パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

この日記で何回か話題にしたことのある希代の作詞家、阿久悠。今夜、NHKのBSで、4時間の特集番組が組まれており、ついつい見入ってしまった。

僕が、小学生、中学生、高校生、大学生と、多感な頃には、いつも身近に歌謡曲があった。フォークソング好きな僕であったが、実は演歌や歌謡曲も大好きだった。

僕が心動かされた歌のほとんどが、実は阿久悠の作品であったと知ったのは、ずいぶんと後のことだった。

もっとも阿久悠は、歌謡曲の作詞家という枠組みの中だけで詩を書いていたのではなかったのだと思う。 “いま”という時代や“未来”という時代への願い や、そのときどきを生きる“人々への思い”といったものを、歌手たちの歌唱を借り、世の中にひとつのメッセージとして残していきたかったのだと思う。

それにしても、阿久悠の詩の世界はすごい。短い歌詞のなかに、ひとりの人間の数十年にもわたる人生を感じさせるものもあれば、広大な宇宙を感じさせるものもある。むずかしい言葉を使っているわけではない。それこそ、小学生だった僕が理解できる言葉で、時代を、人の心を、世のなかを紡いでいる。

ということで本日は、『釘さんが勝手に選ぶ阿久悠作品ベスト20』を、以下時代順(ランキングではありません)に列挙することにしよう。

#以下、作品/歌手/発表年 です。 阿久悠ホームページ「あんでぱんだん」を参考に引用しています。

1)「白いサンゴ礁」/ ズーニーヴー/1969年 

2)「ざんげの値打ちもない」/北原ミレイ/1970年

3)「さらば涙と言おう」/森田健作/1971年

4)「あの鐘を鳴らすのはあなた」/和田アキ子/1972年

5)「若草の髪飾り」/チェリッシュ/1973年

6)「コーヒーショップで」/あべ静江/1973年

7)「街の灯り」/堺正章/1973年

8)「五番街のマリーへ」/ペドロ&カプリシャス/1973年

9)「ひまわり娘」/伊藤咲子/1974年

10)「ロマンス」/岩崎宏美/1975年

11)「時の過ぎゆくままに」/沢田研二/1975年

12)「北の宿から」/都はるみ/1975年 

13)「目覚めた時には晴れていた」/伝書鳩/1976年

14)「青春時代」/森田公一とトップギャラン/1976年

15)「津軽海峡・冬景色」/石川さゆり/1976年

16)「ヤマトより愛をこめて」/沢田研二/1978年

17)「舟歌」/八代亜紀/1979年

18)「もしもピアノが弾けたなら」/西田敏行/1981年

19)「熱き心に」/小林旭/1985年 

20)「時代おくれ」/河島英五/1986年

 

いやはや、20曲を絞り込むのがたいへんだった。最初はベストテンにしようと思ったのだが、とてもじゃないが選びきれなかったので20曲に増やした。それでも涙をのんで削った曲が山ほどある。

でもこうやって、自分だけのセレクションを眺めてみると、自分史が鮮やかに蘇る。ほんとうは一曲一曲コメントを書きたいところだが、それはまた次の機会に譲るとしよう(んなこと、誰も望んでないでしょうけど)。

ところで、いまの小学生や中学生や高校生は、30年以上たっても、このような心に残る歌に触れられているのだろうか。手軽に音楽をダウンロードでき、歩きながらでも、電車の中でも聴くことのできるこの時代。僕らの時代と比べれば、比較にならないくらい音楽が身近なものになっているのは確かだろうが、どれだけ彼らの心を揺り動かす歌(詩)があるのだろうか。30年後、彼らの記憶をたどった時に、鮮やかに蘇る歌(詩)があればいいのだが……。

完全休養した日

2008年8月16日 (土曜日)

この1週間あまり、本当に暑かった。酷暑。ひどい暑さという表現がぴったりだ。

この酷暑のなか、僕の毎日は夜を中心に結構ハードであった。昨夜なんかは極めつけ。夏バテとあいまって、そろそろ体力の限界を迎えつつある。

まあ、自らも楽しんでいるわけだから、自業自得といえばそれまでか。

とはいえ、来週もまた、連日の予定が組まれているので、ここらで少し体を休ませなければならない。

ということで、本日は、ジムもお休み。めずらしく一日中、家の中で過ごした。オリンピック中継をBGMにしながら、本や新聞をぼっと眺めながら、ほぼ何も考えずに、ぼおっと過ごした。

働いたといえば、夕立が来たときに、外出中だったカミさんや娘に代わって、洗濯物を取り込んだことくらいか(苦笑)。

たまには、こういう何もしない、しあわせな一日があってもいいと思うのだった。

大男たちと過ごしたお盆の日

2008年8月15日 (金曜日)

