パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第23話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


「社、社長、ボ、ボクでよかったら採用しませんか!?」

ボクのこの一言で、ボクの社会人としての進路が大きく回転しながら決定づけられていきました。

S社の社長は、リクルートの2年目バリバリ営業マンとして疑いもしなかったボクの正体が、実はまだ大学生、という事実に仰天し、しかも、そいつが急に「自分を入社させてくれ」と言い出したものだから、二度ビックリだったようで、酒を飲む飲む。

その日はボクもかなり飲んでしまい、その後の記憶は定かではないのですが、何しろ卒業を待たずに翌月から働く約束を交わしてしまったようです。

いうことは、ボクが籍を置いていたリクルートは辞めなければならないということ。必然的に、このことはリクルートの人事担当者である兄のところにもすぐに伝わるということ。そして九州に住む親にも伝わるということ……。

この頃のボクは、もう迷いは一切なく、むしろ大胆不敵な自分の行動に「うん。俺もなかなかの男だね。将来は俺がこの会社を大きくして大会社の社長かな?へへへ」などと酔いしれていました。

しかし案の定、少しして九州の母親からすごい剣幕で電話がかかってきました。

「兄ちゃんから聞いたバイ!あんたナンバ考えとっとかい!そげな小さな会社に入って、どげんするんかい!だいたいアンタはな、グチャグチャグチャ……グチャグチャグチャ……」

そこまで言うか!というくらい大変な罵声を浴びせられたものです。

また、それから少しして兄がボクの下宿に突然訪れ、徹夜での大説教大会も行われました。

「お前なー、もうちょっといろいろ考えろよ。その会社のどこがいいんだ。その会社の売上は?利益は?強みは?財務諸表はどうなってるんだ?社長の経歴は?なに!?知らないだと?(怒)」

理路整然と問いつめてくる兄に、理屈で言い返すことはほぼ不可能で、「お前だって日本で一番優秀な大学出たくせに、リクルートなんて当時は訳のわからんかった会社に就職したじゃねーか!なんで俺が訳のわからん会社に入るのがわりーんじゃ!」

・・・と、こちらこそ訳のわからないことで言い返すのが関の山でした。

まぁ兄にしてみれば、自分が誘い込んだリクルートがきっかけで、弟が道を踏み外すのが(実際には全然違うのですが)やるせなかったのでしょうね。

ともあれ、兄もボクのあまりの強情さに「もう知らん、勝手にしろ!」とあきらめてはくれましたが……。

こんな感じで、親兄弟の反対をむりやり押し切って、ボクの就職活動(というのだろうか?)は、あっという間に終わってしまいました。

さぁ、来月からリクルートの営業マンじゃなくて、ちっちゃなベンチャー企業の採用担当者だ。反対した連中を見かえしてやるぞー!大企業に入った連中よりも偉くなってやるぞー!

1983年の秋も深まった夜の、たった一人での決意でした。

(よし、がんばれよ! つづく)


いやあ、懐かしいですね。

このとき、母親や兄から反対されればされるほど、罵声を浴びせられれば浴びせられるほど、僕の決意がどんどん固まっていったことをよく覚えています。

相当な頑固者(へそ曲がり?)だっだわけですが、いまではこの自分の頑固さに感謝しています。

もし、僕がこのときの親兄弟からの説得に折れてしまっていたら、いったいどんな人生になっていたのでしょうか。それはそれで見てみたい気もしますけどね(笑)。

さて、今日はこれから売られた喧嘩(もう1年以上も続いていますが)を買うための準備を在宅で進めなければなりません。週明け早々オンラインでの対決が待っているんですよね。リモートでは殴ることもできないので資料での応戦です。

では、朝食&エール再放送後、仕事します!

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第22話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年9月のある日。

大手安定企業への就職という選択肢を自ら消してしまったボクは、明日の姿もよく見えない零細ソフトウェア企業S社の社長のところに、リクルートの営業マンとして訪問していました。

「社長、申し訳ありません。結局、誰ひとりとして応募はおろか、資料請求さえ来なかったですね……」

「釘ちゃんのせいじゃないさ。これがウチの実力だよ」

ボクはS社から「新卒採用のすべてを任す」と言われ、会社案内の作成、リクルートブックへの掲載、原稿の作成、DMの発送などなど、許された予算の範囲で出来る限りの告知を学生に対して行った結果が上の会話でした。

「釘ちゃんさ、今夜ひま?よかったら飲みに行かない?」

S社の社長は、思い詰めたボクの表情を察してか、その日飲みに誘ってくれたのです。

(よーし・・・今日が決行日だ!)

