20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第14話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年3月初旬。
リクルートで就職情報誌の営業マンとして働きはじめて2ヶ月が経とうとしていました。
昔は「リクルートブック」という分厚い就職情報誌が、大学4年生の自宅に段ボール一杯に詰められて届けられていました。
1社1ページ~4ページほどの会社情報が掲載されており、またご丁寧に資料請求用のハガキまで別冊でセットにされた、就職活動を行う学生にとってはアリガターイ就職情報誌だったわけです(今でいうと、リクナビが数十冊の本になって、各学生の玄関先まで宅配されるイメージです)。
で、僕がリクルートでやっていた仕事というのは「御社の採用情報をリクルートブックに掲載していただけないでしょうか」と、いろんな会社に営業して回る仕事。
我が神田営業所のテリトリーは、千代田区神田の中小企業がひしめき合うところ。僕たち営業A職(当時4名)は、新聞とか帝国データバンクの会社年鑑とか、学校の求人票とか、ライバル情報誌とか。とにかくどこかしらから新規の営業訪問先を独力で見つけてくるところからが仕事でした。
会社からは、どこそこに営業に行け!という指示は一切なし。とにかく自由というか放任というかいい加減というか。半端な学生を恐いくらい自由に泳がせてくれていました。
とはいえ、目標達成に対してはシビアで、僕は当時3ヶ月で1,000万円ほどの売上げ目標を持たされていました。
しかし・・・売れない。ぜんぜんっ!もう2ヶ月も経とうとしてるのに。
だいたい、アポイント(電話して訪問する約束をすること)がとれない。30件中29件は、「結構です!」と“けんもほろろ”に断られる始末。
営業所には全営業マンの売上高を示す棒グラフが貼られているのですが、僕の所だけ1ミリも色がついていない。
「あちゃー、こりゃマズイな・・・」。かなり焦っていた時期でした。
そんな状況の中、救いだったのが、ムライミツルという内定者A職の存在でした(前号参照)。
このムライという男、(人前で屁をこくのが趣味の男なのですが)やっぱりたいして売れてないくせに、極めて堂々かつ飄々としており、とても学生とは思えない心臓に毛の生えたような人物でした。
この物語から約30年後(2014年だったかな)パフに遊びに来たムライさん
そのムライ氏がある日、
「おーい、クギサキー、東神田の方にさ、俺の親戚が重役をやっているアパレル関係の会社があるんだよ。よかったら一緒に営業に行こうぜ!」
と、実においしい営業先を紹介してくれたのでした。
「はい、いきますいきます。売れますかね?ムライさん」
「おー、売れる売れる、任せとけ。新規一発で、1,000万円よ。売上げは俺とお前で折半だな」
藁をもすがる思いだった僕は、このムライ氏の根拠のない1,000万円に大きな期待を持ってしまったのでした。
そして訪問当日。先方の会社に2人で勢いよく乗り込んで、ああだこうだ、いろんな説明をするのですが人事担当者は無表情に一言。
「いやー、採用の予算はほとんどありませんので……」
夕日が西に沈みかけた東神田からの帰り道。僕とムライ氏は、両手に分厚い見本誌を抱えてトボトボと営業所に向かって歩いていました。
「クギサキさー、俺たちなんで売れないのかなー…」
ムライ氏から聞く初めての弱気な発言。そうか、ムライさんといえどもやっぱり売れないことを少しは気にしてたんだ。ムライさんは来月から正社員だしな。
「ム、ムライさん、元気出しましょうよ。あ、ムライさん、まずい!」
「え?」
「僕たちの歩いているこっち側の歩道は日陰ですよ。 向こうに渡りましょう、向こうに。せめて日の当たる道を歩いて帰りましょうよ」
「そ、そうだなクギサキ。日の当たる道を歩いて頑張ろうな!うぅぅっ(感動の涙)」
そして、それからしばらく経った3月中旬のある日。売れない営業マン釘崎青年に、電撃的な初受注の日が訪れるのでした。
脚色しているようにお思いでしょうが、これはまったくの事実です。いまでもムライさんと会うとこの日の出来事を酒の肴にしています(笑)。
このムライさんは物語の終盤(パフの創業直前)に再登場しますのでどうぞお楽しみに。
さて、本日は雨ですが、午後から客先で研修のお仕事です。客先に訪問するのは3~4か月振りくらいではないでしょうか。
では朝食&エール後、久々にネクタイを締めて行ってきます!