本日は8月15日。終戦記念日であり、お盆の日でもある。

車も人も少なく、閉まっている店も多い。世の中は、ほとんど休日モードであるのだが、僕は普段と変わらず朝から出社した。パフは、7月から10月までのあいだで、自分の仕事の都合にあわせて好きな日に夏休みを取得するようになっている。とはいえ、やっぱりこのお盆の週に休みを取る社員が多く、きょうは通常の半分くらいの社員しかいなかった。

そんなお盆の日。僕の仕事は、交渉ごとや打ち合わせで費やされた。

最後の打ち合わせ兼食事会は、銀座七丁目。

米国で勤務し、現在日本に一時帰国している友人(というか、以前ものすごくお世話になったお客様)のN氏に、M社のI社長を紹介し、N氏の相談を引き受けてもらうのがメインの目的だった。

N氏は、今度からひとつの組織を任されることになっている。いわば中小企業の社長と同じである。そしてI社長は、中小企業向けの人事・組織コンサルのオーソリティである。

N氏と数週間前にメールでやりとりしているときに、I社長のことを伝え、I社長のブログを読んでもらったら、「ぜひ紹介してほしい!」ということになったのだった。

なぜ銀座七丁目かというと……。

I社長も実は夏休み中である。N氏も休暇で一時的に帰国してきているだけである。世の中もお盆でお休みモードである。だったらリラックスして楽しめる場所がいいなと思って、銀座七丁目にある、ライブハウス(昔の日記にも書いたことのあるケネディハウスというところ)に場所を設定した、というわけである。

N氏と数寄屋橋の東芝ビル前で待ち合わせ。ふたりでケネディハウスに向かっていると、「うおおい!」という野太い声。振り返るとI社長が手を振っている。

三人並んで、店に向かうことになったのだが、いやはや、あらためて並んでみると、この二人はデカイ。I社長は183センチの長身である。N氏もI社長ほどの長身ではないが、横にもワイドであるため、I社長に引けをとらないくらいにデカイ。この二人に囲まれると、僕は子供のようなものだ。

ケネディハウスで18時半から19時半までは、真面目な情報交換。あたらめて聞くN氏の会社の仕事、なかなか興味深い。グローバル企業でありながら、ローカル企業でもある。大企業でありながら、中小企業でもある。

19時半からは、真面目な話はシャットアウト。お楽しみのステージが始まったからだ。

いんやー、楽しかった。ハウスバンドが繰り広げる60年代と70年代の音楽の世界。休憩をはさみながらの4ステージ構成だったのだが、あっというまに時間が過ぎて行った。

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気がつけば23時過ぎ。空けたワインは4本。その前に生ビールをジョッキで2、3杯は飲んでいるから、かなりの酒量である。大男たちと一緒だと、そのペースに巻き込まれて、こっちもついつい飲みすぎてしまう。

懐かしい音楽の世界でノリノリになった僕らは、「カラオケで歌おう!」という必然の流れになった。そして、ここから先の記憶が遮断されてしまっており、残念ながら思いだすことができない(苦笑)。

いずれにしろ、お盆の夜を飾るにふさわしいひとときであった。でも、ワインの飲みすぎには要注意である(反省)。

#Nさん、Iさん、お疲れ様でした。Nさん、まじめな話は、正式な帰国後に、また!

僕はその昔(中学生時代)、柔道部に所属していた。いちおう卒業時には有段者となり黒帯を締めることができはしたのだが、それは3年間、厳しい練習を続けることができたご褒美みたいなもので、公式戦では、ほとんど負け続けていた。

柔道は、個人対個人の戦いなので、チームプレイではない。しかし、中学生時代の柔道は団体戦が中心なので、個人の負けは、そのままチームの負けにつながってしまう。

団体戦は5人が出場する。僕は中学の柔道部では7番目の選手だったので、いつもは補欠なのだが、たまに他の選手の体調が悪かったり、相撲の試合と重なったとき(当時強い選手は、相撲部と掛け持ちで試合に駆り出されていた)などは、試合に出ることもあった。

そのときの僕のポジションは、大将だった。先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の順番で、同じポジション同士が戦う。3勝したチームが勝ちとなる。僕は5番目=ラストの登場だ。僕の中学は比較的強い学校だったので、僕の順番のときにはだいたいチームの勝ちが決まっていることが多く、僕は気楽に負けることができた。

