人に優しく仕事に厳しくの日
2010年1月6日 (水曜日)
きょうの日記のタイトルは、昨日のキックオフミーティングの最後の決意表明で、僕が発表したひとつのフレーズ。
早速、優しさと厳しさを発揮しなければならないときが来た。
人に優しく仕事に厳しく。
うん、なかなか、素晴らしいフレーズだな。
・・・え?きょうの日記はこんだけ?
そう、こんだけ。
第14期第3Qのキックオフミーティングだった日
2010年1月5日 (火曜日)
きょうは、年に4回のクオーターごとにおこなっているキックオフミーティングだった。午後1時から夜の8時過ぎまでのまるまる8時間という長時間ミーティング(夜6時からは単なる飲み会なんだけど)。
本日は年の始めの第一回めの全体会議ということもあり、なかなか気合が入った。社員たちの気持ちも、みな同じだったと思う。いつにも増して、前向きな意見や提案がたくさん飛び出した。
やっぱり平時より有事のときのほうが、人間の能力は最大限に発揮されるような気がする。
戦国時代。幕末の動乱から明治にかけての時代。太平洋戦争後の混乱の10数年。
もちろん戦争や動乱を望んでいるわけではないが、世の中の危機が人を熱くし、志を与え、人材を輩出するのだと思う。坂本龍馬は幕末を生きたからこそ、坂本龍馬であったわけだし……。
そう考えると、いまの世の中(…じゃなくて、いまのパフでしたね)、人材が大きく育ち、新しい何かが生まれてきそうで、なんだかワクワクする。
そんなことを予感させる、本日のキックオフミーティングだった。
2010年の仕事始めだった日
2010年1月4日 (月曜日)
本日がパフの公式な仕事始め。ただ、個人的には昨日も朝から夕方まで会社にいたので(しかも昨日は結構な人数の社員たちが出たり入ったりしていたので)、あんまり「さあ仕事始めだ!」という感じでもない。
でも、朝9時には今年初の朝礼を行い、社長年頭メッセージを読み上げ、皆で乾杯をし、築地波除神社に団体参拝に行き、お祓いを受け、お神酒をいただいたことで、一年の始まりということがあらためて実感できた。
参拝から戻った後は、上期決算のための数字の確認や、明日の下期キックオフミーティングのための打ち合わせや、その他新規事業のためのミーティングなどなどで、あっという間に時間が過ぎていく。
本日のトドメは、年賀状のお返事書き。
ビルのポストは、本日から集配が可能になったこともあり、まとめてどっさりと郵便物が届いた。
僕あての年賀状もどっさり。
年賀状をいただけるということはありがたいし、嬉しいことだ。たまにしか会えない方から、肉筆のメッセージでの年賀状をいただいたりすると特に嬉しい。
ただ、僕がお出ししていない方々から肉筆の年賀状を頂戴したりすると、嬉しい半面、心苦しい。
ああ、なんて不義理な奴なんだと、ちょっとした自己嫌悪に陥る。そして、ああ早いとこお返事出さなきゃ…と、心理的な圧力を感じてしまう。
ということで夜になり、年賀状のお返事作戦を開始した。
が、PCやワードに振り回され、いっこうに宛名の印刷がうまくいかない。
結局、年賀状とリストを家に持ち帰り、たったいま家のPCとプリンタで悪戦苦闘の末、宛て名の印刷が終了したところである。
なんとすでに時計は25時半を回っている。初日にしては、ずいぶんと長い時間をPCと向き合ってしまった。
さーて。明日は午後からまるまる全体会議(下期キックオフミーティング)だ。
下期は、なんとかスタートダッシュを計って、パフの健在ぶりを内外に誇示したいものだ。
期待の膨らむ「龍馬伝」が始まった日
2010年1月3日 (日曜日)
ずっと楽しみにしていたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が、ついに始まった。
きっと今夜は、たくさんの人が龍馬のことをブログに書くんだろうな。
ところで、多くの龍馬ファンが抱いている龍馬像は、司馬遼太郎のかの有名な小説「竜馬がゆく」の主人公である“坂本竜馬”(“龍馬”ではない)が、そのベースになっている。僕もそのひとりだ。
しかし、今回の「龍馬伝」には原作が存在せず、脚本家の福田靖氏がオリジナルで書きおろしていくのだという。いままでの“竜馬”には囚われない、新しい“龍馬”を描いていくのだという。普通の青年だった龍馬が、どのような過程を経て、我々が知っている器量の大きな“坂本龍馬”に成長していったかを描くのだという。
このことを聞いただけでも期待が膨らむではないか。
福田靖氏は、「期待を裏切らずに、予想を裏切りたい」と言っているそうだ。さすが、売れっ子脚本家(ちなみに、「HERO」や「海猿」や「ガリレオ」も氏の脚本だ)。
