パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第37話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


もう青年と呼ぶには、やや躊躇せねばならぬ年齢になっていた釘崎(元)青年はH社の社長室に呼ばれ、

「クギサキくんさ、最近インターネットの話題を、ちらほらと耳にするんだけど、インターネットで求人情報を提供するビジネスなんてどう?」

と尋ねられ、

「さ、さぁー、まだまだ世の中に受け入れられないんじゃないっすかね」

と、それじゃなくてもいろんな仕事を抱えてたいへんだったボクは、テキトーにその場をあしらっていました。

が、しかし、どうやらこの社長、本気でこの事業をやりたい様子。

「そんなことないんじゃない?まだ強力な競合がいない今だからこそ、やる価値があるんじゃない?」

ボクは、「さっすが経営者だなー」と正直感心したことを覚えています。

そして、

「しかし、来年ビジネスにするんだったら、97年春入社の就職活動に間に合わせないと丸々1年間を無駄にすることになりますよ。ということは、遅くとも今年の12月にはオープンしなきゃ」

さらに、

「ということはですよ、市場調査とか仕様の設計とか営業活動とか、いろいろ考えると大急ぎで始めないと間に合いませんよ!」

・・・などと余計なことを言ってしまいました。

  (あ、言っちまった。結局オレがやることになるんだよな……)

この予想は見事に的中し、

「うん、そうだね。クギサキくん、じゃあ早速このプロジェクトを進めてくれる? 一回目の企画会議いつやる? 2週間くらいあれば企画書は作れるよね?」

(なーにが「進めてくれる?」だよ。・・・ったく)

と思いつつも、そこはしがないサラリーマン。表面的には意気に感じたフリをして、

「は、はい、わかりました。いやー、なかなか面白そうですねー」

と言ったかどうかは定かではありませんが、なにしろ3~4ヶ月の間に、商品をひとつ作らなければならない。

しかも、今までまったく経験したことのないインターネットのメディア作り。紙メディアならばその昔「リクルートブック」をさんざん売り歩いた経験があるので、なんとかなるのでしょうが。

ボクは当時「インターネット」なるものの名前はかろうじて知っていたものの、いったいどういうシロモノであるのか、実はまったく分かっていませんでした。

翌日から本屋に行っては、インターネットと名の付くものがあれば片っ端から立ち読みする(ケチなのでなかなか買わない)生活が始まりました。

(まー、要するに紙の就職情報雑誌が、パソコンの画面上に展開されるわけだな。 あとは資料請求ハガキの代わりになる仕組みを考えて、検索性なんかも高める仕様にすれば何とかなるかな)

という感じで、できるだけシンプルに「インターネット求人情報メディア」の仕様作成と基本設計を進め、数か月後にはいくつかのプロトタイプも組みあがってきました。

季節はすでに1995年初夏。

Microsoft Windows 95の正式リリースを控え、個人へのパソコンの普及が広く進み始めた頃の出来事でした。

(最終回までまだまだ波乱がありそうですね。つづく)


 

このころ、僕も自宅でパソコンを買うことにしました。もちろん自腹です。IBMのAptivaというデスクトップ型のパソコンでした。

これですね👇

Windows 95がリリースされる前のWindows 3.1という使い勝手の悪かったOS。パソコン付属のモデムと自宅の電話線を繋いで、ピーガーガーガーと苦労しながらインターネットに接続していたものです。

なっつかしいですねー( ^)o(^ )

さて、本日は朝10時半から夕方の18時前までぶっつづけの会議。

Fネット(ふるさと就職応援ネットワーク)の第12期総会と第13期第一回定例会なのであります。

では、朝食&エール再放送後、準備します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第36話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


H社に入社し、ボクは約7年ぶりに人事を対象とした仕事に携わることになりました。

当時のH社は、適性検査の企画・開発・販売を細々と行うだけの会社で、社員も心理学の先生を含めて3名のみ。同居している兄弟会社のR社は100名ほどの所帯でしたから、ほんとに小さなひとつの「課」みたいなものでした。

でもそんな小さな会社とはいえ、取引先企業は100社を越えており、売上げや利益もなかなか底堅く、やり方によっては大きく成長する可能性を持った会社でした。

結局ボクは、この会社で29才~37才までの足かけ8年間を過ごすことになるのですが、この間、様々な人事向けの営業と商品開発に携わりました。

 

まず最初に手がけたのが「人事情報システム」の企画・開発でした。

従業員の様々な属性管理、履歴管理をパソコンで簡単に行うためのシステムなのですが、当時はオフコン(オフィスコンピュータ)や大型コンピュータ用の高価なものしかなく、わがH社が開発したパソコンベースのシステムは世の中に広く受け入れられました。

