パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

小学生時代の、忘れられない出来事をひとつ書き忘れていた。

カラーテレビが初めて我が家にやってきた日のことである。

忘れもしない。1970年12月31日の出来事だ。

大晦日である。小学4年生だった僕は、ウキウキドキドキしていた。

何にウキウキドキドキしていたかというと、その日の夜の「レコード大賞」と「紅白歌合戦」に対してである。

僕はテレビっ子で歌謡曲が大好きだったのだ。

夕方になった。

年の瀬の街の様子を伝えるニュースが我が家の白黒テレビから流れていた。

 

プツっ。

 

という音がしたかどうかは定かではないが、突然画面が真っ黒になった。

バンバンバンと叩いても、ガンガンガンと蹴飛ばしても、テレビはうんともすんとも云わない。

それまでも真空管が切れてテレビが映らなくなることは何度もあった。そのたびに町の電気屋さんを呼んで修理してもらっていた。

もちろんこの日も、町の電気屋さんに来てもらった。

電気屋さんは、テレビを横に倒し、裏側のパネルを取り外して分解し、いろいろと調べている。

僕も母も兄も、病気になったペットを見守るかのように、その修理の状況をじっと見ている。

そうこうするうちに、大晦日の仕事を終えた父親も家に帰ってきた。

電気屋さんが、「うーん、こりゃあちょっと今夜中に直りそうもねえで。どげえしょうか?」と、絶望的なことを言う。

一瞬、気まずい沈黙の時間が流れた。

が、次の瞬間の父親の言葉。

「しょんなかね。新しかテレビば買おうか。せっかくならカラーテレビにしようかね」

我々は一転、天にも上るような気持ちになった。

まさか、貧乏な我が家にカラーテレビがやってくるなんて……。

僕は喜びを噛みしめていた。

万博に連れて行ってもらえず悔しくて大泣きした1970年だったのだが、急転直下、嬉し泣きするような出来事で終えられることになったのだ。

町の電気屋さんは、いそいそとカラーテレビを車に積んで再度やってきた。

とてつもなく大きく感じた。たしか18インチかそこらのブラウン管のサイズなのだが、当時のテレビの筐体はその何倍もの大きさだったのだ。

すでに夜8時を回っていた。レコード大賞はクライマックスのシーンを迎えていた。

この年のレコード大賞は、菅原洋一の「今日でお別れ」。

まさに、それまでのオンボロ白黒テレビとお別れした日となったわけだ(笑)。

「我が家も文化的な暮らしのでくるようになったねえ……」と、紅白歌合戦を観ながらしみじみと、しかし少し誇らしげに語っていた父親の姿を今でもよく覚えている。

(次回はホントに中学時代ね)

さて、そろそろ小学校を卒業して中学校に入学してみようかと思う。

僕が通っていた小学校は、由布院小学校。そして中学校は、湯布院中学校。

お気づきだろうか。「ゆふいん」の「ゆ」の字が違う。小学校は「由」で、中学校は「湯」なのだ。

湯布院町は、昔は「由布院町」だったのだが、その後「湯平村」と合併したことで、「湯布院町」となった。

小学校には旧由布院町の子供たちが通い、中学校には旧由布院町に加え旧湯平村の子供たちが通うことから、「湯布院中学校」の字を使うようになった(と解釈している)。

1973年4月。

僕は、ピカピカの黒い制服を着て中学校の入学式に臨んだ。

そして頭は、坊主頭。

中学校の校則で、男子生徒は必ず坊主頭にしなければならなかった。

小学校卒業直前、ものすごく恥ずかしかったのだが、床屋に行って丸刈りにしてもらった。

このころの写真を探してみたのだが見つからなかった。相当に初々しい顔をしていたのではないかと思うのだが、残念。

中学入学後、僕はすぐに柔道部に入部した。

中学に入ったら柔道部に入ろうと、小学生のころから決めていた。「柔道一直線」というTVドラマの影響を強く受けていたのだ。

可愛い奴だ。

(このシリーズ、12月初旬まで続けますね)

岡山を走った朝

2014年11月14日 (金曜日)

幼いころの思い出話は本日お休み。

昨夜から岡山に来ている。2年ぶりだ。

で、今朝、岡山の街を走った。岡山城、そして日本三大名園の一つである後楽園の付近をウロチョロ。

一緒にいるのは、なぜか、ウルトラインターンシップ100×10チャレンジの熊澤コーチ。

このあと、ちょこっと倉敷の美観地区を散策して会議に臨む。ではでは、そんなわけで行ってきます!

