パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

先々週の木曜日からふと思い立って書き始めたこのシリーズ。小学生時代の思い出をいくつか書いたところで終わりにしようかと思っていたら、昨夜、中学時代の悪友から、「ここまで来たら俺のことを登場させろ!」という投稿がFacebook経由であった。

しょうがない。もう少しだけ書き続けることにしよう(´・_・`)。

1969年7月。

僕ら世代にとっては忘れられない出来事があった。

そう、アポロ11号だ。人類が初めて月面に降り立ったのだ。

興奮しながらテレビにかじりついていた。「月にウサギはいるのだろうか…」と、本気で考えていた。なんて純粋でかわいい子供だったのだろう(笑)。

その翌年の1970年。

これまた僕ら世代にとって忘れることのできない大きなイベントが開催された。

大阪万国博覧会だ。

アポロ11号が持って帰ってきた「月の石」がアメリカ館に展示されており、大きな話題を集めていた。

大阪万博には輝ける未来があった。ドキドキわくわくの世界があった。新聞、雑誌、テレビ、ラジオでは、連日のように万博の賑わいを伝えていた。

行きたくて行きたくて仕方なかった。

兄は、中学校の修学旅行で万博に行けることになった。

うらやましくてうらやましくて仕方なかった。

ある日、「一学期の成績が良かったら連れて行ってやる」と、母親から言われたことがある。

勉強は嫌いだったが、一学期の通知表はそこそこ良かった。

しかし、一向に連れて行ってもらえる気配もないままに、夏休みが終わろうとしていた。

意を決して母親に聞いてみた。

「あ、あのー、万博にはいつ行けるとね?」

「あんた、なんばふざけたこつ言いよるとね。万博やら行けるわけなかろがね。どこにそぎゃんお金があっとね?」

ショックだった。

カラーテレビはおろか、冷蔵庫も洗濯機も、電話すらなかった貧乏な我が家である。大阪万博に連れて行ってもらう経済的余裕など、考えてみたらどこにもなかったのだ。

期待した自分が馬鹿だった。

悔しくて悔しくて、こっそり一人で泣いたことを今でもよく覚えている。

 

(ちょっと一休みしようかな。続く)

人吉市(熊本)から湯布院町(大分)に引っ越したのは僕が6歳になる直前。1966年11月下旬だったと記憶している。

湯布院は、それまでの人吉とは比べ物にならないくらい寒かった。人吉はまだ秋だったのに、湯布院はすっかり冬。それまで見たことのなかった雪が舞っていたことを覚えている。

湯布院の象徴、由布岳。冬になると頂上は雪で白くなり、その美しさを増す。

湯布院の象徴、由布岳。冬になると頂上は雪で白くなり、その美しさを増す。

 

 

僕はまだこのとき幼稚園児だったわけだが、湯布院の幼稚園に通うことはなかった。単純に経済的な問題からだろう。朝から晩まで家の中に閉じこもっていた。昼間の話し相手といえば母親だけ。だから小学校に入学するまで、僕には友達が誰もいなかった。

だからだろうか。僕は小学校に入っても引っ込み思案で、いっしょに遊べる友達がいなかった。大分の方言がうまく喋れなかったことも大きい。熊本の言葉と大分の言葉では、イントネーションも含めて全然ちがう。まるで別の国の言葉のように感じたものだ。

家の中では、父も母も兄もみんな熊本弁を喋るものだから、大分弁習得にはかなりの時間を要した。この言葉の壁は存外に大きく、幼心に劣等感を抱いていたものだ。

授業参観や運動会などで母親が学校にやって来るときは特に憂鬱だった。母親は熊本弁で、あたり構わず大きな声で僕に喋りかけてくるからだ。周囲のお母さんたちとも熊本弁で喋りまくる。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、その場を逃げ出したくなったものだ。

そんな僕なのだが、小学校2年生にあがるころには、どうにかこうにか大分弁を喋れるようになっていた。友達も少しずつだが増えてきた。

「巨人の星」のテレビ放映が始まり、メキシコオリンピックが開催され、グループサウンズ(沢田研二のザ・タイガース、萩原健一のザ・テンプターズなど)が大流行したのもこの頃だった。

そういえばこの頃、超狭かったそれまでの長屋から、ほんの少し大きめ(といっても6畳二間+四畳半のお茶の間+三畳の納戸)の家に引っ越していた。風呂(しかも温泉)が家にあったことが何より嬉しかった。

そしてこの家には畑もあった。

母親は、この畑を耕しては、大根、ネギ、茄子、トマト、キュウリ、トウモロコシなどを育てていた。僕もよく畑の草むしりを手伝っていた。採れたての熟れたトマトや、不格好で馬鹿でかいキュウリがやたらと美味しかった。そういえば夏のおやつは、いつもトウモロコシだった。売るほどたくさん実っていた。よくもあんなにたくさん育てられたものだと、今思い出してみても感心する。

(次回あたりで最終回にしようかな)