新・パフの創業物語<第29話>「脱SEを考えていた自称優秀SE」
2020年8月6日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第29話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
S社でのボクの働きぶりは、自分で言うのもおこがましいのですが、新人離れしたモーレツぶりだったと思います。
採用担当者として、毎年数名ずつ優秀な人材を確保するかたわら、SEとして数々のシステム案件を受注し顧客に納得してもらえるシステムを開発し続けており、取引先から厚い信頼をいただけるようになっていました。
ボクが評価されていた点は技術力ではなく、エンドユーザーとの交渉力(交渉姿勢)や、トラブルが発生したときの対応力、そしてプロジェクトメンバーの志気を維持させながらタイトな開発スケジュールをこなしていった統率力といったものだったように思います。
とにかく我ながらよく働きましたが、その原動力となっていたのは2つ。
1.がむしゃらに働くことによって会社を成長させ、自分の会社選択の正しさを周囲(特に親兄弟)に証明したかった
2.自分の働きにより顧客が大きな信頼を寄せてくれ、様々な新しい仕事を発注してくださっていた
この2つが、ボクをモーレツに働かせた大きなエンジンだったのですが、悩みも次第に大きくなっていったのでした。
この悩みも大きく2つありました。
1.低すぎる収入
2.このままSEの道を歩んでいっていいのだろうか、という疑問
収入については、ホントに洒落にならないくらい低レベルでした。
とくに入社3年目くらいまでは、アパートの家賃と光熱費を払うともう手元には数万円しか残らず、食事さえ不自由するような状態。電話代の滞納常習犯で、NTTに止められてしまうこともしばしばでした。
1~2年目の頃は「会社さえしっかり大きくなってくれれば…」と、さして不満に思うこともありませんでしたが、3年目以降、自分の働きや稼ぎに自信を持つようになっていたボクは、次第に会社の経営に不信感を覚えるようになってしまいました。
しかし、変なところでプライドが高いのと同時に気の弱いボクは、「カネのことでグチャグチャ言うのは男らしくない」などと自分に言い聞かせてしまい、不満を内に募らせるようになっていました。
それともっと根本的な問題。
元々SEになろうと思っていたわけではなかったボクは、SEとしての仕事をバリバリとこなせばこなすほど、顧客から誉められれば誉められるほど、満足感を得る一方で「このまんまでいいのだろうか?」と思うようになっていたのです。
自分は確かに与えられた仕様に基づいて、最適なシステムを設計したりプログラムを考えたりすることにおいては能力を発揮していたと思います。でも、自分の本来の能力・持ち味は、もっと違うフィールドにあるのではないかと思うようになっていました。
それに元々ボクは、細かいことを理詰めで考えるのが苦手なタイプで、SEの仕事で上を目指すには、きっと近い将来(性格のうえで)破綻を起こすのでは?と思っていたのです。
普通ならば「よし、転職しよう!」と考えるところですが、義理人情で入社したこの会社を自発的に去るという考えには、なかなか向かうこともできませんでした。
将来の人生設計について、いろいろな悩みを抱えながら仕事を続ける内に5年の月日がすでに流れていました。
1989年2月。
釘崎青年が28才の頃です。会社で仕事をしていたボク宛てに1本の電話が突然かかってきました。
「えー、私、○○(某人材スカウト会社)のKと申します。突然のお電話で恐縮なのですが、内々に一度お会いさせていただけないでしょうか?」
「は?なんのご用件ですか?」
「釘崎さん御自身のキャリアアップにつきまして…いや、実はある会社で釘崎さんのような経歴の方を強く望まれておりまして…」
この1本の電話が、ボクのその後の人生の大きな転換点となったのでした。
(どうすんの?会うの?…つづく)
悩んでますねー。若きウェルテルの悩み・・・ならぬ、若き日の釘さんの悩みですね。
20代後半というのは、誰しも自分の将来のキャリアで悩む時期なのかもしれません。
いずれにしてもパフ創業までの道のりは、まだまだ遠いようです💦
さて、本日は対外的なwebミーティングが三連荘。外は猛暑なので、こんな日のwebミーティングは気が楽ですね。
では朝食&エール再放送後、仕事します!