パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

大阪に向かっている日

2011年4月8日 (金曜日)

いま大阪に向かう新幹線の中にいる。

朝6時ちょうどに東京駅を出発。今朝は4時半起床の早起きだった。

昨夜は、本日の早起きに備えて早く寝ようと思い、11時半過ぎに布団を敷こうとしていた。

そのときである。

携帯電話が、ブーブーブーとけたたましく鳴り出した。緊急地震速報である。

ほどなくして微妙な振動が伝わってきた。

そして横揺れが始まった。だんだん大きくなっていく。かなり大きな地震だ。

いやー、まいった。

ここまで揺れると、さすがに寝る気にならない。

テレビをつけてみると震源はまたも宮城県沖。しかも震度6強の激しい揺れだったという。

最近は多少、落ち着いてきたと思っていたのだが、それに冷水を浴びせるかのようなこの余震。自然のなせるわざとはいえ「そろそろ勘弁してくれよ!」と言いたくなる。

そんなわけで、すっかり寝不足である。

ノートパソコンに手を置いたまま、さっきまで熟睡していた(苦笑)。

さて、大阪到着まであと20分弱。

新幹線の中でやろうと思っていた仕事がやれずじまいだ。まずいまずい。

あ、京都に到着だ。大阪まであと少し。

本日は曇り空。雨も降るらしい。

雨にも負けず、地震にも負けず、寝不足にも負けず。

本日も行ってきます!

春が来た

2011年4月7日 (木曜日)

やっと春が来た!という陽気になった。桜の花も満開となった。

(下の写真は飲み友達のW社の人事責任者Kさんから送られてきたアークヒルズの桜です)

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昨日は、午前の打ち合わせと勉強会(G社のKさんが講師となって、ソーシャルメディアの勉強会を開いてくださった)を終えたのち、ちょっと遠く(といっても千駄ヶ谷方面だが)に出かけた。

大江戸線の国立競技場駅を降りて約15分ほど歩いたのだが、いやー、いい天気。このあたりは高い建物もなく、大きな空を見ながら気持ちのいい散歩ができた。

帰り道も、築地市場から昭和通りのほうに向かい回り道をして事務所に戻ったのだが、途中の公園で満開の桜の花をばっちり拝むことができた。青空の下の桜の花。そのコントラストがきれいだ。公園ではサラリーマンたちが、桜の木の下のベンチで本を読んだりしていた。うらやましいサボり方だ。

会社に戻ってほどなくすると来客。

某新聞社の元記者(いまは管理職)のNさんだ。記者時代にはよく会っていたが、管理職に出世してからはほとんど会っていなかった。約3年ぶりくらいかな。

Nさんは現在、学生を対象とした新しい企画を考えているとのこと。昨日は、その相談でお見えになった。後半は場所を移して、近場の寿司屋さんでの打ち合わせ(というか情報交換)となった。築地の有名な老舗の寿司屋さんなのだが、客の入りが悪かったなあ。外国人が関西や国外に逃亡してしまったのが原因だろうか。まあ、ゆったりできて良かったのだが。刺身と寿司、老舗の寿司屋はさすがに美味しかった(Nさん、ご馳走様でした!)。

なんだか最近は、一日があっという間に終わってしまう。春という快適な季節も、あっという間に終わるのだろう。満開となった桜の花も短い命だ。散ってしまう前に、しっかりと頭の中に焼き付けておかないとね。

よし。本日は少し回り道をして、桜の花を拝みながら出社しますかね。では、そろそろ行って来ます!

