新・パフの創業物語<第31話>「つらかったS社との別れ」
2020年8月11日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第31話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1989年3月。釘崎青年28才の春間近。
某人材スカウト会社からの紹介がきっかけで、大手コンピュータメーカーF社傘下のディーラーM社に転職することになったのです。
リクルートを離れて以来、丸5年間お世話になったS社との別れは、正直言って相当に辛いものでした。S社の社長に対して、会社を辞めたい旨を告げたときには本当に申し訳なく胸が締め付けられる思いでした。
しかし一方で、ボクにはS社の組織作りや業績向上に大きく貢献してきたという(いま振り返ればたいへんに思い上がった)自負があり、「ここまでやったんだから、もう十分だろう」という思いから 「どんなに引き留められても絶対辞める。辞めるのは今しかない」という強い意志を持っていたのも事実であり、いろいろと悶着はあったものの最終的に社長に辞意を受け入れてもらうことが出来ました。
しかし社長に対してよりも、もっと辛かったのはボクが自ら採用してきたS社の後輩たちへの告白の時でした。
たいへん自分勝手なことだとは承知しつつも、後輩たちには自分が辞めることによる動揺をなんとか最小限に食い止めなければと、転職を決意するに至った経緯や心情を時間をかけて説明しました。
「釘崎さん、オレたちのことは全然気にしなくて構いませんから、どうか新しい会社でがんばってください!!」
後輩たちからこんな風に励まされたものですから、嬉しいやら、申し訳ないやら、切ないやら……。本当に辛かったですね。
そして、S社での最終勤務日。取引先の方々や、遠方に出張したり他社に出向していた同僚・先輩・後輩たちから「ご苦労さんでした」の電話が夕方以降、何本も何本もかかってきて、感極まって思わず泣いてしまったことを覚えています。
そして1989年4月。
世はまさにバブルのころ(当時の僕は貧乏な暮らしをしていたので、そんな感覚は一切ありませんでしたが)、転職先のM社での仕事が始まりました。
正確にはM社を経由して、ボクはコンピュータメーカーF社の丸の内の本社で、OEM供給を受けたUNIXワークステーションの販売支援の為の「Sプロジェクト」に投入されたのでした。
生まれて初めて経験する従業員数万人の大組織での仕事。好景気が続く中での、超多忙だけどバブリーな毎日。
リクルート時代でも経験したことのなかった、様々な刺激的な日々が待っていたのです。
(どんな刺激?…つづく)
当時の僕には有給休暇などという概念はなく、入社してからの5年間で休暇を取ったのは新婚旅行(いちおう行きました苦笑)のときくらいでした。
なので退職時には、繰り越し分も含めて20日以上の未消化有給休暇があったはずです。
ふつう退職時にはその未消化分を取得したうえで退職日とするのでしょうが、僕は1日も間を空けることなく(それどころか退職日の夜9時過ぎまで残務を仕上げたうえで)翌日から転職先に出社したのでした。なんて経営者にとって都合のいい社員だったのでしょうか(笑)。
さて、きょうは朝から暑いですね。日中は36℃まで気温が上がるそうです。きょうから内定者インターンシップが始まるので(僕も教育担当を命令されているので)出社せねばなりません。さすがに徒歩通勤は危険かな💦
では、麦わら帽子でも被って行ってきます!