S社の社長と、新宿のちょっとだけ高級っぽい店で飲み始めて少し経ったころ。

「社長、実はお話があります」

「なんだい釘ちゃん、あらたまって。もう採用の話はいいよ」

「いや、そうじゃなくて」

「ん?」

「社長、私は社長に今までウソをついていました」

「うそ?」

「はい、ウソです。私は、いやボクは、実はリクルートの社員なんかじゃありません」

「なに???だってリクルートブックにうち、ちゃんと載っかってるよ」

「いや、そうじゃなくて……。ボクはまだ社員じゃなくて学生なんです。明治学院大学経済学部4年の、正真正銘の現役学生なんです」

「え?(絶句)」

「今まで隠していて申し訳ありませんでした!」

「へー、あそー、いやー、釘ちゃん学生だったのー……

「本当に申し訳ありませんでした。あ、これ、ちゃんと学生証も持ってます」

「いやーまいったなー、へー、ビックリした。学生があんな立派な営業するんだ」

「いやいや、これでも売れない営業マンで社内では有名で、へへへ」

「ガハハハ!いやー学生でも何でもいいよ。飲も飲も!」

「いや、社長、話はそれだけではないんです」

「なに、まだほかにもウソついてたことがあるの?」

「いや、そうじゃなくて。あのう……」

「なんだよ、釘ちゃん、はっきり言いなよ」

「社、社長、ボ、ボクでよかったら採用しませんか!?」

「なにー!!!」

(どっひゃー、ついに言っちまった。どうなっても知らないぞ……。つづく)


まさに「歴史は夜つくられる」。この夜の会食は、僕のその後の運命を大きく変えていきました。

この物語は全52話。今日でやっと22話なので、あと30話が残っています。9月末までにすべてを終わらせるつもりなので、これからは週4日は載せていかないと間に合わなそうです。いざとなったら土曜と日曜も使うことになるんでしょうね”(-“”-)”。

さて、本日は日本採用力検定協会の理事会です。本当は全理事にパフの会議室に集まってもらって、夜は懇親会を行うはずだったんですが、感染拡大を受けて急きょオンラインでの開催になってしまいました。議題はてんこ盛りなので、集中を切らさないように進めてまいりましょう。

あ、でもその前に契約書の印鑑を押すためだけに九段下に行かねばなりません。これはほんと非効率。電子契約書を早く普及させてもらいたいものですね。

では、ささっと朝食後、印鑑を押しに行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第21話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年9月のある日。

ゼミの先生の紹介で受験した(ボクは訪問しただけのつもりでしたが)製薬会社に、どのような返事をしたら良いのか(入社するのかしないのか)を考えあぐねていました。

リクルートでずっと社会人のマネごとをしていた(否、自分としては真剣に働いていたつもりの)ボクにとって「就職する」ということそのものが実感できずにいました。

実はこのとき、気になっていた会社がありました。

第18話「釘ちゃんにウチの採用ぜんぶ任すよ」で登場した、ちっぽけなソフト会社(S社とします)のことです。

そのS社の採用活動の進捗状況は芳しくありませんでした。というよりも、まったくなっていませんでした。

リクルートブックに載せ、DMを大量に打つも学生からの反応はゼロ。

「確かにこれといった技術力があるわけでもなし、新卒の採用実績なんてひとりもない、ちっぽけな会社だしな・・・」

いかんいかん、担当営業であるボクがそんなことでどうする!

「俺が学生の立場だったらS社を受けるだろうか。たぶん受けないな・・・」

ダメだこりゃ”(-“”-)”。

「でも待てよ。俺がS社の採用担当者で、俺みたいな学生に近い先輩社員がS社にいたらどうだ?少なくとも俺みたいな物好きな学生には関心を持たれるかもしれないな」

なに?

「それに、できあがった大きな会社より、設立間もない小さな会社のほうがいろいろと面白そうだし。 俺、S社の社長に自分の正体(まだ学生だということ)をバラして入社させてもらおうかな・・・」

お、おい待てよ!

実はそんな恐ろしいことを悶々と考えていたのでした。

よし、いろいろ考えていてもしょうがない。とりあえず先生から紹介してもらったA社は断ろう!

