新・パフの創業物語<第27話>「悶絶・苦悩・絶体絶命の日々~2~」
2020年8月4日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第27話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1984年6月。
大手計測制御メーカーC社からシステム開発を受注して2ヶ月ほどの月日が経っていました。
開発メンバーはボクを含めて3名。ひとりは、SE歴15年の大先輩。もうひとりは、SE歴2年の小先輩。そして経験年数ゼロのボク、という組み合わせでした。
システム構成は大きく2つに分かれていました。ひとつは計測装置に組み込むROMそのものを開発する部分。もうひとつは、計測装置の起動、中断、終了などの運転制御や、計測されたデータの分析や運転状況の監視を画面表示を通じて行うパソコンシステムの部分です。
実は先輩の2人、いろんなシステムの開発経験はあるものの、パソコンのプログラミングはまったくの初体験でした。「え?」と思われるかもしれませんが、パソコンがやっと世の中に出回り始めたのがこの頃だったので、無理のないことでした。
「釘ちゃんさー、俺たちもパソコンに関してはまったくの素人だからさー、パソコンの担当は釘ちゃんがやっても俺たちがやっても一緒だよな」
「は?」
「うん、ということで、釘ちゃんがパソコンの担当ということで決まり!」
「え?じょ、冗談でしょ?またー、は、ははは。え、マジっすか?」
ということで、システムのイロハも分からぬまま、独学でBASICなるプログラミング言語と格闘することになったわけです。
それからの2ヶ月間、アパートに帰ったのは土・日含めて数えるだけ。
ボクの寝床は、会社の机の上に敷き詰めた古新聞。
枕は、MS-DOSの分厚い英語のマニュアル。
そして掛け布団は、トグロを巻いたストックフォーム(プログラムリストを出力するための連続帳票用紙)。
売れっ子漫画家顔負けの、想像を絶する生活が続いたのでした。
そんなこんなで悪夢のような日々は過ぎ去り……。
まがりなりにも組みあがったシステムを、先方の担当者に見てもらう日がやってきたのです。
「あ、釘崎さん、できましたか?難しかったでしょう。どれどれ動かしてみてくださいよ」と、先方の技術担当者であるE本さん。
出来上がりに自信なんてまったくなかったのですが、「えーい、もうどうにでもなれ!」という心境で、フロッピーディスクに格納したプログラムをパソコンに読み込ませ「RUN」というプログラム実行ボタンを押すボク。
E本さんの顔が見る見る変わっていくのが、怖いほどよく分かりました。
「む、むちゃくちゃですね。2ヶ月間かけて、これですか……」
釘崎青年の本当の地獄の生活は、ここから始まるのでありました。
(や、やっぱり死ぬのか?つづく)
そりゃあ経験ゼロの素人が組んだプログラムがむちゃくちゃなのは無理もありません(苦笑)。でも、このとき先輩二人が組んだ計測装置側のプログラムもぜんぜんダメだったんですよね。
実はこの計測装置はC社にとっても新製品で、参考にできる過去の事例やノウハウなどもありませんでした。C社の技術担当者と共に途方に暮れていた1984年の初夏の夜だったのです。
さて、本日は事業承継スキームを考える日。明日の金融機関との打ち合わせに備えて、あたまの中の構想をパワポに整理します。わりとややこしいのですが、計測制御のシステムを作るのに比べれば何倍も楽ちんな仕事です(笑)。
では朝食&エール再放送後、仕事します!