花粉症の季節である。街を歩いているとマスクをしている人がとても多い。僕の身近にいる方々(社員も含む)も、3人に一人は、花粉症で苦しんでいる。ホントに辛そうで可哀そうになってしまう。

僕は幸いにも、生まれてこのかた花粉症をはじめとしたアレルギー症状になったことがない。いや、なかった。少なくとも先週の金曜日までは……。

実は土曜日の朝、目覚めたときから両腕の内側に違和感があった。痛痒いのだ。

着替えようとパジャマを脱いだ時、目を疑った。両腕に赤い発疹ができているのだ。肘の内側を中心として一面に広がっている。

これは痒いはずだ。

先々週の終わりくらいから前兆はあった。なんとなくカラダがだるかったのだ。そして、先週の前半は九州出張による移動の多さで、なんとなくのだるさが続いていた。

おまけに、ちょっと重たい仕事が滞っており、珍しくプレッシャーに感じることもあった。大震災以降、先行きの不透明感に対して、漠然としたストレスがあったのかもしれないな。

そういえば昨日の朝、会社に着いて席に座ると同時に、くしゃみ4連発に襲われた。花粉症?それとも誰かに悪口を言われた?

あ、それとも、最近朝のランニングをサボっているのがよくなかったのかな……。

うーん。この50年間、アレルギー症とは無縁だっただけに、なんだか気持ち悪いな。ちょっと病院にでも行ってみるかな。

#経験者の方に、アドバイスのコメントなどいただけたら嬉しゅうございます。

昨日はまるまる一日会議。午前はリーダー会議と企画会議。午後は1時から6時半まで、第15期第四Qのキックオフ会議をずっと行なっていた。

そう、パフは現在もう15期。しかもあと3カ月で15期も終わり、今年の7月からは第16期目を迎える(第1期は3週間で決算を終えたり、第10期では決算期変更のため半年の決算を行なったりしているので、設立年数よりも決算期の数のほうが多いのだ)。

節目ともいえる第15期。好決算で終えたいのは山々だが、いろんなことが起きた今年、現実はそうは簡単にはいかない。

しかし、あきらめることなく、そして環境のせいにすることもなく、目標達成に向けて頑張りたいと思う。

ところで、今週中にふたつのビッグイベントの開催を正式に発表する。これらイベントも第15期第四Qの大きな刺激剤になるのではないかと思う(どんなことをやるかは、また後日)。

東京の桜も今週末には見ごろとなりそうだ。何かが始まる4月。何かを始める4月。何とか始める4月なのだ。

頑張っていこう!!

 

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県の南三陸町。ここは、先日の日記でもご紹介した仙台のS社S社長のとても親しくしてらっしゃる方々がお住まいの町である。

S社長は先週の木曜日、この南三陸町まで救援物資を届けに行った。

そのときに撮影した写真とレポートを、翌日の金曜日に僕にメールで届けてくれた。

悲惨な写真とS社長の克明なレポートに、思わず目頭が熱くなった。

起きている現実と、そこで懸命に頑張っている人たちの声。

テレビや新聞やネットで、日々報道されてはいるのだが、こうやって身近な方からいただく情報には、また違った意味と価値がある。より「自分ごと」として、現実と向き合わずにはおられなくなる。

S社長は現在、自分の会社と家族と地域の復旧、復興に向けて日夜取り組んでいる。

そんななか僕に送ってくれた写真とレポートは、きっと僕を通して、少しでも多くの人たちに見てもらいたいという気持ちもあったのではないだろうか。

そう思った僕はS社長に、「釘さん日記」への転載をお願いした。もちろん快諾してもらった。

FaceBook や Twitter からもリンクされるので、読んでいただいた方は、ぜひ多くの人に回覧していただけると嬉しい。

僕たちは、この悲惨な出来事を悲しむだけではなく、後世の人たちに、正しい情報として語り継いでいかなければならないのだと思う。

では、以下、S社長から送っていただいたレポートと写真です。

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画像は南三陸町志津川です。

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先日、知り合いの待つ町に物資を届けてきました。
全員元気! 仕事に対する意欲も出てきていました。