しかし、稀に2勝2敗で順番が回ってくるときがある。これは弱かった僕にとっては、とても辛いことだった。「僕の負け=チームの負け」になるからだ。

漫画や小説の世界だと、ここで奮起したり、奇跡が起きたりして、勝ちを収めるわけだが、現実にはそんなことは一度もなかった。

でも、チームの皆は、僕が弱いことを知っているので、僕が負けたとしても誰も僕を責めたり、非難したりしなかった。それどころか「よう頑張ったじゃねえか。ま、しょうがねえわい。気にすんな!!」と、サバサバしたものだった。最初から期待されていないというのも複雑な心境なのだが、極度に申し訳なく思っている僕にとっては、救いだった。

 

と、こんな昔話をいきなり書きはじめたのは、オリンピック男子柔道100Kg級の鈴木桂治が初戦敗退(しかも三位決定戦の初戦も敗退)し、そのうなだれた姿をいまテレビで観てしまったからだ。

あのうなだれ方は、悲惨である。痛々しすぎる。あそこまで自分を責める必要があるのだろうか。しかも団体戦ではなく、個人戦なのだ。「申し訳ありません」なんてコメントはないだろう。おまけに鈴木は、現役を辞めることを示唆していた。そんなこと言わないでくれ、と言いたい。まだまだ現役としてやれる年齢だ。言うなら「悔しい。もう一度基本からやり直します」じゃないだろうか。

国民や協会が期待をかけるのはわかる。僕ももちろん期待していた。でも、負けようと思って負けたわけではない。手を抜いていたわけでもない。だから、「よう頑張ったじゃねえか。ま、しょうがねえわい。気にすんな」と言ってあげようじゃないか。

オリンピックに連続出場を果たした(重量級では)日本一強い選手なんだから、こんなことで選手生命を終わりにしてほしくなんかない。

鈴木、立て、立つんだスズキ!

昨日の日記の続きである。

N社長たちと出かけたのは、横浜(桜木町)のさほど大きくない寿司屋さん。座敷のテーブルを囲んで6人が着席した。掘りごたつになっていたのだが、「掘り」が深くて、足がぶらぶらしてしまった。足が短いからか?

お刺身を食べてびっくり。すっごく旨いのだ。僕は築地にいるので、普段刺身を食べる機会が多いのだが、そんな僕でも感動するくらいの旨さだった。

カウンターを見ると、まだ早い時間なのにお客さんがぎっしり。やっぱり人気のある寿司屋さんなんだな。

この寿司屋で旨い刺身や寿司を食べながら、N社長とTさんとの昔の出会いや、当時の新卒採用奮闘物語などを聞かせてもらう。人が若いころに激しく頑張った思い出って、自分とは関係ない話だったとしても、とても引き込まれるものだ。

あっという間に時間が過ぎた。さあ、そろそろお開きだ。

N社長とKさんは、帰宅された。いや、ひょっとしたらKさんは会社に戻ったのかな?

TさんとWさんと、N社の女性採用担当Sさんと、僕の4人は、「軽く」もう一軒行こう、ということになった。TさんもWさんもSさんも、翌日は夏休みだという。「軽く」の言葉に、一抹の不安を覚えながらも、目的のBARに向かった。

このBARは、Tさんの昔からの行きつけの店。店に入ると、秀磨呂という名の犬が出迎えてくれた。この店は50代半ばのマスターと犬の秀磨呂の二人が経営しているのだ。

海の底をイメージした店内で細部にまでこだわっている。僕らは奥の間の個室でカラオケに興じることにした。音響設備がまた凄い。キーボードまで設置されている。ベースの音で座席が響く仕掛けになっている。また歌っている姿がテレビモニターに映し出される仕掛けにもなっている。ちょっとしたミュージシャンになった気分だ。

そして気がつけば。。。

「軽く」の言葉などどこにいったやら、である。Wさんなどは、「どうせ、明日休みなんだからさあ!」と言い出す始末。

それにしても、横浜、桜木町、あなどりがたしである。実に面白い一夜であった。

 

(下の写真は、テレビモニターに映し出されたSさんの熱唱の姿をカメラに収めようとしている僕。右にちらっと写っているのがTさん。歌は『天城越え』ですね)

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きょうは、とても不思議で珍しい組み合わせでの会合だった。

場所は横浜・桜木町。この地に、5年ほど前からの取引先N社がある。このN社のN社長(1)。就職情報誌業界大手の元常務Tさん(2)。人材紹介会社のコンサルタントWさん(3)。N社の女性採用担当者Sさん(4)。Sさんの先輩であるKさん(5)。そして僕(6)。全6名での会合だった。

