幼いころを思い出してみる(5)
2014年11月4日 (火曜日)
人吉市(熊本)から湯布院町(大分)に引っ越したのは僕が6歳になる直前。1966年11月下旬だったと記憶している。
湯布院は、それまでの人吉とは比べ物にならないくらい寒かった。人吉はまだ秋だったのに、湯布院はすっかり冬。それまで見たことのなかった雪が舞っていたことを覚えている。
僕はまだこのとき幼稚園児だったわけだが、湯布院の幼稚園に通うことはなかった。単純に経済的な問題からだろう。朝から晩まで家の中に閉じこもっていた。昼間の話し相手といえば母親だけ。だから小学校に入学するまで、僕には友達が誰もいなかった。
だからだろうか。僕は小学校に入っても引っ込み思案で、いっしょに遊べる友達がいなかった。大分の方言がうまく喋れなかったことも大きい。熊本の言葉と大分の言葉では、イントネーションも含めて全然ちがう。まるで別の国の言葉のように感じたものだ。
家の中では、父も母も兄もみんな熊本弁を喋るものだから、大分弁習得にはかなりの時間を要した。この言葉の壁は存外に大きく、幼心に劣等感を抱いていたものだ。
授業参観や運動会などで母親が学校にやって来るときは特に憂鬱だった。母親は熊本弁で、あたり構わず大きな声で僕に喋りかけてくるからだ。周囲のお母さんたちとも熊本弁で喋りまくる。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、その場を逃げ出したくなったものだ。
そんな僕なのだが、小学校2年生にあがるころには、どうにかこうにか大分弁を喋れるようになっていた。友達も少しずつだが増えてきた。
「巨人の星」のテレビ放映が始まり、メキシコオリンピックが開催され、グループサウンズ(沢田研二のザ・タイガース、萩原健一のザ・テンプターズなど)が大流行したのもこの頃だった。
そういえばこの頃、超狭かったそれまでの長屋から、ほんの少し大きめ(といっても6畳二間+四畳半のお茶の間+三畳の納戸)の家に引っ越していた。風呂(しかも温泉)が家にあったことが何より嬉しかった。
そしてこの家には畑もあった。
母親は、この畑を耕しては、大根、ネギ、茄子、トマト、キュウリ、トウモロコシなどを育てていた。僕もよく畑の草むしりを手伝っていた。採れたての熟れたトマトや、不格好で馬鹿でかいキュウリがやたらと美味しかった。そういえば夏のおやつは、いつもトウモロコシだった。売るほどたくさん実っていた。よくもあんなにたくさん育てられたものだと、今思い出してみても感心する。
(次回あたりで最終回にしようかな)