20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第32話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年4月。
東京駅丸の内北口を出てすぐのところにあった大手コンピュータメーカーF社本社ビルの10Fに、ボクの席が用意されていました。
米国S社のUNIXワークステーションを、F社ブランドの商品としていかにユーザーに拡販し根付かせていくか。
それが、ぼくの配属された「Sプロジェクト」に課せられた大きなミッションでした。
当時のF社は汎用機(大型コンピュータ)には強いものの、パソコンやオープンプラットホームであるUNIXワークステーションについては製品ラインアップに乏しいばかりか、営業ノウハウもほとんどない状況だったのです。
Sプロジェクトは、このワークステーションを売るための施策づくり、例えば各種販促イベントの企画・運営や、バンドルソフトを提供してくれるソフトウェア会社の開拓・契約、全国津々浦々の現場営業マンへの教育やユーザーへの同行訪問、プレゼンテーションを含めた直接サポート等々。とにかく1台でも多くのワークステーションを売る(正確には現場の営業マンに売ってもらう)ためのことなら何でもやるセクションだったのです。
ボクにとってはまったく未知の分野だったのですが、なにしろ日本を代表するコンピュータメーカーの今後を占う重要な仕事であり、また日本全国を飛び回る仕事でもあったため、日々忙しくも充実した毎日を過ごしていました。
札幌、仙台、新潟、金沢、長野、名古屋、京都、大阪、奈良、和歌山、広島、山口、四国、福岡。
覚えているだけでも、これだけの地域を営業サポートやイベントで飛び回っていたのですが、何といっても楽しみだったのは、現地の営業マンと繰り出す夜の街。当時はまさにバブル全盛期で、コンピュータメーカーの営業マンは相当な接待予算を持っていたんですね。各地でかなりの飲み食いをさせていただいたものです。
今でも記憶に残っているのが、これは地方ではなく東京の夜の出来事ですが、銀座の高級寿司屋で「えいちゃん」、そう、あの矢沢永吉さんと一緒に寿司をつまみながら飲んだことです。カウンターで偶然隣り合わせになっただけなんですが、恐れを知らなかったボクは「あれ?矢沢さんですか?」と気軽に声をかけ、先方も気さく会話に応じてくれて、帰りにはワイシャツの背中にサインまでしてもらったりして……。後々考えるとすごい体験でしたね。
ともあれ、仕事も遊びも非常に刺激的で、貴重な経験をした1年間でした。
しかし、そんなバブリーな日々はいつまでも続くわけもなく、1年後、Sプロジェクトも解散の日を迎え、ボクは出向元のディーラーに帰ることになったのでした。
そして、そこで大きな壁にぶつかることになったのです。
(どんな壁?…つづく)
このときのプロジェクトメンバーの何人かとは今でも年賀状のやりとりをしています。すでに定年退職を迎えられた方もいらっしゃいます。最年少だった新入社員ももう50代半ば。ずいぶんと昔の話になってしまいました。
当時はみんな20代で、いつも週末になると(たとえば事務所に出入りしていた生保レディーを誘って)合コンしたり、朝まで飲んで騒いだり……。バブルだったし。いま思い出しても楽しい日々でした。
さて、この物語もいいよ後半戦、20話を残すのみとなってきました。9月中旬にはなんとか終えられそうですね。よかったよかった。
では、朝食&エール再放送後、午前中は在宅で仕事します!