この商品を拡販するために、僕は毎週1回の頻度でセミナーを開催していました。場所は会社の会議室で、1回あたり5名も参加すれば満員御礼になるような狭いスペースなのですが、わざわざ来社された方々は導入意欲も高く、契約率100%につながることもしばしばでした。

パイロットや整備士を管理するシステムとして、大手航空会社のZ社に(カスタマイズ費用も含めて)かなりの高額で導入されたこともありました。

当時のセミナーに参加した、とある大企業の担当者(当時は人事課長)はのちのち大出世して社長になり、後年パフの大きな取引先になったりもしています(2020年8月補筆)。

売れている反面バグも多いシステムで、企画と営業の最前線にいたボクは、ずいぶんと胃の痛い思いもしましたが、自分が生み出した商品でもあり、いまでも思い出深く、愛着のあるシステムです。

 

次に手がけたのが「基礎能力検査」です。

SPIのことは皆さんよくご存じだと思いますが、そのSPIの基礎能力測定部分と競合する商品です。この検査ではさらに、時事問題などの一般常識や英語能力なども組み合わせた、採用時の入社テストとして企画開発を進めました。

ボクが出題内容を考えていた訳ではなかったのですが(作問は外部の専門家に委託していました)、全体の設計やコンピュータシステムの構築、営業のためのカタログ作り、出題内容のチェック、商品化前の予備検査の実施等々、相当に知力と体力を使う仕事でしたが、30代前半だったこともあり、どうにかこうにかやれた仕事でした。

 

そして1995年の初春。ボクが34才の時です。H社の社長は僕を突然、社長室に呼びつけました。

「クギサキくんさ、最近インターネットの話題を、ちらほらと耳にするんだけど、インターネットで求人情報を提供するビジネスなんてどう?」

社長は、ボクにこう尋ねました。

ボクは正直に言うとインターネットなるしろものを、この時まで全然理解しておらず、

「さ、さぁー、まだまだ世の中に受け入れられないんじゃないっすかね」

と、消極的な答えをするのみでしたが、まさかこの話が後に急展開し、ボクの後々の人生をも変えてしまうとは、この時は想像だにしていませんでした。

(やっと最終回が見えてきたぞ。つづく)


 

バブルが崩壊して景気が後退していく時代だったのですが、ダウンサイジングの波が後押ししてくれたのか、このとき手掛けた人事情報システムも基礎能力検査も、まずまずのヒット商品になっていきました。

上にも「補筆」として書き加えましたが、現在パフの大きな取引先となっているK社の社長(昨年引退して相談役に就任されました)との出会いもこのころ。激務の日々でしたが、真面目に仕事をしててよかったなと思います( ^)o(^ )。

さて、本日は在宅で富山在住の会計士とオンラインで繋ぎながらの仕事です。あ、そして夜はライブの合同練習で出社でしたね。仕事は家で、趣味は会社でって変な感じです(笑)。

では、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第35話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1990年7月某日。

その日ボクは、B-ingに求人広告を出していたソフトメーカーR社を訪れていました。

R社はパソコンのデータベースソフトの分野では国内老舗の会社で、曲がりなりにもSEを経験していたボクにとっては、ある種、親しみを覚える会社でした。

R社は、渋谷の宮益坂の途中(渋谷中央郵便局のすぐ隣)の立派なビルに入居していました。

社員が働いているフロアも覗かせてもらいましたが、若い社員が多く、一人に一台のパソコンが割り当てられているのには驚きました。

ちなみにボクがいたS社やM社では、パソコンやワープロを使うのは交替制で順番待ち。コンピュータを扱う会社だったにもかかわらず、です。でも、当時はそれが普通だったんですよね。

面接で通されたのは10人くらい入れそうな広い会議室。妙にフレンドリーな人事部長がやってきて、面接兼会社の説明を30分ほどやっていただきました。

「あ、釘崎さん、今日まだ大丈夫?ちょっとこのまま待っててもらえますか?」

人事部長はそう言って部屋を出ていきました。

しばらくして、少年の面影を残した小柄な人物が、人事部長とともに入室してきました 。

(ん?この人、見たことあるぞ。あ、もしやこの会社の社長では?)

一瞬の推測は当たっていたようで、「あ、釘崎さん、当社の社長のKです。いまちょうど社内にいたので、せっかくなので会ってもらおうと思って連れてきました」と人事部長。

初回から社長に会わすなんて、随分とせっかちな会社だなー、と思いつつもそれだけ評価されたのかな?とまんざらでもない気分でした。

ボク「どうも初めまして、釘崎と申します」

K社長「あ、どもども」

しばらく雑談が続いていましたが、K社長は僕が出した経歴書を読みながら・・・

「へー、釘崎クンは、リクルートで営業マンをやってたんですね。 あ、その後は採用担当者もやってたんですかー、へー、ほー」

ボク 「あ、い、いや、でも、一応はコンピュータ関係が一番長いんですけど……」

(しまった!リクルートでの営業や採用の職務経験なんて書いて来なきゃよかった。ソフトメーカーのR社には何の役にも立たないだろうに)

