パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

寝込んだ日

2009年12月23日 (水曜日)

いやあ、マイッタ。

昨夜とことん飲んだせいではないと思うが、朝からアタマがいたい。目は覚めているのだが、なかなか布団を抜け出せずにいた。それでも10時過ぎにやっと起きて朝食を採るのだが、起きているのが辛くて再び布団へ。

風邪なのか二日酔いなのか、まさかとは思うがインフルエンザじゃあないよな。。。

熱を計るのも面倒なので、そのまま放置していた。

結局、夕方までずっと布団の中で過ごす。途中、「あ、昨日の日記を書かなきゃ」と起きだして、パソコンを立ち上げたくらいだ。

夜、いくぶん楽になったので、普通に晩ご飯を食べ、風呂に入り、現在。

おそるおそる体温計を取り出して熱を計ってみた。

37.9度

うーん。平熱の低い(いつもは36度あるかないかくらいの)僕にとって、これはなかなかの熱である。っていうことは、昼間の辛い時間は、さらに高温だったんだろうな。

きょうは天皇誕生日。祝日で良かった。

明日は来客が5件もある。早朝からぎっしりだ。休めない。うつせない。治す。頑張る。

おやすみなさい。愛しています。(←常見陽平さんを真似てみました、笑)。

12周年を祝ってもらった日

2009年12月22日 (火曜日)

1997年12月12日にパフは設立された。設立のきっかけは、その2か月前(つまり97年10月)、僕がリクルートで働いていた当時の先輩と、新橋で飲んでいたときに繰り出された次のひとことである。

おまえはリクルートを飛び出したときから独立しているようなもんだ。おまえは結果をオーライにできるやつだ。だからきっとうまくいく。やってみろよ

その気になった僕は、翌日から出資者集めに奔走し、約30名から資本金の1千万円を集め、そしてゲンのいい「イっチニっ!イっチニっ!」の12月12日に、会社を登記したというわけだ。

このことは、いろんなところでいろんな人に話をしてきたので、パフのオールドファンの方なら、よくご存じだと思う。

あの日あのとき、あの男(先輩)と新橋で酒を飲んでいなければ、「パフ」はこの世に存在しなかったかもしれないのだから、不思議なものだ。

そんな勢いでつくったパフの12周年を、今夜ひっそりと祝おうということになった。相手はもちろん「あの男」である。翌日が休みだということもあり、珍しく二軒目の店(のろ)にも行った。「とことん飲もう」ということになった。

いろんな話をした。僕をそそのかしてパフを設立させた「あの男」は、やっぱり凄い男だということが分かった。

途中から完全に記憶が飛んでいるのだが、僕はホントにひとに恵まれているということを実感した夜なのであった。

#パフ設立の経緯を綴った物語を下にリンクしますので、興味のある方はどうぞご覧ください。大昔に書いたものなので、誤字脱字、それからちょっと独善的な表現なども散見されますが、ご容赦くださいませ。

パフの創業物語 第41話「独立決意前夜」

底冷えした日

2009年12月21日 (月曜日)

いやー、寒い。

ただいま夜中の1時を回ったところ。底冷えする。

きょうは朝から寒かったもんな。徒歩通勤の僕には、朝晩の冷え込みは特に堪える。

きょうは月曜日だったので早朝8時から全体会議。「論語の教え」から始まった。きょうの論語は僕が中学生のときに教わったもの。「巧言令色鮮矣仁」である。やっぱり「男は黙ってサッポロビール」がいちばん。高倉健、偉大なり(なんのこっちゃ。CMキャラは三船敏郎でしたね、念のため)。

木曜日の午後からずっと外出していたので、郵便物や決裁書類が溜まっていた。溜まった書類をみると「ふー」と溜息が洩れる。なにごとも溜めるのはよくないってことだ。

13時のアポのため12時前に会社を出る。途中、立ち食い蕎麦屋で昼食。500円玉で手軽に食べられる。食券を買って、蕎麦を受け取って、食べて、水をぐいっと飲んで、店を出る。この間わずか10分。この気取らない昼食が、僕は大好きなのだ。

13時。渋谷の某社の社長と打ち合わせ。気がつけば二時間近い話になっていた。なかなか濃い内容だったな。詳しくはまた今度。

16時帰社。G長会議などを挟むも、サーバールームに篭って、しばし沈思黙考。時間はあっというまに経過する。あ、そういえば!という原稿チェックなども行う。

22時半。目が痛い。腹も減った。そろそろ帰ることにする。

外は朝以上に寒い。

吉野家を経由して帰宅。本日は完全に休肝日だ。

WBSなどテレビを眺めていたらウトウトしてしまう。

いかんいかんと思い風呂へ。

そしていま。風呂上がりの日記執筆だ。

うーん。こうやって書き出すと、なんてことのない一日を過ごしている。

あ、寒くなってきた。湯冷めせぬうちに寝るとしよう。

明日の朝も寒いのかなぁ…。

きょうはなんだか小学生の日記だったな。

おやすみなさい。

「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年(僕が中学2年生のとき)に、毎週日曜日の夜に放映されていたテレビアニメである。僕は毎週欠かさず観ていた。大ファンと言っても過言ではない。

