20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第3話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
はからずも幼稚園中退となってしまった僕にとって、小学校の入学式はとても待ち遠しく楽しみな日でした。
入学式のあとに撮影したクラスの記念写真には、張り切った表情の僕の顔が凛々しく写し出されています。
現在の由布院小学校
ところで、少し話は遡りますが、中退してしまった幼稚園時代を思い出すに、僕はガキ大将ではなかったにしても、比較的目立つ方の子供で、ひとを愉しませることに喜びを感じる性格の子供だったようです。
遊戯室では、毎日のように多くの園児を集めて、紙芝居屋さんをやっていました。
ただ読むだけではなく、登場人物ごとに声色を変えながら演じていた僕の紙芝居は、幼稚園の子供たちにたいへん人気があり、先生からも誉められて、かなり有頂天になっていたのを覚えています。
当時の小学校入学前の子供は(田舎の方では特に)、今の子供たちと違い、字を読める子供が比較的少なかったんですね。
そんな中、僕は、5歳年上の兄が買ってくる「少年マガジン」を幼稚園入園前から愛読書にしていたため、ひらがなはもちろん多少の漢字混じりの文章でもスラスラと読むことのできる優等生だったのです。
ということで、いささかのプライドと、小学校に入っても「また紙芝居で人気者になるぞー!」という意欲を併せ持ちながら、入学式の翌日から学校に通い始めたわけです。
しかし……。
紙芝居はおろか、友達と会話すらできないつらい現実が、そこには待っていたのです。
周りの子供たちが話す言葉(大分弁)は、それまで6年間の人生でただの一度も聞いたこともないコトバで、意味がさっぱり分からない。もちろん僕も、どのように話せば良いのかさっぱり分からない。
僕は熊本弁。同じ九州だから似たようなもんでしょ?と思われるかも知れませんが、隣の県とは思えないほどに、言葉には天と地ほどの違いがあるんです(東北弁と関西弁くらいの違いがあるんですよ、ほんとに)。
大分弁は、やたらにキツクて、普段から喧嘩をしているような喋り方(大阪・河内弁と広島弁をミックスしたような感じ)。かたや熊本弁は、人懐っこくて温もりのある喋り方なんです。みなさんが良くご存知の博多弁を、もう少しやさしく、モッソリさせた感じです。
そうは言っても、6歳の子供ですから順応力があります。何日か経つと結構なれてきて、少しずつ周りの子供たちと会話が成立するようになってきました。
そのうち本来の陽気な性格がだんだんと出てきて、みんなの会話に加わるようになってきました。
しかし、これがいけなかった。
もう大丈夫、と、気を緩めた僕は大勢の友達との会話中、思いっきり「熊本弁」を放出してしまったのです。
(たぶん「ヨカたい!」とか「そぎゃんこつなか!」とか「ばってん」とか)
一瞬気まずい沈黙の後、「うわー、なんじゃーこいつー。なに言うちょんのかー。どこん人間じゃー!? 気持ちわりーのー…、はな(離)りーはなりー」
「異星人現る」という感じで、僕は皆から冷たい目で見られ、奈落の底に突き落とされてしまったのでありました。
以来、怖くて誰とも話すことができず、暗黒の小学校1年生を過ごすことになったのです。
そんな暗い僕に転機が訪れたのは、雪が本格的に降り始めた2学期の終わり頃、ある日の下校途中の事件がきっかけでした。
今でも忘れることの出来ない「礼子ちゃん」が、僕の前に颯爽と現れ、情けない僕を、自立した男にしてくれたのでした。
(え!小学校1年生で!?ドキドキしながら次号へつづく)
ついさっきまで、小学校の入学式の写真を探してたんですが見つかりませんでした。どなたかお持ちではないですかね……。
さて、本日はどんより曇り空。夕方から雨が降るようです。でも僕は出社して郵便物当番。往復2時間のウォーキングです。
では、朝食&エール後、折り畳み傘をリュックに詰めて行ってきます!