63年前の東京を思う日
2008年3月10日 (月曜日)
63年前のきょう。すなわち1945年3月10日は、多くの(10万人と言われている)死者を出した東京大空襲の日である。
帰宅しテレビをつけると、東京大空襲を題材にしたドラマが放映されていた。
「戦争を早期に終わらせるため」という大義名分のもと、多くの一般市民たちの命が米軍の空爆によって奪われた。
無差別殺人を犯した者が英雄となってしまう奇妙な時代が、ほんの60数年前にあった。
僕は戦後生まれであるが、母親は終戦時すでに成人していた。父親は予科練(海軍飛行予科練習生)で、ゼロ戦に乗っていた。終戦があと少し遅かったら、父親は特攻隊で命を落としていたかもしれなかったらしい。
ゆえに僕は、いまの若い世代と比べれば、まだ戦争というものが、身近に感じられる世代かもしれない。
しかし所詮は、親から聞いた話や、記録写真や記録映像からしか、その様子を窺い知ることができない。いわんや自分の子供たちの世代においてをや、である。
現在の政治家たちの多くは、戦争を知らない(または、せいぜい幼いときの記憶しかない)世代の人たちである。彼らは、自分たちの保身やメンツにしか考えが及んでいないように思われる。
とても心配である。日銀総裁や道路の財源ことで、ぐだぐだ揉めて解決できない姿を見ていると、この人たちは、国家が存亡の危機に立たされたときに、本当に体を張って、この国を守ってくれるのだろうか、と思ったりする。
63年前のあの時代と比べたら、今はなんて平和で贅沢な時代なんだろうと思う。
しかし、その平和で贅沢なはずの時代が、必ずしも万人にとっての幸せに結びついていないという現実には、複雑な気持ちになる。