20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第5話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
礼子ちゃんのおかげで自信を取り戻した僕は、以降の小学生時代をとても楽しく過ごしていました。
時が過ぎ、中学(湯布院中学校)に進学した僕は、入学式の初日に柔道部の門を叩きました。
この頃テレビで「柔道一直線」(桜木健一主演、近藤正臣が足でピアノを弾いたことで有名)が流行っており「強くなって黒帯を締めたい!」と単純に思ったのが入部のきっかけでした。
ブームだったこともあって4月には新入部員が30名ほどいたのですが、3ヶ月後に残ったのはわずか7名。
先輩に容赦なく畳に投げつけられる毎日に、ほとんどの連中は逃げ出すように退部していきました。
僕も毎日辛くて、辞めたいと思ったこともしばしばだったのですが、意外と負けず嫌いなところもあり、そのままズルズルと続けることになりました。「黒帯をいつかは締めたい!」という思いもかなり強かったのでしょう。
結果的に中学3年の夏の大会まで柔道を続けることになり、3年生の夏には昇段試験にも受かり、念願の黒帯(初段)を締めるまでになりました(初段の免状と黒帯を先生から受け取ったときには、ムッチャクチャ嬉しかったです)。
今では、お腹も胸もぜい肉だらけでプヨプヨしていますが、当時は結構逞しかったものです。
卒業記念に撮った柔道部の写真
ところで、中学生ともなると高校進学を前提とした勉強にも力を入れざるを得ない時期。我が湯布院中学校は、田舎の中学校でありながら学業指導にも熱心な学校でした(それが普通なんですかね)。
僕は柔道漬けの毎日だったため、家で勉強や宿題をやることは殆どありませんでしたが、それでもまー、授業中はちゃんと起きていたこともあってクラスでは2番か3番、学年では10番前後をキープしていたでしょうか。
自分では「我ながらよーがんばっちょる。こんくらいの成績やったら上出来じゃよ…」と思っていたのですが、学校の先生や母親は、そうは思ってくれなかったようで、 「お前なー、どしちもっと勉強せんのかのー。お前の兄ちゃんはのー、学年で1番以外取ったことなかったんぞ!」と、いつも口やかましく言われていました。
僕には5歳年上で「中学始まって以来の秀才」とまで言わしめた成績優秀な兄貴がいて、当時の学年主任や数学や英語など主要科目の先生の多くが、兄を教えた人だったんですね。
そんな秀才だった生徒の弟が入学してくるということで、先生たちの期待はずいぶんと大きかったようです。
折悪しく?そんな兄が、東大法学部に受かってしまったものだから、余計その期待は膨らんでいきました。
「おい、お前の兄ちゃんは東大ぞ!お前もがんばって東大めざさんか!」と母親や一部教師たち。
「うるせー、俺は俺じゃ!兄貴なんかと比べるんじゃねー。何が東大じゃ!」「お前らは兄貴の東大入学だけで満足しちょりゃ、それでいいんじゃ」と、僕の心の叫び。
なぜか学業の上ではかなり劣等感を抱いていた中学時代。普通なら誉められてもおかしくない成績だったのに、おかしなものですね。
おそらくこの中学時代に兄と比較された悔しさが、大学卒業後に普通の進路を選択しなかった僕の生き方に繋がっているような気がします。
(つづく)
そういえば先週放送の「エール」に、桜木健一が登場していました。スランプに陥っている主人公(窪田正孝)に気づきの一言を語るレコード会社の録音技師として。ほんの数十秒の出演だったんですが感激しました。桜木健一、もう72歳なんですねえ……。
さて、本日は在宅勤務の予定だったんですが、会社に置いてある資料を取りに行かねばなりません。今週は月末なので、郵便受けには請求書もぼちぼち届き始めるころですしね。ついでに経理担当者宅までお届けすることにしましょう。
では朝食&エール後、きょうは自転車で行ってきます!