パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

辞めてしまおうかと思った柔道だが、結局は続けることになった。なぜだったかは覚えていない。

ひとつ思い当たるのは、母親の存在だろうか。

母は僕が柔道をやることに賛成でもなかったし反対でもなかった。

このころの母は大学入試を控えた兄(京都の予備校で浪人中だった)がいたこともあり、毎晩遅くまで仕事をしていた。

なんの仕事かというと旅館の女中(いまは仲居と呼ばれることのほうが多い)の仕事である。

余談となるが、母の実家は昔旅館を営んでいた。母の父(つまり僕にとっての祖父)は豪胆な実業家で、八代(熊本県)の小さな村のはずれで温泉を掘り当てた。僕が生まれるずっと前の話だが、その温泉を活かした「鶴の湯」という旅館を建てたのだ。

木造三階建ての立派な旅館で、祖父・祖母、母の兄妹・甥・姪たちが大家族で経営にあたり、一時はかなり賑わっていたそうだ。母が父と出会ったのも、この旅館に父が板前として派遣されていたためだと思われる。

そんな母なので、女中の仕事を抵抗なくやることができたのだろう。湯布院には温泉旅館が多数あり、女中の仕事にもすぐにありつけたようだった。

とはいえ、仕事はハードである。

夕方4時ころから旅館に行き、帰宅は早くても夜9時過ぎ。深夜0時を過ぎることも珍しくなかった。勤め先は大きな旅館で、何室もあるお客さんの部屋の夕食の片づけをしたり布団を敷いて回ったり、といった体力をかなり使う仕事だった。

ちなみに、このころの父親の仕事場は、湯布院から遠く離れた熊本の旅館。単身住み込みで働いていたので、家では僕と母の二人暮らし。だから、僕が柔道の部活を終えて家に帰っても誰もいない。母が勤めに出掛ける前に準備してくれていた晩御飯を一人で食べて、テレビを観たり勉強しながら母の帰りを待つ、といった毎日だった。

(ちょっと長くなりそうなので続く)