この福田靖氏のプロフィール。Wikipediaで見てみると「1962年生まれ。明治学院大学中退」と書いてあったのだが、ここに書いてあることが正しいとするならば(そして福田氏の大学入学が現役だとすれば)、僕が大学2年生のときに後輩として入学してきたことになる。ますます親近感がわいてきた。
さて、肝心の第一回放送。じっくりと観た。総合とBS2で、2度観た。
うん。期待を裏切っていない。脚本もさることながら、映像が素晴らしい。いままでの大河ドラマにはなかったリアルで躍動的な映像とカメラワークだ。演出(監督)は、「ハゲタカ」や「白洲次郎」の大友啓史氏だというから納得である。それと音楽も素晴らしい。音楽は、「ALWAYS三丁目の夕日」の佐藤直紀氏だというから、これも納得である。
龍馬を演じる福山雅治。今後の龍馬の成長とともに、きっと成長していくのだろう。初回はいい意味で期待を裏切っていない。
そして、龍馬の語り部であり、岩崎弥太郎を演じる香川照之。これにはもう脱帽である。「坂の上の雲」での正岡子規の演技でも感動したが、この岩崎弥太郎役は、さらにすごい。そもそも岩崎弥太郎に龍馬を語らせるというドラマ設定を考えついた人(誰だか知らないが)、大殊勲ではないだろうか。
「龍馬伝」第一回放送での、今後の龍馬成長を想像させる名セリフを二つ選んでみた。
「 母上が教えてくれたがじゃ…。憎しみからは何も生まれん 」
と
「 どういて(どうして)目糞は目尻じゃのうて目頭から出るがじゃ? 」
だな。
いやあ、これから毎週日曜日が来るのが楽しみだ。子供のときに待ち遠しかった「巨人の星」の放送日と、「少年マガジン」の発売日と同じくらいの楽しみだ。
これで週末の日記ネタも、12月まで安泰である。
さらに器を考えた日
2010年1月2日 (土曜日)
先日の日記でも書いた福田和也氏の『人間の器量』。本日あらためてすべてを読んだ。
そのなかの一節(終章より)。
結局、気にかける人、心を配る人の量が、その人の器量なのだと思います。自分の事しか考えられない人は、いくら権力があり、富があっても器はないに等しい。死を前にして最後の最後まで未練にすがりつかなければならない。
まったく同感。
きょうは会社の組織体制を、ああでもない、こうでもないと考えていたこともあり、実に心に染みた一冊であった。
でもこの本を読みながら、器がないに等しい人間のことを頭に浮かべ嘆いている自分が、ちょっと悲しくなった。
本当に器の大きな人間は、他人の器の大小に、一喜一憂などしないんだろうになあ……。
2010年の初詣で勇気づけられた日
2010年1月1日 (金曜日)
さあ。2010年の始まりである。
今年は寅年である。フーテンの寅さんなのである。そして、NHK大河ドラマは坂本龍馬(龍馬伝)なのである。パフ・ザ・マジックドラゴンの「龍」jなのである。
不況にあえぐ昨今ではあるが、僕の大好きな寅さんと龍馬が2010年の主役だと聞くと、なんだか元気になってくる。
なにはともあれ、正月最初の仕事は、初詣である。
いつものごとく、佃島の住吉神社に向かった。
さすが正月。住吉神社は大勢の参拝客で賑わっていた。100m以上の行列が出来上がっていた。
賽銭箱にいくら入れるか、ちょっと考えた。
5円か10円か50円か100円か500円か……(ちなみに小銭入れしか持っていなかったのである)。
よしっ!ちまちま考えるのはやめよう。ここは財布に入っているすべてのお金を投じることにしよう。すべてを投じてこそ、神様に僕の思いが届くってもんだ。
・・・という、大きな(単純な?)決断をした。
並ぶこと約30分。鳥居をくぐり、やっと順番が近づいてきた。
全財産を投じるといっても、いったいいくら財布に入っているのか分からない。ちょっと調べてみようと思って、財布を逆さまにして、掌に小銭をひとつ残らず取り出して並べてみた。
500円玉・・・1枚、
100円玉・・・4枚、
50円玉 ・・・1枚、
10円玉・・・2枚、
5円玉・・・1枚、
1円玉・・・4枚。
これが僕が持っていた全財産である。
合計すると……
え? これは、すごい!!!
979円なのである。
つまり、9(苦)79(無く) なのである。
いやあ、これは正月早々縁起がいいや。
一時的には、たいへんで辛いことはあるかもしれないが、それは決して永遠の苦しみではないのだ。ほんのひとときの生みの苦しみなのだ。最後には、苦は無くなるのだ。
979円を賽銭箱に念を込めて投げ入れた。
そして手を合わせた。
今年が終わるときには苦の無い世の中でありますように……。
この「釘さん日記」の読者のみなさまにとっても、今年一年が、最後には笑って終われるような、幸せな一年でありますように!