このファン度が最大限に高まったのが、1978年(高校3年生のとき)の夏休みである。「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」というタイトルで、テレビの続編が劇場用の映画として放映されたのだ。

Yamato

この映画には大きな衝撃を受けた。いまでもよく覚えている。

土曜日の夜だった。友だちと二人で、晩飯を食べた後、チャリンコで大分市内の映画館に観に行った。その日はオールナイトで上映されていたのだった。

ヤマトの何百倍もの大きさの白色彗星帝国(超巨大戦艦)に艦長の古代進が操縦するヤマトが突っ込んだ。そして古代進やヤマトの命と引き換えに、地球は救われた。その他のヤマトの主だった乗員たちも皆、死んでしまった。古代進の愛した女性・森雪(もりゆき)の死にゆく顔が、なんと美しかったことか。

ヤマトが彗星帝国に吸い込まれるように消え、一筋の閃光とともに大爆発が起きる。そしてエンディングでは、沢田研二(ジュリー)が歌う、「ヤマトより愛を込めて」(作詞:阿久悠/作曲:大野克夫/編曲:宮川泰)が静かに流れる。

気がつけば僕の目からは涙があふれでていた。いっしょに行った友だちも同様だった。

劇場内が明るくなっても、ショックと感動のあまり、しばらく立ち上がることができなかった。友だちと目を見合わせ、頷きあった。そしてその場で、次回の上映を連続してもういちど観たのだった。すでに午前零時を回っていた。

二回目が終わって映画館を出た時には、夜が白んでいた。下宿に帰ってから、ヤマトの乗組員たちの死を悼んで、友だちと酒を酌み交わした。アニメの登場人物のために追悼の酒を飲むなんて、このときが最初で最後である。

だから僕にとっての「宇宙戦艦ヤマト」は、この高校3年生の夏で終わったのである。

が、しかし!

翌年、なぜか宇宙戦艦ヤマトは「何事もなかったかのように」蘇った。死んだはずの乗組員たちもピンピンしていた。「これが最後のヤマトの映画です」と言っていたのはなんだったんだ?

いろんな大人の事情があったのは分かる。だから、僕はその後、一切の新作ヤマトのテレビや映画を無視し続けた。だって、自分のなかのヤマトと乗組員たちは、地球と愛する人たちを守るために、あの1978年の夏に死んだのだから。

 

が、その封印を、本日(約30年の歳月を経て)解いてしまった。

先週から上映が始まった『宇宙戦艦ヤマト復活篇』を、さんざん迷った挙句、観にいってしまったのだ。

そう、あくまで「観てしまった」なのだ。

感想はあえて書かない。

やっぱり自分のなかのヤマトと乗組員たちは、1978年、僕がもっとも多感だった18歳の夏に、地球と愛する人たちのために死んだということだけを再確認することにしよう。

Liveイン九州だった日

2009年12月19日 (土曜日)

昨夜、大阪から福岡まで南下してきた理由がこれ。

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ネオ倶楽部(就職エージェント九州)さんが、昨年より開催している、学生と企業とのお見合いイベントだ。

昨年の春先、ネオ倶楽部の柳川社長と、東京の就職エージェントの下薗社長と、僕との打ち合わせによって、第一回目の開催が決まった。

昨年の12月の開催が第一回目だったのだが、もうあれから1年が経ったのかあ…と、時の流れの速さにびっくりする。

昨年の模様も日記に書いているので参照されたし。⇒ http://puff.weblogs.jp/kugi/2008/12/post-1915.html

昨年は、パフから企業を7社もお連れできたのだが、なんと今年はゼロ社。

不況で企業の採用意欲が減退しているとはいえ、東京から1社も招致できなかったのは、忸怩たる思いである。同時に、ネオ倶楽部さんのお役に立てなかったことが、とても心苦しい。

だからというわけでもないのだが、ネオ倶楽部のスタッフの皆さんが頑張っている姿を、この目で見なければと思ったのだ。

僕が会場に現れると、担当のコイシハラさんや、ウラカワさんや、イクタさんは、びっくりしていた。社長の柳川さんにだけ、「明日行きますね」と、昨夜こっそり伝えただけだったのだ。

陣中見舞いとして、東京土産の「東京ばな奈」の特大版を「イベントの合間に皆さんで食べてくださいねー」とお渡しした。

イベントは受付開始前の早い時間から学生が行列を作るほどの盛況ぶり。

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予約していない学生も飛び入りで多数来てしまい、スタッフの皆さんは急きょ席数を増やしていた。学生がこれだけ一生懸命なのに、東京から企業を呼べなかったのはとても残念。あらためてパフの営業力の不甲斐なさを悔やんだ。

でも、地元のネオ倶楽部さん自身の頑張りもあって参画企業は(九州本社の会社を中心に)全8社あり、イベントは立派に成り立っていた。

柳川社長の挨拶と企業の自己紹介でイベントは開始された。

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僕は途中までしか居られなかったので(午後2時過ぎの飛行機で東京に戻らねばならなかったので)、全体を見ることはできなかったのだが、きっと成功のうちに終了したことと思う。

ヤナさん(柳川社長)はじめ、スタッフの皆さん。本日はお疲れさまでした!!来年こそは東京からも熱い会社を見つけて引っ張っていきます!!