以下は、南三陸町で起きた出来事。
私が現地で聞きました。
あわせて感じたことを記します。

》》》》》》》》

極めて辛いこの現実は、実は生き残った我々が共有すべき永続的価値があることなのだとも、敢えて思う(不謹慎な!と言われそうですが)。

今から必ず変わる。何があろうと、乗り越えて行くのは、結局は一番辛い一人ひとりの気持ちの問題が大きいのだとも思う。
 

避難し安全な高台から「早く逃げろっ」と声を張り上げた大勢の町民に向かって、激流の中、手を振りながら流されて落とした、かけがえのない命。

部屋に寝たきりで自力で逃げられない相手のその手を握り締め、「俺は一緒に逝くわけにはいかないから、俺はいけないから、」と言葉をしぼりだし、泣きながら置き去りにして自身は生き残った、生きるべき命。

本人はそのまま真っすぐ親友のところに一人走り訪ねていき、「間違っていたか?、俺は間違っていたのか?」と泣きながら尋ねつづけたのだと。

 

ここではチリ地震津波を体験した高齢者が多く命を落とした。

あの時には、ここまで津波はこなかったから。うちは三階建てだから大丈夫だ。新築したばかりだから、二階に居れば大丈夫、あの時の津波の高さはここまでこなかったから。

原爆投下跡を思い出してしまった(写真でしか知らないが)。

南三陸町で、被災地の中心にいる生き残った強い人々は、無念に命を落とした町民仲間達の話を涙ながらに辛く悲しくも、しかし強かに生存への分析もしているのだった。

 
一番強い人々。

それは地上で彼らが今一番なのだと、心の底から思った瞬間だった。皆、負け続けているわけにはいかないのだ。人は、皆、強いものだと思う。

 

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画像は志津川町内の松原公園に展示されていたSL。手前の線路上に展示されていたが、波の力により流された。

 

その松原公園には、チリ地震津波の教訓と誓いとして、チリ共和国からの記念碑、プレート等もあるが、今は無残に横たわっている。

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とにかく町全体が、「途轍もなく巨大な鋭い爪の手に鷲掴みにされ、何回も何回も引き千切られたように破壊されている」のです。

水門の扉も破壊され、無くなっているでしょう。

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いただいた写真とレポートは以上です。

あらためて、亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地で懸命に頑張り続けておられる皆様のご健康と、一日も早い復旧、復興を心より願うばかりである。

FaceBook恐るべし

2011年4月1日 (金曜日)

昨日はお昼から、外での打ち合わせが三連ちゃん。ノートパソコンを持ち歩いて、打ち合わせの合間に仕事をしていた。

あいかわらずメールをたくさんもらうのだが、溜めてしまうと翌日がたいへんなので、外から返信しようと思った。

しかし、一昨日の日記でも書いたが、僕のノートパソコンからはメールの受信は出来るのだが(会社のアカウントを使っての)送信が出来ない。しょうがないなあと思いながら、気分を変えて何気なくFaceBookを開いてみたら、メッセージが届いていた。しかも5人から。どうやら前日から気付かずに溜めてしまっていたようだ。あらら。

・・・あ、そうか。「友だち」になっている人には、メールではなく、FaceBookのメッセージ機能を使えばいいのか。

メッセージの一通は、アメリカ(アトランタ)にいる旧友からだったので、返事を書いてみた。するとびっくり。あっという間に、また返信が届いた。アメリカの方では、ごく日常の通信手段になっているのだろうか。

FaceBookだと(友だちということもあるんだけど)堅苦しい時候のあいさつも杓子定規なご機嫌伺いも必要ない。口語体で気軽なコミュニケーションができる。しかも、その人の「顔」が画面に出てくるから、よりリアリティがある。ある「友だち」(大きな会社の社長なのだが)からは、「○○日に、△▽商事の人事部長と飲むことになったんだけど来る?」というメッセージが入っていた。僕からの返事は、「行く行く!」の5文字だけである。簡単&迅速&超フレンドリーなのだ。

FaceBookに最初に登録したのは、たしか一昨年の秋だったと記憶している。そのときの「友だち」は、外国に住んでいる知人と、国内ではIT系ベンチャーの経営者が数名だけだったのだが、最近では、「え!この人が使ってるの?」というくらい、ITやSNSとは無縁だと思われていた人たちも「友だち」になってきた。

