幼いころを思い出してみる(20)
2014年12月1日 (月曜日)
1975年夏。中学生最後の夏休み。初の昇段試験でボロ負けした日から半年が過ぎていた。
僕は、半年前と同じ大分市内の昇段試験会場にいた。
夏の大会はすべて終わり、この昇段試験が、中学三年生の僕にとっての最後の試合だった。
対戦相手は、僕と同じ中学生が一人と高校生が二人だった。
半年前のようなゴツイ大人はいなかった。
なんだかイケそうな気がしていた。
・・・結論から書こう。
善戦空しく、段位獲得に必要な「勝ち越し」とはならなかった。
惜しかった。
全戦引き分けで、「有効」や「効果」といったポイント判定がもしあったなら(当時は優勢勝ちの判定はなかったのだけど)勝っていた試合もあったんじゃないかと思う。
でも不思議なことに、落ち込んだりはしなかった。
「これで俺の柔道も終わったんだなあ……」
どちらかというと、清々しい気持ちだった。
その後しばらくして、顧問の飯倉先生に「話がある」と呼び出された。
「クギサキ、昇段試験受かったぞ、黒帯をもらえるぞ!」
「え?」
耳を疑った。
実は先生が審査委員たちに掛け合って、無理やり?合格にしてくれたのだった。
つまり言うなれば「推薦合格」。柔道界に影響力のある飯倉先生ならではの裏ワザだったのだと思う。
でも、合格は合格。素直に嬉しさが込み上げてきた。
二学期が始まって数日後、合格証書と黒帯が学校に届けられた。
夕方の学活の時に、担任の先生がその証書を読み上げ、僕に黒帯を手渡してくれた。
天にも昇る気持ちだった。
辛くて、シンドいだけの柔道だったが、三年間辞めずにやりつづけてよかったと心から思った。
その日、家に黒帯を持って帰った。
その黒帯を見て、母がどのような反応を示したかのかは残念ながら忘れてしまったのだが、父の反応はよく覚えている。
僕の父親は戦後(予科練から戻った20歳前のとき)東京の警察学校に通っていたことがある。そのとき、柔道も習っていたらしいのだ(父は心臓に持病があり、警官になれぬまま警察学校を辞め、その後板前の修業を始めたのだった)。
「黒帯は、柔道をする者にとって一番の勲章たいね。俺は黒帯ばとる前に辞めてしもうたばってん。キヨヒデ、いやあ、よかったねえ、ようがんばったねえ」
父はそう言って、我がことのように黒帯を触りながら喜んでくれた。
あれから40年の歳月が流れた。
黒帯は、いまでも僕のすぐそばで、僕のことを勇気づけてくれている。