20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第35話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1990年7月某日。
その日ボクは、B-ingに求人広告を出していたソフトメーカーR社を訪れていました。
R社はパソコンのデータベースソフトの分野では国内老舗の会社で、曲がりなりにもSEを経験していたボクにとっては、ある種、親しみを覚える会社でした。
R社は、渋谷の宮益坂の途中(渋谷中央郵便局のすぐ隣)の立派なビルに入居していました。
社員が働いているフロアも覗かせてもらいましたが、若い社員が多く、一人に一台のパソコンが割り当てられているのには驚きました。
ちなみにボクがいたS社やM社では、パソコンやワープロを使うのは交替制で順番待ち。コンピュータを扱う会社だったにもかかわらず、です。でも、当時はそれが普通だったんですよね。
面接で通されたのは10人くらい入れそうな広い会議室。妙にフレンドリーな人事部長がやってきて、面接兼会社の説明を30分ほどやっていただきました。
「あ、釘崎さん、今日まだ大丈夫?ちょっとこのまま待っててもらえますか?」
人事部長はそう言って部屋を出ていきました。
しばらくして、少年の面影を残した小柄な人物が、人事部長とともに入室してきました 。
(ん?この人、見たことあるぞ。あ、もしやこの会社の社長では?)
一瞬の推測は当たっていたようで、「あ、釘崎さん、当社の社長のKです。いまちょうど社内にいたので、せっかくなので会ってもらおうと思って連れてきました」と人事部長。
初回から社長に会わすなんて、随分とせっかちな会社だなー、と思いつつもそれだけ評価されたのかな?とまんざらでもない気分でした。
ボク「どうも初めまして、釘崎と申します」
K社長「あ、どもども」
しばらく雑談が続いていましたが、K社長は僕が出した経歴書を読みながら・・・
「へー、釘崎クンは、リクルートで営業マンをやってたんですね。 あ、その後は採用担当者もやってたんですかー、へー、ほー」
ボク 「あ、い、いや、でも、一応はコンピュータ関係が一番長いんですけど……」
(しまった!リクルートでの営業や採用の職務経験なんて書いて来なきゃよかった。ソフトメーカーのR社には何の役にも立たないだろうに)
・・・と、内心思ったのですが、次のK社長の言葉にびっくり。
K社長「実はね、うちの別会社に、といっても部署みたいなものだけど、人事・採用領域に特化した会社があるんですよ。いまは適性検査の開発と販売が中心なんだけど、この会社の立ち上げを釘崎クン手伝ってくれない?」
ボク 「は?」
ずいぶんと気の早い社長です。今日初めて会った男に(しかもまだ人事面接の途中だっていうのに)「立ち上げを手伝ってくれない?」とは。
しかし、まさかソフトメーカーのR社が人材ビジネスをやっていただなんて。少し、いや正直なところ、かなり興味が湧いていました。
ボク「あのう、詳しく話を聞かせていただけますか?」
その後は、トントン拍子に話が進んでいき、7月末、そのR社の兄弟会社H社に入社することが決まったのでした(R社、H社ともにK社長がオーナーで、両社には資本関係はありませんでした)。
偶然にも再び巡り会った人材に関する仕事。釘崎青年29歳の夏の出来事でした。
(へー、それは縁ですね。つづく)
この時代のパソコンソフト(当時は「パッケージソフト」と呼ばれていました)は、ずいぶんと高額なものでした。
R社が開発販売していたカード型データベースソフト(国内でTOPクラスのシェアでした)は、パソコン1台当たり3万円~5万円ほど。厳重なコピーガードが施されたフロッピーディスクと分厚いマニュアルが化粧箱に梱包された有難みのある製品でした。
1980年代後半からのパソコン需要は急速に伸びていたことから、R社はかなり儲かっていたんじゃないかと思います。
余談ですが、国内のほぼすべてのパッケージソフトの流通を牛耳っていたのがソフトバンク。インターネットも携帯もなかったこの時代、ソフトバンクの業態も現在とはまったく異なっていたんですよね。あー懐かしい(#^^#)。
さて、本日僕は朝から在宅勤務です。そして夜は外での真面目な仕事の打ち合わせ。打ち合わせ場所となるお店を参加メンバー4人だけで貸切ってしまいました。贅沢ですね(‘_’)。
では朝食はもう食べたので、仕事を継続します!