・・・と、内心思ったのですが、次のK社長の言葉にびっくり。

K社長「実はね、うちの別会社に、といっても部署みたいなものだけど、人事・採用領域に特化した会社があるんですよ。いまは適性検査の開発と販売が中心なんだけど、この会社の立ち上げを釘崎クン手伝ってくれない?」

ボク 「は?」

ずいぶんと気の早い社長です。今日初めて会った男に(しかもまだ人事面接の途中だっていうのに)「立ち上げを手伝ってくれない?」とは。

しかし、まさかソフトメーカーのR社が人材ビジネスをやっていただなんて。少し、いや正直なところ、かなり興味が湧いていました。

ボク「あのう、詳しく話を聞かせていただけますか?」

その後は、トントン拍子に話が進んでいき、7月末、そのR社の兄弟会社H社に入社することが決まったのでした(R社、H社ともにK社長がオーナーで、両社には資本関係はありませんでした)。

偶然にも再び巡り会った人材に関する仕事。釘崎青年29歳の夏の出来事でした。

(へー、それは縁ですね。つづく)


 

この時代のパソコンソフト(当時は「パッケージソフト」と呼ばれていました)は、ずいぶんと高額なものでした。

R社が開発販売していたカード型データベースソフト(国内でTOPクラスのシェアでした)は、パソコン1台当たり3万円~5万円ほど。厳重なコピーガードが施されたフロッピーディスクと分厚いマニュアルが化粧箱に梱包された有難みのある製品でした。

1980年代後半からのパソコン需要は急速に伸びていたことから、R社はかなり儲かっていたんじゃないかと思います。

余談ですが、国内のほぼすべてのパッケージソフトの流通を牛耳っていたのがソフトバンク。インターネットも携帯もなかったこの時代、ソフトバンクの業態も現在とはまったく異なっていたんですよね。あー懐かしい(#^^#)。

さて、本日僕は朝から在宅勤務です。そして夜は外での真面目な仕事の打ち合わせ。打ち合わせ場所となるお店を参加メンバー4人だけで貸切ってしまいました。贅沢ですね(‘_’)。

では朝食はもう食べたので、仕事を継続します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第34話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1990年5月。

社会に出て7年目。それまでにもいろんな壁や困難な状況はありましたが、この時ほど「得体の知れない焦燥感」に苛まれた日々はありませんでした。

「と、とにかく、この場所を離れなきゃ!」

そう考え、当時の直属の上司であった部長に辞表を提出し、少しは気が楽になるかと思いきや、今度は自分の将来に対する「得体の知れない恐怖感」に襲われるようになったのです。

この「得体の知れない焦燥感」や「得体の知れない恐怖感」ほどやっかいなものはなく、底なしの沼に吸い込まれるような日々でした。

一方で、辞表を受け取ったM社の役員クラスの方々は毎日のようにボクをお茶やランチに誘ってくださり、とても熱心な慰留をしてくださいました。

M社の実質的なトップからは、高級な料亭で「頼むから辞めないでほしい」との丁寧な説得をされ、「こんなダメな若輩者にそこまで期待してくださっていたのか……」と、正直言って相当に心が揺れました。

しかし、会社に残って働く自分の将来の姿がどうしても想像できない。様々な心の葛藤を経て、やはり自分は辞めるしかない、と決意し、「当てのない転職活動」を開始することにしたのです。

S社からM社への転職経験を持つボクでしたが、その時はスカウトだったため自分で履歴書すら書いた経験がなく、実質的に今回が生まれて初めての転職活動でした。

会社(M社)には、引継が終了する1ヶ月後を退職日として宣言していたため、30日以内に次の会社を決めないと「プー太郎」になってしまいます。

リクルート時代やS社で採用担当をやっていた時は、偉そうに「就職」について語っていたくせに、いざ自分の就職になるとからっきしダメで、なかなか自分にとって相応しい会社を探し出すことができずにいました。

なかなか「これ!」といった会社が見つからず、途方に暮れていたある日、書店で買った就職情報誌(B-ing)を読んでいると、とあるソフトメーカーの求人広告が目に飛び込んできました。

F-1のレーシングカーをあしらったその広告。なぜか親しみを覚え、受けてみようかな…という気持ちになったのでした。

季節はもう初夏。釘崎青年は汗を書きながら履歴書と職務経歴書をまとめはじめていました。

(がんばれ転職活動!…つづく)


いやー釘崎青年、悩んでますね(苦笑)。

ところで僕が読んでいた「B-ing」という就職情報誌、僕がアルバイトをしていたリクルートが発刊していたメディアです。1975年に「週刊就職情報」という名前で創刊されたもので、僕も売ったり原稿を書いたりしたことが何度もありました。

