新・パフの創業物語<第19話> 「自分の就職…どうしよう?」
2020年7月17日 (金曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第19話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1983年8月。
リクルートで大学4年生向けの就職情報誌の営業を続けていた僕は、このころから、なんとなく矛盾というかジレンマを感じるようになっていました。
というのは、いろんな企業に「リクルートブックに載せて優秀な学生を集めましょう!」と営業している自分自身が、実は就職を考えなければいけない大学生だったわけで。でもその自分は、まだ就職活動の「し」の字も行っていない。
リクルートの仕事が面白く、ついつい「いい気」になって自分の就職のことをそっちのけにしてしまっていたのです。
僕をリクルートに引っ張り込んだのは、当時同社の人事担当者だった兄なのですが、おそらく彼の思いとしては「甘ちゃんの弟をリクルートで鍛えてやろう」と同時に「もし使える営業マンに育ったら社員としての採用を考えてみよう」ということだったのだろうと思います。
しかし。
5~6月頃までは確かにリクルートの営業の仕事は面白かったし、周囲の社員もスゴイ人たちばかりで、とても魅力的な会社であったのは事実なのですが、自分が入る会社じゃないなと、この8月には感じ始めていました。
8月のお盆前の頃、営業所長に「あのぅ、企業の採用や他人の就職の心配をする前に、ちょっと自分の心配をそろそろしようと思うんですが・・・」と、2週間ほどの休みをもらい、自分自身の『就職活動』を行うことにしたのでした。
しかし!
企業を探すための情報源は、自分が日頃売り歩いている「リクルートブック」。浪人生だったころ駅弁屋でアルバイトしていて、しばらくのあいだ駅弁を食べることができなかった感覚に近いものがありました。
リクルートブックの営業の際には、多くの企業から冷たくあしらわれっぱなしだったし、小狡い採用の「仕組み」を垣間見てしまった僕は、どうも「就職活動そのもの」に意欲を喪失してしまっていたようです。
行き詰まりを感じていた僕は、久々に大学まで足を運んでゼミの先生に相談してみました。
「お、クギサキ君。就職する気はあるわけだね。じゃ、ここ行ってきなさい。あ、それともし九州に帰る気持ちがあるんなら帰省のついでで構わないから、福岡のこの会社を覗いてみないか」
と、東京で1社、福岡で1社、計2社をその場で紹介してもらったのでした。
当時、僕は卒業するための単位はすべて取り終えていて、あとは卒論を残すだけでした。ゼミの先生には、卒論研究と称してリクルートで毎日を過ごすことの許しは得てはいたものの、すっかり疎遠になっていました。しかし、やっぱり先生はありがたいものです。
紹介された東京の1社は、大手製薬会社。CMなんかもバンバンやっている会社でした。
「ほー、ここに入れたら結構いいかも」と思いつつ、その会社の人事担当者に会いに行ったのでした。
(学生に戻ってしまった釘崎くん就職しちゃうの?)
この会社に行ったのはえらく暑い日でした。日ごろ企業のことを営業先としてしか見ていなかった僕は、なんだか不思議な感覚でした。
さて、どうなったんでしょうかね。
ではそろそろ朝食&エール再放送後、仕事します!