新・パフの創業物語<第10話> 「大学入学・・・人形劇とはとバスと」
2020年6月17日 (水曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第10話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1980年2月。
2度目の大学受験シーズン到来です。
密かに大学コンプレックスをお持ちの皆さんも、結構いらっしゃるのではないかと思います。僕もその昔、情けないことにその一人でした。
成績が悪く、勉強もしなかったくせに、「どうせ行くなら一番有名で難関の大学に行きたい!」なんてことを考えていました。
高校在学中のころは、教師主導・生徒不在の「目指せ!有名大学!」に反発し、大学に行くことそのものに対して疑問を感じていたのに、いざ大学を目指そうと思ったとたん、負けず嫌いなのか、ミーハーなのか、いわゆる「受験小僧」に陥ってしまいました。
が、大学入試って、結構フェアなもんですねー。
にわか受験小僧の実力など、ほとんど通用しなかったようです。
結果的に僕が入学した大学は、明治学院大学経済学部です。
この大学以外に受かったところが、もうひとつ。その大学は…明治大学政治経済学部でありました。
同じ「明治」つながりでありますが、校風というか雰囲気のまったく違う大学です。
田舎出身で、鈍くさい僕は、たぶん「明学」よりも「明治」に相応しい人間だと思ったのですが、迷った結果の選択は「明学」でした。
(#注意:明治のみなさんが「田舎出身で鈍くさい」と言っている訳ではありません!)
選択の大きな理由は、明学の経済的優位性にありました。
明学は当時、入学金と授業料が、他の私大に比べて格段に安かったのです。国立大学よりもやや高い程度で、比較対象の明治大学の半額以下でした。さらに家庭の経済状況と成績次第では「授業料全額免除」という制度もあり、これも大きな魅力でした(その後、僕はこの制度で大学2年生まで授業料が免除されました)。
明学は、貧乏人にたいへんやさしい大学だったんですね。知名度とか規模とか入試難易度の割に、社会で活躍している先輩が多いのはこの辺に理由があるのかもしれません。
ともあれ、港区白金台の(一見)お洒落な大学、明治学院大学が僕の愛すべき母校であり、1980年から1983年までの4年間、様々な「青春」を生み出す舞台となった訳であります。
大学生と言えば、やっぱり「サークルとバイト」です。
僕が選んだサークルは「人形劇団ZOO(ずー)」という団体。幼稚園や小学校、養護施設、児童館などを巡り、子供たちに対して人形劇の公演をドサ回りする団体でした。
自分たちで脚本を作り、人形を作り、主題歌・劇中歌を作り、照明を作り、大道具・小道具を作り、そして自ら人形を操りながら演じていく、プロさながらの劇団でした。
かぐや姫の「神田川」をモチーフにした映画「神田川」(草刈正雄、関根恵 子主演)の舞台がやっぱり大学の人形劇サークルだったこともあって、僕は「横丁の風呂屋」を期待しながら、そのサークル(劇団?)への入部(入団?)を決めたのでした。
人形劇団zoo(地方公演後の写真かな?)
そしてアルバイトは、大衆割烹と焼鳥屋を経た後、1年生の秋より「はとバス」の「バイト車掌」という珍しい職業へ……。このサークルとバイトを通じて得た経験、人との巡り会いは、その後の僕の生き方やパフの創業にも影響を及ぼすことになりました。
つづく
ふー、今日でやっと10話が終わりました。
この物語、実は全部で51話あります。ということは今やっと2合目までたどり着いたということ。まだまだ先は長いですね。
明日もこの続きを載せることにしましょうか。はとバスでのとっときのエピソードですので、どうぞお楽しみに。
さて、本日は朝から千代田区役所でのお仕事です。
中央区役所には創業時から数えきれないくらい行きましたが、千代田区役所には2年前に九段下に移転して以来まだ一度も行ったことがありません。どんな感じでしょうね。
では、朝食&エール後、行ってきます!