そう決心したボクは、先生のご自宅に電話して、A社には気が進まないことと、ちっぽけなS社への就職を考えていることを相談しました。

「まあ、クギサキ君には普通の就職は似合わないと思っていたよ。A社には、クギサキ君は九州に帰らなければいけないことになったと言っておきましょう。あ、それとクギサキ君ね、後期はちゃんとゼミに出て来るんだよ」

おもいっきり怒られるかと思いきや、さっすがクギサキ君の先生です(この先生も入社2年ほどで銀行を脱サラして研究者になったツワモノでした)。

さて、あとは自分自身これからどう生きていきたいのか。もう少しじっくりと考えてみるとするか。

22歳のクギサキ青年、人生の分岐点を迎えた初秋の夜でした。

 (うむ……。つづく)


僕の背中を押してくれたこのゼミの先生は、マーケティング戦略論が専門の上原征彦先生です。当時はまだ30代後半の助教授(今でいえば准教授)でしたが、コトラーの「マーケティング原理」の原書を日本で初めて翻訳して発刊したスゴイ先生だったのです。

このエピソードから12年後の1995年、僕が独立するきっかけとなったインターネット事業の相談にも乗っていただいたりしていましたし、起業後もしばしば相談に乗っていただいていました。

以下は6年前、ゼミの先輩と二人で先生の古希のお祝いをしたときの写真です。

この数年はお会いできていませんでしたので、社長を正式に引退したらご挨拶に伺わなきゃと思っています。

 

さて、本日はパフのこれからの経営を安心させるための地味な仕事をする予定です。

では、朝食&エール再放送後、某所に行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第20話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年8月下旬のある日。

「自分の就職を真面目に考えなければ…」と思ったボクは、大学の先生から紹介してもらった、とある製薬会社(当時頻繁に風邪薬やドリンク剤などのテレビCMをやってた会社)を訪問したのでした。

半年以上もの間、学生の身分をひた隠しにしてリクルートの営業にドップリ浸かっていたボクにとって、いきなり学生に戻っての会社訪問は、相当に違和感のあるものでした。

「人事の人を見たとたんに、ついついリクルートブックの営業しちゃったらどうしよう。案外売れたりして」なーんて、馬鹿なことを考えたりしたものです(苦笑)。

さて、その会社(仮にA社としましょう)の受付に到着するやいなや会議室に通されました。そこにはボク以外に10名程度の学生がすでに着席していました。

「なんだ?今日は個別に話を聞かせてもらうはずではなかったのか?」と、思っていると、すぐさま人事課長のBさんが会議室に入ってきて、会社の説明を朗々となさいます。

「なんだ。今日は単なる会社説明会か。それにしてもこの規模の会社の割には参加学生は結構少ないんだな。なんだか頼りない顔つきの学生ばかりだけど大丈夫なのかな」

そんな事を考えている内に人事課長の会社説明は終わり、さらに別室に通されたのです。

何をやらされるのかと思っていたら、その部屋には筆記試験の用紙がセットされており、人事課長からは「せっかく来ていただいたので試験を実施してしまいますね。あしからず」という説明。なんのことはない。この日は立派な選考会だったのですね。その割には人数が少なかったのが気になりましたが。

そして筆記試験の後にB課長がこっそりボクに耳打ち。

「えーっとクギサキくん、ちょっとお話がありますのでこの場に残っておいていただけますか?」と言われたのでした。

他の学生が全員帰った後、B課長は相好を崩して

「いやあ、ウエハラ先生(この会社を紹介してくれたボクの大学の先生)にはいつもお世話になってましてね。前々から優秀な学生さんがいたら紹介してください、とお願いしていたんですよ・・・」

実はこの日の説明会(兼選考会)は、一般枠ではなく、大学の先生などから紹介された学生のみを集めた特別枠の説明会だったようなのです。その中でもボクはさらに特別枠だったようで。

「ということで、ぜひクギサキくんには、次回うちの役員に会ってもらいたいと思っているんですけど。  あ、それとね入社後は、先生のゼミ生ということもあって、販売促進やマーケティング関連の部署への配属を考えています。営業職ではありませんからね」

(俺、ゼミ生の中でも一番デキが悪い方なのに、なんだか勘違いされているようだな。営業ならまだ使えるかもしれないのに…)

ともあれ入社を大前提とした話が出来上がってしまっており、それはそれで悪い気はまったくしなかったのですが、別にその会社に対して特別の思い入れがある訳でもなし、いきなり入社を前提とした話をされても正直戸惑うばかりでした。

「こんなんで就職を決めちまっていいんだろうか・・・」

そう思ったボクは、1週間ほど時間をもらって考えさせてもらうことにしたのです。

実はこの時ボクには、とても気になる会社が1社あり、A社の説明会で話を聞いているあいだ中、その会社のことをずっと考えていたのでした。

(お、おい早まるなよ…。次号、決断の瞬間につづく)


 

