狐「たぶん酸っぱいあの葡萄には、近寄らぬが吉」。
2020年6月16日 (火曜日)
おはようございます。ハムです。
最近のブーメラン。
1)「総理やめろ、代われ」と声高で言っている野党議員ほど
コロナの出始めに、桜を見る会などの議題で、政権与党の足を
引っ張っていた。
2)テ○スハ○スに出演して亡くなった方の追悼で
「誹謗中傷だめ、絶対」と言っている人ほど、過去に誰かを
叩きまくっていた。
3)求める人物像を「失敗を恐れない人」としている企業はたくさん
あるのに、コロナ禍で何かに挑戦した企業の話しはそこまで
聞かない。
結局、自分のことは棚に上げてしまう。
(The pot calling the kettle black)
「酸っぱい葡萄」というイソップ物語はご存知でしょうか?
お腹を空かせた狐は、たわわに実った美味しそうな葡萄を見つけ
食べようとして懸命に跳び上がるが、どれも木の高い所に葡萄の
実がなっていて届かない。
何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから
「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。」と
負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。
Wikipediaからの引用ですが、
自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、
価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味する
という内容の例え話です。
この話を聞いて、皆さんはどう思われますか?
狐の気持ちに同情しますか?
それとも、哀れな狐だと笑いますか?
僕は、何よりも先に「なんて僻んだ可哀想な狐なんだ」と、
哀れみますね。絶対。笑
でも、二言目に思うのは、
「いや、でもこの狐って僕のことなんじゃないか。」って。
こんな状況で、○○なんてできっこない。
だって、自分の特徴は□□だったから。
そんな固定観念に縛られているイメージ。
ほんとうは違うって分かっているのに。
自分がやろうとしていなかったり、失敗することを恐れてたり。
それを、環境のせいにしたりする。
木が高いから。どうせ甘くない果実に決まっているから。
でも、そんなこと、違うってわかっているけど難しい。
自分のことを棚に上げてしまうから。
悪態をつくまでは、
葡萄を食べようとジャンプし続けたあんな狐だけど、
あんな哀れな狐よりも、自分の方がもっと哀れじゃんって。
果たして自分は、果実を取るためにジャンプをし続けてたのか。
ジャンプする前から、はなっから諦めていただけなのでは?
人の本質を垣間見た、イソップ物語の一節。
どんな気持ちで、作者は筆をとったのかな。。。
お次は、鬼丸さんです。