28歳のころを思い出していました。
2020年1月30日 (木曜日)
昨日の夕方、僕は大手町の経団連会館にいました。この人の講演を聴くためです。
富士通の田中会長(前社長)の講演です。
東京経営者協会の事務局の方にお誘いを受けて行ってきました。
富士通は僕のキャリアに大きな影響を与えた会社のひとつです。
1989年の春から約1年間、僕は出向社員として富士通の営業部門で働いていました。28歳~29歳のころです。
田中会長は1980年に富士通に入社して、しばらくは東京本社の営業本部で働いていたとのことですから、ひょっとしたらすれ違ったことくらいあったかもしれません。
昨日は田中会長の話を聴きながら、当時のことを(もう31年も前になるわけですが)懐かしく思い出していました。講演を聴いていなかったわけじゃないですよw。
そういえば「釘さんの素晴らしき100の出会い」の中でも富士通のことを書いていました。しかも3話連続で長々と。最後のところだけ引用してみましょう。
F社は、昭和30年代以降、日本国家が国内の情報産業を発展させるべく推進した政策とも相まって、国産大型コンピュータメーカーの盟主として驚くべき急成長を遂げた会社である。
しかし、僕が席を置いていたころのF社は、それまでの大型コンピュータ一本槍の戦略では立ち行かなくなっていた時代であり、コンピュータのダウンサイジングやオープンネットワーク(いま僕らが普通に利用しているパソコンを中心としたコンピュータ環境のこと)の時代の流れに、明らかに乗り遅れていた。
そんななか、現場の若い社員は皆必死に頑張っていた。F社のビルは『不夜城』であると言われていたのだが、ホントに24時間働く社員も珍しくなかった。
僕のいたSプロジェクトも、皆本当によく働いていた。それ以上働いたら死ぬんじゃないか?っていうくらいに働いていた。たいへんな問題意識と危機感と使命感に支えられた若き戦士たちだった。
僕はF社に来るまで、大企業で働く社員に対して『どうせ単なる歯車じゃないか』という、ちょっと馬鹿にした意識を持っていた。しかし歯を食いしばって頑張っている彼らを見るにつけ、日本の産業を支えているのは、紛れもなく彼らなんだな、と考えを新にしたものだった。
Sプロジェクトは1年後解散となり、僕もF社を後にすることになった。僕は以後、コンピュータ業界から足を洗い人材業界に戻ることになるのだが、この1年間のプロジェクト経験は、僕にとっての大きな財産となっている。
20代最後の年に出会ったF社の優秀な社員たち。井戸の中の蛙だった僕に、日本の大企業の凄さを実感させてくれた40番目の出会いでした。
当時いっしょに働いていたプロジェクトメンバーとは今でも年賀状のやりとりをしています。仲が良かったんですよね。当時はバブル全盛の時代でしたから、週末はみんなで何軒も梯子したり生保レディを誘って合コンしたりw。
ということで、28歳の自分に会ってみたいなあと思った、59歳の昨日の僕でした(^_^;)。
では思いで迷子にならないうちに、朝食&スカーレット後、行ってきます!