三国志に学ぶ人生観 3 韓遂
2011年9月29日 (木曜日)
こんにちは、土田です。
(以下wikipediaより)
韓 遂(かん すい、? – 215年)は、後漢末期の武将。字は文約。
『三国志』魏志「武帝紀」、蜀志「馬超伝」等に記録がある。
後漢末期における涼州・関中軍閥の中核を担った人物で、
その生涯にわたって涼州の覇権争いを続けつつ、中央への反乱を繰り返した。
三国志演義では、曹操に父親の馬騰を殺された馬超とともに決起したが、
曹操配下の賈詡による離間の策にはまり、怒った馬超によって左腕を斬られ、
その後は曹操に降伏、という何ともしょぼいやつですが、
史実では少し違うようです。
中央政府に与することなく、リーダーとなる人物を担ぎあげては反乱を繰り返した、
ロックンローラー、ゲリラの後ろで糸引いている親玉のような人生でした。
若いころ、洛陽に赴いた時、何進に目をかけられたそうですが、
郷里に引き上げたという記述があります。
中央に仕官するのではなく、
あくまで涼州・関中という辺境から反乱を繰り返した韓遂。
中央で出世するのは肌に合わなかったのでしょうか。
尾崎豊のように、ずっと何かに抗い続けたかったのでしょうか。
そもそも、地方から反乱をおこして、本当に天下を取りたかったのでしょうか。
むしろ、それよりも何よりもずっとロックンロールしていたかったのではないでしょうか。
馬超を担ぎあげた潼関の戦いは、彼の一世一代の大勝負だったのですね。
ちなみに、史実では馬騰が曹操の強い要請で朝廷に出仕し、
一族を引き連れて鄴に移住していたところ、
韓遂が馬騰の軍勢を引きついだ馬超を表に立て反乱を起こしたのが先で、
そのかどで馬騰は処刑されます。
(父が中央にある意味人質に取られているのに反乱をおこすというのは、よっぽ
ど義憤が大きかったのか、 それともよっぽどのバカ息子か?
韓遂はどんな口説き方をしたのでしょうか。)
それが、三国志演義では、父を殺された若大将・馬超が復讐の炎に燃え、
打倒・曹操を誓う― みたいな美談っぽくなっています。
そこまでして曹操を悪者にしなくても…
次は、長崎です!