パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

念願の松下村塾を訪ねた日

2008年10月14日 (火曜日)

海岸沿いの旅館をあとにし、東萩の駅に戻ったのは朝の9時。

きょうは夕方までに、愛媛(松山)に行かねばならない(これは仕事です)。

山口県と愛媛県というのは、日本地図で見ると近いようにみえるのだが、実際にはとっても遠い。僕のいる萩は日本海側にあるので、いったん山を越えて瀬戸内海に出なければならない。そして、その瀬戸内海を船で渡ってはじめて、四国に上陸することができる。

乗り継ぎの時間も含めると、6時間ほどかかる。お昼前には萩を出発しなければ、日が沈むまでに松山には着かないのだ。

ということで、萩で残された時間は2時間。この2時間で、萩を効率よく見てまわるためには……。そうチャリンコである。

運よく駅前に、貸自転車屋さんがあった。僕はわき目も振らず、その貸自転車屋さんに向かい、大きな荷物を預けて、自転車を二時間借りた。レンタル料は、金300円也。安い!

コインロッカーの代金が300円なんだけど、それと同じ料金で荷物を預かってくれ、なおかつ自転車まで貸してくれる。すっごく満足。

颯爽と自転車に飛び乗り、松下村塾のある松陰神社を目指した。

えっちらおっちら漕ぐこと約10分。「←松陰神社」という標識が見えた。やった。やっとたどり着いた。

思えば、パフの「つきしま村塾」というのは、いまから8年前、吉田松陰の松下村塾の精神にならって立ち上げた塾(というか少人数制のイベント)だった。松下村塾が、明治維新を成し遂げた若者たちを生み出したのと同じように、パフの「つきしま村塾」から日本を変えていく若者を生み出していきたいと考えていた。

そんな松下村塾。一度は訪問し、松陰先生(やっぱり先生と呼んでしまう)にご報告しなければ!と前々から思っていた。

駐車場の敷地をこえたところに自転車を置く。そして少し歩いたところに、松下村塾はあった。

004

 

 これだ!まさにこれが松下村塾なのだ!

その昔、高杉晋作や久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)が学んでいたという狭い(8畳間ほどの)座敷を、そのシーンを想像しながら、ずっと眺めていた。20歳前後の塾生たちは、寝る間も惜しんで勉学に、議論に励んでいたのだ。この国の行く末を、本気で憂えていた。誠を貫き通す精神を、この地で身につけていったのだ。 

 

006_2

 

 当時、吉田松陰は28歳。いまの僕よりも20歳も若い。抜群の行動力と抜群の頭脳と抜群の人格の持ち主であったのだろう。松陰先生は、決して何かを一方的に教えていたわけではない。塾生一人ひとりが潜在的に持っている能力を引き出し、顕在化させていった。そしてその能力が行動につながることの大切さを説いていったに違いない。

結局1時間以上を、この松陰神社で過ごした。

その後、あわてて萩市内を自転車で走り抜けた。藩校だった明倫館(いまは明倫館小学校となっている)も見ることができた。

#余談だが、明倫館は身分が上のものしか学べなかった学校。しかし、松下村塾は、身分の分け隔てなく、学びたいものは誰もが学べた。

萩。素朴で情緒のある城下町である。どうしてこの町から、日本を変えていく傑材たちが何人も生み出されていったのか。やっぱり吉田松陰という希代の教育者によるところのものが大きいんだろうなあ……。

 

11時40分のバスで、萩をあとにした。向かうは、愛媛県松山市。

この先は、また明日の日記で書くことにしよう。