20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第6話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
中学2年まで、いろんなコンプレックスに苛まれていた僕ですが、中学3年の担任の先生との出会いによって、それまでの闇が一気に晴れていくこととなります。
とても素晴らしい、一生を通じて尊敬できる先生でした。
その先生の名は「中島先生」。当時40歳ちょっと。考えてみれば今の僕とさほど大差ない年齢です。
でも、今の僕なんかまったく及びもつかない、とってもとってもどでかい先生でした。
中島先生(卒業写真より)
人と人とを決して比較しない、差別しない、個をものすごく大事にしてくれて、良いところを見つけだし伸ばそうとしてくれる先生でした。
コンプレックスを抱えていた当時の僕がどんなに救われたことか。
優しさと厳しさとを兼ね備えた先生で、顔が腫れ上がるほどのビンタを何回も経験していますが、全くと言っていいほど恨むことなんてありませんでした。
この先生のおかげで、僕のクラスの連中は、頭のいい奴も悪い奴も、顔の美醜や、運動の出来不出来、家庭の貧富なんかもまったく関係なく、みんな明るく楽しい中学生最後の年を過ごせたんじゃないかと思います。
僕が後年、大学でサークルの部長を務めたり、会社で組織のリーダーを務めた時、あるいは経営者となった今、この中3の時の先生を見習うことが実は多いんです(さすがにビンタはしませんが!)。
余談ですが、この湯布院中学3年一組には、渡辺という野球部(全国大会で準優勝するほど強いチームだった)のキャプテンだった奴がいました。彼とはいつも喧嘩ばかりしていたのですが、この先生のおかげでいつのまにか大親友となりました。その後も腐れ縁が続いており、今でもたまに会って酒を飲んだりしています。
こんな素晴らしき中3も終わりに近づき、高校受験の時期となる訳です。
天才と比べると凡才だった僕でしたが、それほど苦労することもなく大分市内の進学校に見事合格。そして仲の良かったクラスの仲間たちとも離ればなれになる日がやって来ました。
卒業式の後、教室にもどった僕たちに先生は多くを語らず、おもむろに背広のポケットから小さいハーモニカを取り出し静かに演奏をはじめたのでした。
その曲は「ふるさと」。
(うーさーぎー、追ーいし、かーのーやーまー…)
我らが湯布院中学校は、山村の中学校のため、都会(というか大分市内)の高校に入る僕は、高校入学後は湯布院を離れて下宿することになっており、本当にこの日は、多くの仲間たちと(先生も含め)離ればなれになる日だったんですね。
そんなこともあって、先生のハーモニカを聞いて号泣状態。号泣しているのはもちろん僕だけではなく、ほとんどのクラスメートが泣いていました。「3年B組金八先生」さながらの情景でした。いや、僕らにとってはドラマよりずっとずっと感動的だったはず。一生忘れることの出来ない、感動の卒業式の日でした。
そして、それから数週間後の1976年4月。大分県立大分舞鶴高校に晴れて入学する日がやってきました。
初めての親元を離れてのひとり暮らし。「酒と泪と男と女」の下宿生活がスタートするのでありました。
(つづく)
この中島先生は今から13年前(2007年)に他界されました。
その翌年、上の物語にも出てくる同級生の渡辺と二人でお墓参りに行った時のことを当時の日記に書いていましたのでリンクを張っておくことにします。
中島先生の墓前に、旧友とともに近況を報告した日(2008年1月27日の日記)
中島先生率いる湯布院中学3年一組の級友たちと過ごした楽しい日々。45年経ったいまでも、思い出しては幸せな気持ちになります。
さて、本日は朝から雨模様。歩いていくかどうか悩みどころですが、朝食&エール後、傘をさして行ってきます!