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小学4年生頃から僕はえらく太り始めた。原因はわかっている。

それは、たこ焼き。

小学校のすぐそばに、たこ焼き屋さんがあった。カウンターだけの小さなお店で子供が10人も座れば満員になる。

僕の母親と同い年くらいのおばちゃんがひとりで経営していた。

初めてこの店に行ったのは小学3年生のころだった。当時中学生だった兄に連れて行ってもらったように記憶している。

生まれて初めて食べたとき、その美味しさに感動しまくった。

こんなおいしい食べ物が世の中にあるんだ。

以来僕は、たこ焼きに夢中になっていった。

たこ焼きの値段は、3個で10円。当時、僕のお小遣いは1日10円。全財産をつぎ込んで、来る日も来る日も、学校が終わると毎日、たこ焼きを食べに行っていた。なんとエンゲル係数100%である。

そりゃー、太りますわね(笑)。

中学を卒業し、湯布院を離れてからも、たこ焼きを食べることはたまにあった。今でもたまに、たこ焼きチェーン店のたこ焼きを食べることがある。

しかし、あのころの湯布院のたこ焼きを上回るたこ焼きとは、いまだ出会ったことがない。

ああ、あのころのたこ焼きを、もう一度食べてみたい(´・_・`)。

たこ焼きの食べすぎで丸々太っていた小学4年生のころの写真

たこ焼きの食べすぎで丸々太っていた小学4年生のころの写真

僕が小学校5,6年生だったころ(1971年~1972年)は、「アイドル」と呼ばれる芸能人たちが登場し、市民権を得始めた時代でもある。

天地真理、小柳ルミ子、南沙織、麻丘めぐみ、アグネスチャンなどは、毎日のようにテレビ番組に登場していた。

僕はとくに天地真理の大ファンで、小学館の学童誌に掲載されていた写真を切り抜いては下敷きなどに挟んでいた。「時間ですよ」というTBSのテレビドラマで、白いギターを抱えて歌う真理ちゃんの姿に胸をキュンキュン、ドキドキさせたものだ。

一方で、クラスの中にも好きな女の子が2名ほどおり、妄想を膨らませていたころでもある。

文房具屋で便箋と封筒を買ってきて、「ラブレター」にチャレンジしたことも何回かある。結局、出すことはできなかったのだが、一晩かけて作り上げた情熱的な大作。とっておけばよかったなと思う。

「仮面ライダー」に嵌っていたのも、このころ。

前回、湯布院の街中を自転車で乗り回していたことを書いたが、あたかも自分が本郷猛や一文字隼人になったつもりで、5段変速の自転車をサイクロン号にみたてて、坂道をぶんぶん飛ばしていたのだった。

なんて純情無垢で可愛いらしい小学生だったことか(笑)。

 

結局、僕が買ってもらった自転車は5段変速のスポーツ車ではなく、24インチのお子ちゃま自転車だった。

値札を見てビビッてしまったこともあるのだが、それよりなにより僕はこの日まで自転車に乗った経験がなく、せっかく高い自転車を買ってもらっても自由に乗り回すことなんてできないのではなかろうか、という不安があったからだ。

さらに5段変速の自転車のタイヤサイズは26インチ。当時の僕の背の高さでは、サドルを一番下げたとしても足が地面に届かなかった。自転車屋のご主人にも、「まずは24インチのほうが練習するのにいいんやねーかい?」というアドバイスをもらったのも大きかった。

まあ、何はともあれ生まれて初めての自転車。飛び上がるほどに嬉しかった。買ってもらったのは青い色の、「つつんつつのだ、つつんつつのだ、つんつんつのだのTU号」だった。いまでもその姿かたちはよく覚えている。後輪の泥除けには、僕の自宅の住所と僕の名前がきっちりと書かれていた。自分だけの自転車。まさに愛車を持つことができたのだ。