就職情報会社のエンジャパンは先日、日本マイクロソフトと組んで、このFaceBookを利用した新しい求人・求職のサービスの提供を始めると発表していたし。

うーん。FaceBook恐るべし。世代を超えて、そして垣根や建前を越えて、様々なコミュニケーションのあり方を変えていく存在となりそうな予感がする。しばらくは目が離せないな、こりゃ。

 

さて、本日は4月1日。新しい年度の始まりの日である。週末でもある。今夜ばかりは、新社会人、新入生は、自粛抜きに晴れ晴れしい姿で、喜びの笑顔を前面に出しながら街中を歩いてほしいものだ。そして電気の消えた暗い街を明るく照らして欲しい。

 

九州に来ている日

2011年3月30日 (水曜日)

「この続きは大分で書くことにしよう」と言いながら、いまは福岡(博多)にいる。

昨日は朝8時の飛行機に乗り、大分空港に着いたのが10時前。大分空港から高速バスに乗って湯布院に向かった。

福岡への出張のついでに、一人で暮らしている母親の様子見と、もろもろの手続きをするために湯布院に立ち寄ったのだった。

駅から母の住む家まで歩いて30分近くかかるのだが、温かく天気もよかったので、テクテク歩いていくことにした。

5分ほど歩いたときだった。前方でマスクをしたご婦人が何やら声を出しながら手を振っている。「ん?」と思って後ろを振り向いたが誰もいない。ということは、あのご婦人は僕に向かって手を振っているのか?誰だ?と思って、目を凝らしてみた。ご婦人はおもむろにマスクを外す。

「私や、私!」  ・・・ ああ、なんだ、イオちゃんやないかい!

中学の同級生が、たまたま仕事で駅のそばに来ていたのだった。

「お母さんとこ行くんやろ?乗っていき」と、イオちゃんの仕事用のクルマに乗せてもらって、本当は30分かかる家まで、3分で到着した。僕はなんて運のいい奴なんだろうと、あらためて思った次第だ。

家に着き、母親の様子を見、旧式でじきに使えなくなる携帯電話と、新しい携帯電話を交換し、使い方をしばしレクチャーし(実はこれが今回のイチバンの目的だった)、その後、昼食をとりに食堂へ。

食事後は、役所に行き、もろもろの手続きや書類への印鑑などなど。いつも母親の面倒をみてくださっている福祉事務所の担当の方がとても親切でアリガタイ。人の親切が身にしみる年ごろなのだ。

一連の手続きを終えて、駅に戻り、福岡行きの高速バスに飛び乗った。

福岡は現在の東京とちがい活気がある。3月にオープンしたばかりの駅ビル(JR博多シティ)などは眩しいばかりの輝きだ。

夜は、このJR博多シティの9Fで、福岡で働く中学校時代の同級生とミニミニ同窓会を行なうことになった。やっぱり昔の友は永遠の友だ。気を使うこともなく、ええかっこしする必要もなく、楽しい時間を過ごした。

そうそう、ホテルに戻って、たくさんのメールに返事を書こうと思ったのだが、なんとメールの送信が出来ないのである。システム担当者に聞くところによると、メール送信サーバーのセキュリティレベルが高くなっているため、ロックがかかっているようなのだ。うーん、なんともはや。ま、しょうがない。

さて、明日(もう今日か)は朝から福岡でのM社の会社説明会。震災の関係で少しの間、説明会を行なっていなかったのだが、明日から本格的な再開である。

福岡は、桜の花も咲きだした。人々の顔にも活気がある。震災の影響ですっかり影が薄くなってしまったが、九州新幹線も、博多-鹿児島間がつい先日(震災の翌日の3月12日)開業した。博多から鹿児島まで、なんと一時間ちょっとで行けるようになった。九州の一体化が急速に進みそうだ。

今後は、わがふるさと九州が日本復興のカギを握るのかもしれない。九州から日本全体を元気にするのだ。ガンバレ九州男児! ・・・なのだ。