも順調に進むかと思われたのですが……。
約1時間後。
強烈なパンチに打ちのめされて、ダウン寸前の「偽エンジニア釘崎青年」が朦朧とした意識で立ちすくんでいました。
(え?今日はたったのこれだけ?…つづく)
このコラムを含むメルマガは、毎週月曜日に当時の職サークル会員学生(3万人くらいいました)に配信していました。
書いていたのは前日の日曜日の深夜。というか、配信の数時間前の月曜日の明け方でした。
このころって、社員は誰もおらず(いたのは内定者4名と総務経理をやっていた奥様のみ)僕は土日も祝日もなく、徹夜することもしばしば。起きている時間はほぼ働いていました(お客さんと飲むことも多かったんですがそれも仕事のうちw)。
われながらよく働いていたと思います。なので、今回のような短いコラムのときもあったんですね。決して手抜きだと思わないように(苦笑)。
では、朝食&エール再放送後、仕事します!
新・パフの創業物語<第24話>「釘ちゃん、SEやってくんないか?」
2020年7月30日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第24話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年4月。
大学を卒業したボクは、S社の正式な新入社員、しかもその会社にとっての新卒1号社員として迎えられました。
ボクのその会社での一番のミッションは、優秀な人材を新卒、中途を問わず採用すること。これは、リクルートでの経験もあり、ほどほどの自信(自惚れ)がありました。
しかし、二番目のミッション。これによって、ボクはそれまで体験したことのなかった、恐怖、数々の絶体絶命状態を味わうことになるのでした。
それは入社直前の時期に交わした、S社の社長との会話から始まったのであります。
社長 : 「釘ちゃんさ、もちろん採用の仕事は、釘ちゃんが専門家だから、これから全部、釘ちゃんにまかすよ」
ボク : 「はい、まっかせてください!エッヘン!」
社長 : 「でもね、釘ちゃん。うちの会社ってコンピュータの会社なんだよね」
ボク : 「そんなの知ってますよ、なーに今ごろ言ってんすか。ハハハ」
社長 : 「うん。採用の仕事っていうのも大事なんだけど、忙しいのはごく一時期だけでしょ?」
ボク : 「は?はぁ…」
社長 : 「今ね、うちはとっても人手不足でね、SEが一人でも欲しいのよ」
ボク : 「ちょ、ちょっと…。ま、まさか…」
社長 : 「釘ちゃん!釘ちゃんもSEやってくんない?頼むよ!」
ボク : 「え゛ーーーーーーー!!!!そ・そんな!どっひゃー!!!」
・・・とまぁ、面白く脚色するとこんな感じのやりとりがありまして、うすうす分かってはいたのですが、コンピュータなどとは全く無縁であったボクがSEへの道を歩まざるをえないことになったのでした。
しかし!
ボクは高校2年までは理系進学コースだったものの、あまりの数学と物理の成績の悪さに、担任教師から文系コースに変更させられたほどの筋金入りの文系人間。
しかも!
ボクは機械音痴、文明音痴の、超ぶっ器用人間であり、パソコンやワープロすらなかった時代に「コンピュータ」なんぞ絶対関わりになるはずはない!と思っていたほどなのです。
ところが、入社後はSEになるための勉強をやらねばならぬ。
4月の入社直後から、bit(ビット)だのbyte(バイト)だのhexa(16進数)だのフローチャートだのアセンブラだのコボルだのフォートランだのレジスタだのメモリだの……。まったく訳の分からない言葉と闘うことに。
当時はマイクロソフトの「MS-DOS」のマニュアルも英文のものしかなく、その翻訳までやることに。
毎日、脂汗が吹き出る始末でした。
しかし、そんな泣きゴトを言っている場合ではない状況がすぐに訪れたのでした。
社長 : 「釘ちゃんさ、こんど人の紹介で新しく取り引きしてもらえる会社ができたんだ。上場している大手計測制御メーカーで、C社っていうんだ」
ボク : 「おー、よかったですねー。おめでとうございます!」
社長 : 「うん、それでね、すぐにパソコンを使った制御プログラムの開発の仕事をやって欲しいって言われてるんだけど…。ほら、いまみんな他の仕事が火の車で誰もいないでしょ……」
ボク : (不吉な予感を体一杯に感じながら)
社長 : 「釘ちゃん、明日先方の技術者と打ち合わせしてきてくんない?」
ボク : 「ま・ま・ま・まじですか!?」
この日を境に、ボクは、対外的には、入社2年目のプログラマーということに……。
リクルート時代に続いて、2年連続の経歴詐称を行うことになったのでした。
(このうそつき!・・・つづく)
パフの社訓になっている「うまれよ」の「う」は、「うそをつくな」なんですが、22~23歳のころの僕は、嘘にまみれた仕事をしていたわけで、その報いをこのあとすぐに受けることになります(苦笑)。
さて、きょうは久々にパフの本社事務所に行って仕事をせねばなりません。
社長の椅子と机は、執務室のレイアウト変更とともに返上したのですが、はたして僕が仕事をする場所は残っているのでしょうか(‘_’)。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!