しかし、その翌日から、辛く厳しい日々が僕を待ち受けていた。

自転車に乗れないのだ。いや、乗り方がわからないのだ。1メートルも進まないうちに自転車は倒れてしまう。

近くの空き地で練習していたのだが、あまりに恥ずかしいので(春休みで閑散としていた)小学校の校庭まで自転車を押していき、ひとりで練習することにした。

2日経っても3日経っても、まったく進歩なし。自分の運動神経のなさに、ほとほと愛想が尽きた。

「おい、クギサキ、よーがんばっちょるの」

後ろを振り返ると、若杉先生がいた。

若杉先生は小学校4年生のときのクラス担任。低学年のころと違い、すっかりお調子者になっていた僕は、先生からいつも怒られていた。つい数日前に終業式を終えたばかりだったのだが、先生に声をかけられて、なんだかとても懐かしく感じた。

「先生、春休みなのに何しよんの?」

「おまえらは春休みかもしれんけど、教師は学校に来んといけんのじゃ。それにしてもおまえ、自転車に乗りきらんかったんやのう。しょうがねーやっちゃの。ほら、先生が押しちゃるけん前向いて漕いでみい!」

先生はそういって、自転車を後ろから押してくれた。

ずっでーん!と、何回も何回も転んだのだが、そのうちなんとなくバランスが取れるようになってきた。若杉先生は一時間以上、僕の自転車の練習に付き合ってくれた。

「よし、あとはおまえひとりでがんばれ。これがおまえに最後にしちゃれることやったかもしれんの。じゃ、元気での!」。先生はそういって、校門から消えていった。

若杉先生とはこの日以来、会うことはなかった。4月の新学期から他の小学校に異動になったのだ。そんなこと、このときには思ってもいなかったのだが、先生は由布院小学校を去ることをすでに知っていたのだろう。

ともあれ、僕は急速に自転車に乗れるようになっていった。

以来、僕はいつも自転車を乗り回していた。まるで背中に羽が生えたように、湯布院の街を北から南、西から東へと、毎日のように自由に漕ぎまわっていた。

ちょうど成長期でもあり、24インチの自転車がみるみる小さくなっていった。

そして僕が6年生に進級するころ、父親が突然、5段変速の26インチの自転車を買ってくれた。どうしたことだろう。パチンコや麻雀で大勝ちしたのだろうか。24インチの自転車を買ってもらったとき以上に嬉しかった。24インチの自転車が子供向けだとすれば、26インチの5段変速は大人向けの自転車。

思春期を迎えていた僕は、この5段変速の自転車のおかげで、大人の仲間入りができた気分になっていた。そして、女の子のことが気になって気になって仕方のない日々を過ごすようになる。

ちなみに5段変速の自転車は、小学校6年生から高校を卒業するまでの7年間、僕の青春をともに過ごした同志なのである。

5段変速の自転車を買ってもらったころ。最後列の真ん中にいる黒いセーターが僕。かなり体格がよかった。

5段変速の自転車を買ってもらったころ。最後列の真ん中にいる黒いセーターが僕。かなり体格がよかった。

 

 

 

 

小学5年生に進級する春休み直前の頃だった。僕の両親は、なんと僕に自転車を買い与えてくれた。

たしか小学3年生の頃いちどだけ母親に、「自転車が欲しい」と訴えかけたことがあった。そのときは「そげんもん買うてどげんすっと! あんたには何のために足があっとね!!」と理不尽に叱られて、それっきりだった。

しかし、どうしたことか、ある日突然「キヨヒデさん、あんた自転車が欲しかって言いよったね。買うてやろか」と、母親から持ちかけられた。欲しいと訴えてから2年以上の月日が経っていた。小学生には10年以上の歳月が流れていたのと同じくらいの感覚だった。

大阪万博に行かせてあげられなかったことを申し訳なく思ったのだろうか……。

まあ、そんなことはどうでもよい。

突然、自転車を買ってもらえることになった僕は、天にも昇るような気持ちだった。

3月の終業式の日だった。学校は午前中に終わり、お昼過ぎ、勤め先の旅館から抜け出してきた父親と小学校のそばにある自転車屋で待ちあわせた。

店内には、ピッカピカに光った自転車がズラーッと並んでいた。

僕はブリジストンの、かっこいい5段変速の自転車が欲しかったのが、値札を見てびっくり。「これは無理だろうな…」と思った。

父親が店にやってきた。

「どれにするね?」と、優しく尋ねてくれた。

我が家の経済状況を十分すぎるくらい理解していた僕は、「五段変速の自転車が欲しい」なんて、とても言えなかった。

(ゆったりと続く)