パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

前回の日記にも書いたとおり、これからの数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介していきます。

本日は東映の常務だった矢澤さんです。

2006年7月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第84話をリライトしながらご紹介します。かなり長いです。


東映といえば、戦後の日本映画製作の中心的役割を担ってきた会社である。

特に、僕らの世代で有名なのは、鶴田浩二、高倉健、藤純子、菅原文太などが主役として登場する任侠ものの映画だ。

僕がはじめて東映と仕事面での関わりを持ち始めたのは、30歳になったばかりの頃だった。僕が勤めていた会社のセミナーに、東映の人事部長が参加してくださったのがきっかけだった。

人事部長のお名前は矢澤さん。口数が少なく一見恐そうにみえるものの、たまに見せる笑顔がとても優しく可愛い。まるで東映のヤクザ映画に出てくる組の親分みたいな雰囲気を持っていた。当時50歳を少し超えたくらいの年齢だったろうか。

そして何回かの営業訪問を経て、東映と正式なお取引を開始することになった。東映の社員採用時に使っていただくための、とあるツールを提供させてもらうことになったのだ。さほど大きな金額ではなかったが、採用においては大事なツールで、その後毎年採用シーズンになると、必ず注文をいただいていた。

1997年11月。最初の出会いから6年ほどが経過していた。僕は意を決して、矢澤さんに会いに行った。矢澤さんはこのとき常務取締役という、たいへん高い立場であった。

矢澤さんに会いに行った目的。それは、僕が設立しようとしていた会社(つまりパフのことです)への出資のお願いだった。以前のコラムでも書いたが、僕はこのとき連日のように知人・友人を訪ね歩き、出資者を募っていたのだ。

矢澤さんに、僕が会社を辞めて独立する旨を話した。新会社で実現しようとしていることを話した。そして、ぜひ矢澤さんにも株主のひとりになっていただきたいと、深く頭をさげてお願いした。

矢澤さんはひとこと。「釘さん、釘さんが作ろうっていうその会社は、人の役に立つ会社なのかい?それから独立するにあたっては、誰にも迷惑をかけたりしないかい?今の会社から人を引っこ抜いたり、険悪な関係になったりしないかい?」と聞いてきた。矢澤さんは「義」をとても重んじる方だったのだ。

僕は「も、もちろんです」と答えた。矢澤さんは「そうかい。じゃ、ちょっと待ってな」と言い残して、ぷいっと部屋を出て行ってしまった。

いったいどうしたんだろうと思って待つこと15分。矢澤さんは部屋に戻ってきて僕の前に再びどかっと腰を下ろした。

そして背広の内ポケットから「ほい、これ」といってパンパンに膨らんだ銀行の封筒を取り出して、テーブルのうえにどさっと置いた。

中を見ると、数十枚の札束が入っていた。僕はびっくりして「え…? い、いやあの、いま現金でもらっても困るんですけど……」と感謝の気持が沸き起こるより前に、いま目の前に積まれたお金の取り扱いに窮してしまったのだった。

それにしても出資のお願いにきたその日に、いきなり現金(しかもかなりの額の札束)をどさっと差し出すなんて。まさに東映の任侠モノの映画に出てきそうな光景だ。

無口で男気あふれる矢澤さん。僕にとっては親父さんというか「親分」みたいな人だ。

現在すでに東映の役員は退任され、お仕事も完全に引退されている。もう3年以上(注:このコラム執筆の2006年時点での年数)お会いできていないのだが、「親分」元気でいらっしゃるだろうか。

なんとかお元気でいらっしゃるうちに、パフを成長させて恩返しをしたいものだ。「株式配当金」を銀行の封筒にパンパンに詰めて、どさっとテーブルの上に置き、「あの時はありがとうございました」と、ひとことお礼を言いたいと思っている。


そして、実はこのコラムを書いた3か月後の2006年11月3日に、矢澤さんは亡くなられてしまいます。恩返しをすることも、配当金をどさっとテーブルの上に置くこともできないままでした。

