新・パフの創業物語<第36話>「適性検査と人事情報システム、そして…」
2020年8月20日 (木曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第36話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
H社に入社し、ボクは約7年ぶりに人事を対象とした仕事に携わることになりました。
当時のH社は、適性検査の企画・開発・販売を細々と行うだけの会社で、社員も心理学の先生を含めて3名のみ。同居している兄弟会社のR社は100名ほどの所帯でしたから、ほんとに小さなひとつの「課」みたいなものでした。
でもそんな小さな会社とはいえ、取引先企業は100社を越えており、売上げや利益もなかなか底堅く、やり方によっては大きく成長する可能性を持った会社でした。
結局ボクは、この会社で29才~37才までの足かけ8年間を過ごすことになるのですが、この間、様々な人事向けの営業と商品開発に携わりました。
まず最初に手がけたのが「人事情報システム」の企画・開発でした。
従業員の様々な属性管理、履歴管理をパソコンで簡単に行うためのシステムなのですが、当時はオフコン(オフィスコンピュータ)や大型コンピュータ用の高価なものしかなく、わがH社が開発したパソコンベースのシステムは世の中に広く受け入れられました。
この商品を拡販するために、僕は毎週1回の頻度でセミナーを開催していました。場所は会社の会議室で、1回あたり5名も参加すれば満員御礼になるような狭いスペースなのですが、わざわざ来社された方々は導入意欲も高く、契約率100%につながることもしばしばでした。
パイロットや整備士を管理するシステムとして、大手航空会社のZ社に(カスタマイズ費用も含めて)かなりの高額で導入されたこともありました。
当時のセミナーに参加した、とある大企業の担当者(当時は人事課長)はのちのち大出世して社長になり、後年パフの大きな取引先になったりもしています(2020年8月補筆)。
売れている反面バグも多いシステムで、企画と営業の最前線にいたボクは、ずいぶんと胃の痛い思いもしましたが、自分が生み出した商品でもあり、いまでも思い出深く、愛着のあるシステムです。
次に手がけたのが「基礎能力検査」です。
SPIのことは皆さんよくご存じだと思いますが、そのSPIの基礎能力測定部分と競合する商品です。この検査ではさらに、時事問題などの一般常識や英語能力なども組み合わせた、採用時の入社テストとして企画開発を進めました。
ボクが出題内容を考えていた訳ではなかったのですが(作問は外部の専門家に委託していました)、全体の設計やコンピュータシステムの構築、営業のためのカタログ作り、出題内容のチェック、商品化前の予備検査の実施等々、相当に知力と体力を使う仕事でしたが、30代前半だったこともあり、どうにかこうにかやれた仕事でした。
そして1995年の初春。ボクが34才の時です。H社の社長は僕を突然、社長室に呼びつけました。
「クギサキくんさ、最近インターネットの話題を、ちらほらと耳にするんだけど、インターネットで求人情報を提供するビジネスなんてどう?」
社長は、ボクにこう尋ねました。
ボクは正直に言うとインターネットなるしろものを、この時まで全然理解しておらず、
「さ、さぁー、まだまだ世の中に受け入れられないんじゃないっすかね」
と、消極的な答えをするのみでしたが、まさかこの話が後に急展開し、ボクの後々の人生をも変えてしまうとは、この時は想像だにしていませんでした。
(やっと最終回が見えてきたぞ。つづく)
バブルが崩壊して景気が後退していく時代だったのですが、ダウンサイジングの波が後押ししてくれたのか、このとき手掛けた人事情報システムも基礎能力検査も、まずまずのヒット商品になっていきました。
上にも「補筆」として書き加えましたが、現在パフの大きな取引先となっているK社の社長(昨年引退して相談役に就任されました)との出会いもこのころ。激務の日々でしたが、真面目に仕事をしててよかったなと思います( ^)o(^ )。
さて、本日は在宅で富山在住の会計士とオンラインで繋ぎながらの仕事です。あ、そして夜はライブの合同練習で出社でしたね。仕事は家で、趣味は会社でって変な感じです(笑)。
では、朝食&エール再放送後、仕事します!