新・パフの創業物語<第39話>「『登龍門』発進、TVにも出ちゃった!」
2020年8月25日 (火曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第39話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。
1995年10月下旬。
「12月1日に登龍門オープン!」と宣言したまではよかったものの、まだなにも出来ていないに等しい状況でした。
当時、ボクはもうシステムのプログラミングからは足を洗っており、実際に作り込みを行っていたのは兄弟会社のSEでした。
組織が違っていたものですから、ボクにはそのSEに対しての直接の指揮命令権がなく、SEの上司を通してでないと「開発を急げ!」という催促すら出来ない始末。
おまけにボクはその上司とは折り合いが悪くて、なかなか言うことを聞いてくれない。随分とヤキモキさせられていました。
そんなヤキモキしていた最中に1本の電話が入りました。
「こちらテレビ東京の『インターネットエクスプレス』という番組ですが、御社が12月にスタートされるというインターネットの求人情報サービスを、ぜひ取材させていただきたいのですが」
番組ディレクターからの取材依頼の電話だったのです。
この電話の数週間前、日経産業新聞にも比較的大きく取りあげてもらったことがあり、このディレクターはその記事を読んで電話をくれたのでした。
恥ずかしがり屋のくせに、案外出たがりのクギサキくん。
「どうぞどうぞ、ぜひ取材に来てください!」と、気安く取材をOKしたものの、冷静に考えるとテレビが取材するということは、現物のシステムが出来ていないとお話にならないはず。
しかし実際には、人様に見せられるようなものは何一つ出来上がっていない。しかも、取材日まであと1週間程度しかない。
ま、まずい。なんとか形だけでも整えねば……。
このテレビ番組の取材依頼がきっかけで、クギサキくんのヤキモキが周囲への迫力に変わり、システムの開発をはじめ、カタログ類の制作や、プロモーション資料の作成、仕様の細部の詰め、掲載企業の開拓等々が急ピッチで進むことになったのでした。
そして、11月上旬の取材も無事終え、12月1日のオープン日。何日もの徹夜作業を経て、どうにかこうにか「インターネット求人情報『登龍門』」が、広くネットの世界に公開されたのでした。
実は、先に取材を受けたテレビ東京の番組『インターネットエクスプレス』、奇しくも登龍門のオープン日と同じ、12月1日が放映日と決まっていたのでした。
この日は、いそいそと自宅に早く帰り、テレビに今か今かとかじりつき、「おー、でたでたー!」と叫びはしませんでしたが、やや気取った表情の自分の顔、そして愛着のある登龍門の画面がブラウン管一杯に映った時には、感無量でした。ホンの数分間の登場だったのですが、かなり長い時間に感じました。
実際の映像です。若いっすね(^^;
そして、このテレビ番組が終わった直後、意外な人からの電話。
「クギサキ君、おめでとう!テレビ映りなかなか良かったじゃない。これから、なんとかビジネスになるようにガンバロウ。いやー、よかったよかった、おめでとう!」
電話の主は、このネットのビジネスをやろうと言い始めた、H社のK社長だったのです。
この物語では語り尽くせないような苦労がたくさんあっただけに、社長からのこのときの電話は、正直とても嬉しかったですね。
そしてこの放映の日から足掛け3年、ボクは登龍門の運営責任者として過ごすことになるのでした。
しかし……。
(なんだなんだ?つづく)
このころのテレビの影響はとても大きく、放映があった翌週からたくさんの問い合わせが入ってきました。
営業マンの数が足りずに、僕が問い合わせのあった企業に訪問することも多かったのですが、「あ、テレビに出てた人ですよね?」などと言われたこともありました。
新聞や雑誌などで取り上げられることも多くなり、インターネットの急速な普及とともに高揚感のあった時代でした。
でも、自分が起業するなどとは、このときは露ほども思っていませんでした。
さて、本日は朝イチ出社です。社員には見せたくない大きくて大事な荷物が僕宛に届くので、それを受け取るためなのですが(^^;。
では、朝食&エール再放送後、行ってきます!