22歳の夏の話ですね。六畳一間の下宿で悶々と悩んでいたことを思い出します。あゝ青春( ^)o(^ )。

さて、本日は朝から会社です。会社に行かないと取り出せない資料がいろいろとありまして、それをクラウドに移さなければならないのです。今週から来月にかけてリアルで予定していた会議や打ち合わせがすべてオンラインになってしまいまして、そのための事前準備ですね。いちおう仕事もしていますので(笑)。

では、朝食&エール再放送後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第19話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年8月。

リクルートで大学4年生向けの就職情報誌の営業を続けていた僕は、このころから、なんとなく矛盾というかジレンマを感じるようになっていました。

というのは、いろんな企業に「リクルートブックに載せて優秀な学生を集めましょう!」と営業している自分自身が、実は就職を考えなければいけない大学生だったわけで。でもその自分は、まだ就職活動の「し」の字も行っていない。

リクルートの仕事が面白く、ついつい「いい気」になって自分の就職のことをそっちのけにしてしまっていたのです。

僕をリクルートに引っ張り込んだのは、当時同社の人事担当者だった兄なのですが、おそらく彼の思いとしては「甘ちゃんの弟をリクルートで鍛えてやろう」と同時に「もし使える営業マンに育ったら社員としての採用を考えてみよう」ということだったのだろうと思います。

しかし。

5~6月頃までは確かにリクルートの営業の仕事は面白かったし、周囲の社員もスゴイ人たちばかりで、とても魅力的な会社であったのは事実なのですが、自分が入る会社じゃないなと、この8月には感じ始めていました。

8月のお盆前の頃、営業所長に「あのぅ、企業の採用や他人の就職の心配をする前に、ちょっと自分の心配をそろそろしようと思うんですが・・・」と、2週間ほどの休みをもらい、自分自身の『就職活動』を行うことにしたのでした。

しかし!

企業を探すための情報源は、自分が日頃売り歩いている「リクルートブック」。浪人生だったころ駅弁屋でアルバイトしていて、しばらくのあいだ駅弁を食べることができなかった感覚に近いものがありました。

リクルートブックの営業の際には、多くの企業から冷たくあしらわれっぱなしだったし、小狡い採用の「仕組み」を垣間見てしまった僕は、どうも「就職活動そのもの」に意欲を喪失してしまっていたようです。

行き詰まりを感じていた僕は、久々に大学まで足を運んでゼミの先生に相談してみました。

「お、クギサキ君。就職する気はあるわけだね。じゃ、ここ行ってきなさい。あ、それともし九州に帰る気持ちがあるんなら帰省のついでで構わないから、福岡のこの会社を覗いてみないか」

と、東京で1社、福岡で1社、計2社をその場で紹介してもらったのでした。

当時、僕は卒業するための単位はすべて取り終えていて、あとは卒論を残すだけでした。ゼミの先生には、卒論研究と称してリクルートで毎日を過ごすことの許しは得てはいたものの、すっかり疎遠になっていました。しかし、やっぱり先生はありがたいものです。

紹介された東京の1社は、大手製薬会社。CMなんかもバンバンやっている会社でした。

「ほー、ここに入れたら結構いいかも」と思いつつ、その会社の人事担当者に会いに行ったのでした。

(学生に戻ってしまった釘崎くん就職しちゃうの?)


 

この会社に行ったのはえらく暑い日でした。日ごろ企業のことを営業先としてしか見ていなかった僕は、なんだか不思議な感覚でした。

さて、どうなったんでしょうかね。

ではそろそろ朝食&エール再放送後、仕事します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第18話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年7月。

リクルートで営業の仕事を開始して早半年が経過したころでした。自転車を転がして神田の街中を営業しまくっていたボクは、ある小さなソフトウェア開発の会社に出くわしました。

当時「週刊就職情報」という中途採用の就職情報誌があったのですが、そのSE採用欄にちっぽけなスペースで広告を掲載していた会社でした。

その広告を見て「なんだかチンケな会社だな。新卒なんて採るのかな?」と思ったのですが、とりあえずダメもとで、その会社の社長に電話をしてみました(当時リクルートのアポ電話は、社長へのトップコールが鉄則でした)。

すると「あー、いいよ。いつでもいらっしゃい」と、意外にも先方の社長はフレンドリーな対応で、すんなりとアポが取れたのでありました。

そして、すぐその日のうちに訪問して、お決まりのリクルートブックを営業したのですが・・・これまた意外や意外。

「ん、気に入った。来年からは新卒採用しよう!これで採用できるんだね?」と、その場で50万円程度の媒体への掲載を即決されてしまったのでした。

契約はもらったものの素直に喜べない、少し複雑な心境でした。

だって、その会社は10坪ほどの超狭い事務所で社員も数名しかいない、会社案内も未だ無いような会社だったんです。

「こりゃ、リクルートブックに掲載しただけじゃ、とても新卒の採用なんて無理だな」

そう思ったボクは、後日あらためて、ちゃんとした会社案内の制作、学生向けのDMの企画など、トータルで500万円ほどの企画を持っていったのでした。

そして採用の手法や実務についても(適性検査やら面接の段取りやら)こと細かに提案し、「社長、こんな感じで進めていけば、なんとか数名の採用には結びつくと思いますよ。ボクと一緒に初めての新卒採用を成功させましょう!」と熱く語ったのでした。