ご葬儀の直後、追悼コラムを書いていましたので、本日はそちらもあわせて再掲したいと思います。


3日(金)の午後のことだった。休日だったこともあり、ひとり有楽町に映画を観に行ったその帰り道。携帯にメールが入っていることに気がついた。

見ると休日出勤している梅木(注:当時のパフ新入社員)と、自宅にいたカミさんから、それぞれ同じ悲しい報せ。

「東映の元常務、矢澤さんがお亡くなりになったとのことです…」

びっくりした。まだ72歳。ご病気だということも知らなかった。本当に突然のことだった。

矢澤さんは、僕がサラリーマン時代、そしてパフを設立するとき、たいへん お世話になった人であり、大きなご恩をいただいた人。奇しくもわずか3ヶ月前、このコラムでも矢澤さんのことを取り上げたばかりだった。

そして、前回のコラムではスナック『のろ』のことを取り上げたのだが、 この『のろ』に一番最初に行ったのも、矢澤さんとだった。コラムを書きながら、矢澤さんが楽しそうにカラオケを歌っていた姿を思い出していた。

『のろ』に行ったのは、パフ設立直後(1997年12月)のことだった。サラリーマン時代、僕は矢澤さんにとても可愛がっていただいていたが、一緒に飲みに行ったのは、後にも先にも、このとき一回きりだった。

後から東映の人事の方に聞いて知ったことだが、矢澤さんは、飲みに行って カラオケを歌ったりする人ではないそうだ。「矢澤常務は、釘崎さんと飲みに行ったのがよっぽど嬉しかったんでしょうね」と言われたのが、いまも心に残っている。

その数ヵ月後、パフの設立パーティーを日比谷の中華レストランで行ったのだが、この時のスピーチも矢澤さんにお願いしていた。矢澤さんは他の用事 が入っていたにもかかわらず、快くスピーチを引き受けてくださった。その日の用事を調整してパーティーに駆けつけてくださり、心温まるスピーチを披露してくださった。

会社が設立されて3年目のころだった。パフが学生向けに開催したイベント『キミは就職できるか?』の就職相談コーナーで、矢澤さんに無理を言って 就職相談員をお願いしたことがある。このとき矢澤さんは、すでに東映の役員を引退されており、東映アニメーションの相談役の立場だったのだが、やはり二つ返事で僕のわがままなお願いを引き受けてくださった。

2003年3月末の株主総会の日(当時パフは12月決算でした)。矢澤さんは、とつぜん月島にあったパフの事務所に顔を出してくださった。総会が始まる1時間以上前だったので、久々にゆっくりとお話することが出来た。今から考えると、顔を合わせてお話しをしたのはこのときが最後だった。

サラリーマン時代、そして会社(パフ)創業時と創業後、矢澤さんにいただいたご恩はとても大きい。特に創業時、僕にかけてくださった優しい言葉の数々と、父親のように優しい眼差しを忘れることができない。

矢澤さんとの出会いは、僕にとって間違いなく、かけがえのない『素晴らしき出会い』だった。

この原稿を書いている数時間前、世田谷にある斎場でご焼香をしてきた。祭壇に飾られた矢澤さんの優しい笑顔の写真から、「おい釘さん、 まだまだ若いんだからしっかり頑張んなさいよ」という声が聞こえてきたような気がした。

矢澤さん、いままでお世話になり本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

矢澤昭夫さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


 

矢澤さんから、銀行の袋に詰め込まれた札束をもらったときには本当にビックリしました。23年経ったいまでも、あの時の情景は忘れられません。

このときの東映人事部には、磯辺さんと矢津田さんという、僕とも仲の良い、そして矢澤さんの子分のような方々がいらっしゃいました。

「おーい、磯辺くん、矢津田くん。釘さんが会社作るらしいから、キミらも出資しなさい!」

室内の他の方々にも聞こえるような大きな声で、そう呼びかけたのにもビックリしました。磯辺さんと矢津田さんは、とんだ巻き添えを食った感じです(苦笑)。

でも、そのおかげでお二人とはその後20年以上にわたる個人的なお付き合いが続いています。

次回は、(矢澤さんに命じられて強制的に出資することになってしまった)この磯辺さんと矢津田さんのこともご紹介したいと思います。

さて、本日は在宅勤務。web会議だらけですね。台風10号も心配ですが、朝食&エール再放送後、仕事します!