全員がイニシャルなので、ちょっとわかりにくいのだが、相関図を描くと、実に面白い関係が浮かび上がってくる。

N社長と就職大手のTさんとは、26年ほど前からのお付き合いだ。入社間もなかったTさん(当時、新卒採用メディアの営業マン)が担当していたのがN社。当時N社長は、30歳の課長だった。当時のTさんは、N(当時)課長と一蓮托生で、N社の採用に汗を流していた。夜の付き合いも半端ないくらいに一蓮托生だったらしい。N課長はその後、スピードで役員となり社長となっていく。そしてTさんも、さまざまな部門を渡り歩きながら出世していき、若くして就職大手の常務にまで登りつめた。N社長とTさんとは仕事の関係がなくなってからも、しばしば一緒に飲みに出かけるほどの大の仲良しだという。

Wさんは、そんなTさんの旅行情報誌事業時代の部下。Tさんが事業部長でWさんが営業部長という間柄だ。豪胆なTさんのもと、Wさんは昼も夜も深夜も、相当に詰められていたらしい。

で、実は僕とWさんとは30数年来の腐れ縁的な付き合い。この日記では便宜上「さん」付けで呼んでいるが、間違っても「さん」などと敬称をつけることのない間柄である(笑)。

で、今夜の会合。

N社との取引関係をもう一段深めたい僕が、Wさんを通してTさんに、「N社長を紹介してほしい」とお願いしたことに端を発している。

僕はN社長に3年前、一度だけ(一時間だけ)取材でお会いしたことがあるのだが、大会社の社長でもあることから、それっきりになってしまっていた。その取材の際に、「クギサキさん、○社の常務をやってるTさんって知ってますか? 大昔からの仲良しで、つい先日も飲みに行ったばかりなんですよ」とN社長が嬉しそうに語っていたのが、ずっと頭の片隅に残っていた。

一方で、Wさんからは、かつての上司であるTさんの豪放磊落ぶりを、よく聞かされていた。

そこで、Wさん→Tさん→N社長の順で紹介をお願いしていった結果が、本日の大会合となったわけである。

Tさんも、ちょうどN社長に会いに行こうと思っていた矢先だったということもあり、まさにグッドタイミングでもあった。

で、面白かったのはここから先。大会合とその後の二次会での話なのであるが、長くなりすぎるので、また明日の夜にでも続きを書こうと思う。

ということで、本日はいったんここまで!

「クギサキさん、日記ってふだん、いつどこで書いているんですか?」と聞かれることがある。

「どこで?」という質問には、「会社以外のところで」となる。会社の自分のデスクでは、なかなか書けない。いや、書く気になれない。いやいや、書いている自分がなんだか悲しくなる(苦笑)。

だって「日記」なんだもんね。

「いつ?」という質問には、したがって、帰宅後ということになる。

やっぱり日記だから、できる限り、「その日が終わるうちに書く」ということを目標にしているが、現実にはなかなかそうもいかない。

日記を愛読してくださっている方々ならご存知のとおり、僕の夜は、社外の方々とのお付き合いで過ごすことが多い。お付き合いがない日は、社内の打ち合わせや会議がずいぶんと遅くまで実施されたりする。すると帰宅はだいたい午前様だ。

したがって、「その日が終わるうちに書く」といっても、執筆は早くても暦が翌日に切り替わった午前零時過ぎ。

帰宅後、睡魔に襲われながらも、気力を振り絞って、自宅のノートパソコンを開く。そこでなんとか書き切れればいいのだが、パソコンに頭を突っ伏して寝てしまうこともある。

ふと目が覚めて、あ、いかんいかんと思って書きあげることもある。

帰宅後、睡魔に勝てず(あるいは酔いが回っており)、「もう今夜はダメだ。朝起きてから書こう」というときもある。そいうときの朝は、かなり慌ただしい。

実は、きょうの日記がそうなのだ。実際にはこの日記の日付の翌朝に、あわてて書いている。

お気楽そうに書いているこの日記なのだが、実はその裏には、涙ぐましい努力が隠されているのである(苦笑)。

そういえば、今朝、へんな夢を見たなあ。僕は外国(たぶんどこかの途上国)にいるのだが、犬や猫や鳥たちと一緒に過ごしているのだ。しかも、犬語、猫語、鳥語を喋っているのだ。この国には自然破壊の危機が迫っており、僕は犬や猫や鳥たちと一緒に、自然を破壊しようとする人間たちと戦うというもの。

日記を朝までためると、想像力が豊かになるのであろうか(笑)。・・・あ、馬鹿なことを書いていたら、時間がなくなっちゃった。

ということで、きょうは「釘さん日記」の秘密を一部公開した日でした。