30年前の大晦日を思い出す日
2009年12月31日 (木曜日)
2009年も、いよいよ残すところあとわずか。
僕はこの最後の日を、ひとり自宅で過ごしている(カミさんと娘は、大晦日と元日の2日間を、カミさんの長野の実家でお祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒に過ごすことになったのだ)。
きょうのお昼前に、娘らを見送り、ひとり散歩に出かけた。
歩きながらふと、「あ、そういえば…」と思ったのだが、僕は東京に出てきて、今年でちょうど30年だったのだ。
今夜の紅白歌合戦は60周年だということなので、その半分の時間を、僕は東京で過ごしていることになる。
なにも紅白と比べることはないか(苦笑)。
ともかくも、僕の人生の60%は、東京で過ごしていることになる。とても長い年月だ。
1979年3月。九州・大分の高校を卒業した僕は、単身東京に出てきて、東京都文京区根津のオンボロアパートで暮らし始めた。
家賃は1万円ちょっとで安かったものの、昼でも真っ暗で、もちろん風呂やシャワーなどなく、トイレ共同、下水の匂いがひどい四畳半一間の部屋だった。
高校時代、劣等生で大学受験からも逃げていた僕だったのだが、なぜか卒業間際に進学への意欲がわき、こともあろうに東京の私学に入学したいと思った。
当然浪人突入である。貧乏だった我が家に金銭的な迷惑をかけたくない。東京で暮らし始めてすぐ、予備校に通う傍らアルバイトに精を出した。
もちろん勉強も、かなり真面目にやった。おかげで夏休み前には、公開模試で全国で4位という驚異的な成績を修めるに至った。
これでどこの大学にも合格できると勘違いした僕は、夏休み以降、さらにアルバイトに精を出すことになる。
土曜も日曜も朝も夜も関係なく働いた。いくつかの大学を受験するための受験料と入学金の半分くらいを貯めることが出来た。しかし、それとは引き換えに、公開模試の成績はガタ落ち。どこの大学にも受かるはずの偏差値は、二桁以上の急降下となった。
これはヤバイと思い、10月にはすべてのアルバイトを辞め、再度受験勉強に専念することにした。
しかし、アルバイトを辞める=生活費を稼げない、ということである。夏に蓄えたおカネは、大学の受験料と入学金のためにとっておきたい。どんなにひもじくても、手を出したくない。
1979年10月。ここから僕の東京での超赤貧生活が始まったのだった。爪に火を点す以上の暮らしである。
食事は朝と夜の2回だった。朝は7枚切りのトースト1枚だ。食パン一袋で一週間もっていた(冷凍しておけば一週間たっても不味くなかった)。夜は自分でご飯を炊いて(古米は安かった)、モヤシ炒めをおかずに食べることが多かった。土・日は(予備校もなく)体を動かさないので、1日1食だけで済ますこともあった。
風呂は、銭湯のおカネを浮かすために、3日に1回と決めていた(寒かったので、あまり臭くならなかったのだ)。
この赤貧生活の最高潮だったのが、ちょうど30年前のきょう。1979年の大晦日である。あの日のことはいまでもよく覚えている。
大学受験が目前に迫っていたので(旅費がもったいないことのほうが理由としては大きかったかな)、実家には帰らなかった。
でも大晦日。少しは正月らしいものを食べたいと思った。とはいえ、お金がない。翌月から始まる大学受験のための受験料をさっぴくと、ほとんど手元にお金は残っていなかった。
お金がかからずに、でも正月らしい食事……。そうだ!年越しそばだ!!
当時、日清食品の「どんべえ(たぬき)」が出たばかりのころだった。しかも安い。
よし、奮発して生卵も買って、月見そばにしよう!!
そう考えた。
夜9時過ぎ、映りの悪いテレビで紅白歌合戦を見ながらお湯を沸かし、どんべえを作った。3分経って、卵を割って入れた。
卵をかき混ぜて、すすって食べた。あっという間に食べ終わった。とても美味しかった。
でも、なぜか涙がこぼれてきた。
なぜ俺はここで、もうすぐ正月だっていうのに、ひとりで“どんべえ”をすすって食べてるんだろう……。ブラウン管の向こう側では歌手たちが晴れやかな顔で歌っているし、観客はあでやかな振り袖姿だし、家族団らんのお茶の間の風景が映し出されているし……。
とても惨めで悲しい気持ちだった。
いま思い出しても、切なくなる。
あれから、はや30年。当時19歳だった少年は、もう来年、50歳になる。
どんべえをすすって泣いていた19歳の少年は、無事数ヵ月後には大学に入れた。大学卒業後は、仕事にも就けた。28歳で結婚もしたし、31歳で子供もできた。37歳で会社までつくってしまった。
途中、たいへんなことや苦しいこと、辛いことはたくさんあったけど、基本的には幸せな30年だった。
30年前の、どんべえをすすりながら涙を流していた19歳の少年に、こう伝えてあげたい。
「おまえさんの未来は輝いているぞ。いいことばかりじゃないけど、楽しいことやワクワクすることがきっと待ってるぞ。かけがえのない出会いもたくさんあるぞ。だから泣いてなんかないで、来月から始まる大学受験をまずは頑張れ!」
不思議なものだ。30年前の少年が、にっこり頷いてくれたような気がする。