九州まで南下した日

2009年12月18日 (金曜日)

朝の新幹線で大阪へ。

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上の写真は、新幹線の窓から見えた富士山。我がふるさとニッポンだ。

 

大阪では2件の打ち合わせ。

2件ともおおっぴらに公表できない内容なのだが、今後の僕の生き方を左右するものになるかもしれない。

それにしても大阪は寒かったなあ。同時にとても懐かしかった。

御堂筋、四ツ橋筋を15分ほど歩いたのだが、3年ほど前は、ここら辺をチャリンコで回っていた。パフにはその昔、大阪にも事務所があったのだ。当時は僕も、2週間に1回は大阪に出張していた。とても独特な街だよな。

 

打ち合わせの後、新大阪駅へ。そして向かったのは東京ではなく博多。

明日は土曜日なのだが、Fネット加盟会社でもあるネオ倶楽部(就職エージェント九州)さん主催のイベント『ライブin九州』が中洲のホテルで開催されるので、その陣中見舞いに行こうと思ったのだ。

博多に着いた後、すぐにホテルにチェックイン。博多は大阪以上に寒かった。南下してきたのに、なんだか北国にきたような感じだ。

せっかく博多まできたのに、このままひとりホテルで夜を過ごすのはもったいない。博多には小学校時代の友だち(小2、小5、小6の同級生で、旧姓オーハタさんという)が住んでいる。いまや大学生の娘と高校生の息子を持つお母さんなのだが、久々に一献やろう!ということになった。

そして向かったのは天神だ。

オーハタさんとの一献。短い時間だったけど楽しかったな。話をしていると、40年もの昔の(僕らが10歳前後のときの)断片的だったあの日の記憶が徐々に蘇ってくる。

最初沖縄料理の店で空腹を満たしたのち、迷わず近くのカラオケへ。「我々が小学生時代に流行っていた唄を歌おう!」ということになったのだ。

1960年代後半から1970年代にかけての唄を中心に、紅白歌合戦を繰り広げた。

グループザウンズ(タイガースやテンプターズ)、荒井由美だったころのユーミン、初期の松山千春、それからまさかの桜田淳子!

そして極めつけは、青い三角定規の「太陽がくれた季節」。僕らが小学5年生だったころ放映されていた青春ドラマの主題歌だ。

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やっぱり同級生とのカラオケは楽しいな。1960年代から1970年代。同じ学び舎で勉強し、遊び、恋し、悩み、笑い、泣き、喧嘩し、(先生から)怒られた仲間である。

オーハタさん、今夜はどうもありがとう!記念に写真載せとくよ。

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きょうは午後から、ふるさと就職応援ネットワーク(Fネット)の全国代表者会議。北は北海道から南は九州…と言いたいのだが、九州は欠席だったので、南は四国・愛媛までの同業の社長たちが東京に集まって来た。

13時半から18時半まで、みっちりと真剣な会議を行う。

誤解している各社の社員たちもいるようだが、社長たちはホントにとても真面目なのだ(少なくとも日が沈むまでは)。

きょうの議題は、来春のスタートを目指している共同事業。どんどん具体化している。これは期待できるぞ。

会議終了後は、今年最後の集まりだということもあり、大忘年会。

原宿の南国酒家の円卓を囲んで、全国のオヤジたちが楽しく酒を酌み交わした。

下は30代から上は60代まで。年齢も背景もバラバラなオヤジたちだが、実に楽しく愉快な仲間たちだ。

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あ、そうそう。きょうこの場で決まったことがひとつある。

この年末から3年がかりで放映されているNHKのスペシャル大河ドラマの「坂の上の雲」と、来年の1月から始まる大河ドラマ「龍馬伝」。両ドラマとも舞台は四国(松山と高知)である。

Fネットにも、松山と高知出身のオヤジたちがいる(松山1名、高知2名)。

この松山と高知のオヤジたちが、「坂の上の雲ツアー」と「龍馬ツアー」を企画することになったのだ。Fネット加盟各社は両ツアーに、自分たちのお客様を募集して連れていく。ツアーの目的は、我が国のビジネスリーダーたちに、「志」を取りもどさせることにある。明治維新を成し遂げた日本人。維新後、列強に負けない国へと育てた日本人。彼らの志を学ぶためのツアーなのだ。

いやあ、楽しみ楽しみ。

このオヤジたちで、ニッポンを再生するぜよ!