さすがに500万円という金額は、当時のこの会社の規模や売上げからすればドデカイ金額だったのでしょう。

しばしの黙考の後、社長の発した言葉は「よし、分かった。釘ちゃんを信じてこの企画に乗ろう。釘ちゃんに全部任すよ。そのかわり、とびきり上等な大学生をつかまえような!」というものだったのです。

わずか2回の訪問で500万円の契約。そしてボクのことを「釘ちゃん」と超フレンドリーに呼びながら全幅の信頼を置いてくれた。単純なボクはジーンと来てしまい「よっしゃ、この会社の採用は俺が絶対に成功させてやる!」と、心に強く誓ったのでした。

この時、ボクは22歳。「実はまだ大学生」という身分は隠しており、リクルート入社2年目の若手正社員ということになっていたわけで……。

このウソが、その後ボクの一生を左右することになるなんて、この時は夢にも思っていませんでした。

(さてさてどうなることやら、と思いつつ次号につづく)


 

うまれよの「う」は、「うそをつくな」なんですが、このころの僕はこれに反して、自分の身分(学生であること)をひた隠しにしながら営業活動に明け暮れていました。

うそつきはパフの始まり?

いやいや、それじゃあ、あんまりですね(苦笑)。

さあ、最終回まであと33話。ピッチを上げていかないと9月中に終わらないですね。明日もまた続きを載せることにしましょう。

では今日は、在宅で仕事をした後、マジックドラゴンとしてのリアルな打ち合わせに行ってきます!

20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第17話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1983年4月。

僕が感動の初受注をあげた直後、わがリクルート神田営業所は、それまでの貧乏臭いビルから神田駅前のメインストリートに面した大きなビルに引っ越しをしました。

まだ新築間もないキレイなビルで、「売れない営業マン」の汚名を返上した僕を含む営業所のメンバーたちは、気持ちも新たに仕事に取り組んでいたのでした。

当時の営業所メンバーは、仕事が終わると神田駅そばの通称「ビニールハウス」と呼ばれるビニールテントで囲われた屋台みたいなところで飲んで帰る(いや帰れない日も多々ある)のが日課であり、本当は学生であったはずの僕は、すっかり身も心も「新社会人」になった感じでした。

なかでも毎日のように一緒に飲み歩いていたのが、その年の新入社員のムライミツルという営業マン(ムライさんについてはバックナンバーを参照。日の当たる道を共に歩いた人です)。

当時のリクルートには、とても優秀な社員が多かったのですが、このムライさんには「優秀」という形容詞で片付けてしまうにはおよそ収まりきらない何かを感じたものでした。

でも、僕の評価は高かったものの(ムライさん、エラソーにスミマセン!)、所長や先輩社員たちの評価は最悪もチョー最悪。

「ムライー・・・ったく、またオマエカ!!」

詳しいシチュエーションは忘れてしまいましたが、何かと問題を起こす新入社員だったのです。怒られてもすぐその後「ぶっ!」と営業所中に響き渡る屁をこくものだから余計上司の受けが悪かったのだと僕は密かに推測しています(笑)。

そうそう、僕とムライさんは毎晩一緒に夜遅くまで飲み歩いていたのですが、翌朝は誰よりも早く(朝7:30頃)出社して、皇居までジョギングをやったりもしていました。

どうしてジョギングなんて柄にもないことをやっていたのか、いま考えてもまったくもって不思議なのですが……。その他ここではとても書けないような数々の悪行・珍行を繰り返していた変なコンビなのでした。

このムライさん、実は後年、パフ創業に決定的な影響を与えた人物なんです。

でも、このころはそんなこと夢にも思わず、所長・上司に睨まれながらも楽しい営業活動を送る毎日でした。

(次号は、またも運命の出会いにつづく)


 

これは、あくまで20年前に書いた物語。いまならとても書けない内容ですね(苦笑)。

さて、雨雲はなかなか去ってくれませんが、明日からの予定はいまのところ変更なしです。

では、朝食&エール後、午前は在宅、午後はオンライン講演会+リアル打ち合わせに行ってきます!