雑誌名を「B-ing」にしたのは1988年。技術者専門の就職情報誌「ベルーフ」と統合してこの名前になりました。コンピュータに携わりつつも営業や企画を志向していた僕にとって、ありがたい情報誌だったわけです。

当時のリクルートの就職情報誌は、こうやって多くの人々の人生に多大な影響を与えていました。読者になってみて、そのことをあらためて感じた30年前の釘崎青年でした。

 

さて、お盆休みも終わって、今日から世の中はビジネス再開モードですね。

僕も今日は久々の出社。1億円の商談をするのであります( ^)o(^ )。

では、朝食&エール再放送後、行ってきます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第33話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


時はすでに1990年。

リクルートでの売れない営業マンを皮切りに、ベンチャー企業での人事担当者、 システム経験ゼロのニセSE、大手コンピュータメーカーでの販売推進プロジェクト…。

さまざまな職を渡り歩いてきた釘崎青年も、ついに30歳を迎える年になっていました。

30歳になるまであと半年ほどとなった1990年4月。 それまで自分が歩んできた道を振り返り、そして、今の自分を見つめ、「いったいオレはこの先、どう生きていきたいんだろう…」と、自問自答することが、やけに多くなっていました。

なぜか?

直前の1年間は、大手コンピュータメーカーF社で多忙ながらも充実した時を過ごしていたものの、そのプロジェクトが3月で解散。ボクはもともとの転職先であった系列のディーラーM社に籍を移していました。

M社の職場環境はそれまでのF社の環境とは全然違っており、周囲から聞こえてくるのは、会社や上司や経営者や取引先への悪口、F社への愚痴、そしてため息ばかり……。

考えてみれば1年前、このM社に転職をしたものの実際に働いていた場所はメーカーであるF社。1年後のこの時、なんだかまた別の会社に転職してきた感覚でした。

それまでの職場とは180度ちがう環境とカルチャーに、居心地の悪さを感じてしまう毎日。そして、だんだん自分の気持ちも萎えて、腐りはじめてきたことに気づきました。

「オレはいったい何のために、1年前S社を裏切るように辞めてきたんだろう」

「オレはこの会社で、自分の自分らしい道を見つけられるのか?」

「おいクギサキ、お前はもうすぐ30歳だぞ。どうするんだ?」

と、自分を追い込むようなことばかり考えるようになってしまったわけなのです。

そして、

「まずは、この場所を離れなきゃダメだ!」

と、当てなどなにもないにもかかわらず、半ば衝動的に辞表を提出してしまったのでありました。

(そんな!随分と短絡思考じゃない?…つづく)


 

このときの僕は、ネガティブ思考のほんとダメなサラリーマン野郎でした。そんなネガティブな自分が嫌で嫌でたまらなかった時期でした。

それを会社のせいにして辞表を出してしまうなんて心底ダメな奴なんですが、でも、このときのこの短絡的な思考と行動がなければ、後々パフを創業することもなかったわけで……。人生とは、キャリアとは、まことに不思議なものですね。

さて、本日から3日間は個人的にお盆休みをいただきます。

といってもどこかに出かけるわけではなく、ずっと家に籠ってインプットに励もうと思っています。

では、朝食&エール再放送後、まずは読みたかった本を読みます!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第32話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1989年4月。

東京駅丸の内北口を出てすぐのところにあった大手コンピュータメーカーF社本社ビルの10Fに、ボクの席が用意されていました。

米国S社のUNIXワークステーションを、F社ブランドの商品としていかにユーザーに拡販し根付かせていくか。

それが、ぼくの配属された「Sプロジェクト」に課せられた大きなミッションでした。

当時のF社は汎用機(大型コンピュータ)には強いものの、パソコンやオープンプラットホームであるUNIXワークステーションについては製品ラインアップに乏しいばかりか、営業ノウハウもほとんどない状況だったのです。

Sプロジェクトは、このワークステーションを売るための施策づくり、例えば各種販促イベントの企画・運営や、バンドルソフトを提供してくれるソフトウェア会社の開拓・契約、全国津々浦々の現場営業マンへの教育やユーザーへの同行訪問、プレゼンテーションを含めた直接サポート等々。とにかく1台でも多くのワークステーションを売る(正確には現場の営業マンに売ってもらう)ためのことなら何でもやるセクションだったのです。

ボクにとってはまったく未知の分野だったのですが、なにしろ日本を代表するコンピュータメーカーの今後を占う重要な仕事であり、また日本全国を飛び回る仕事でもあったため、日々忙しくも充実した毎日を過ごしていました。

札幌、仙台、新潟、金沢、長野、名古屋、京都、大阪、奈良、和歌山、広島、山口、四国、福岡。

覚えているだけでも、これだけの地域を営業サポートやイベントで飛び回っていたのですが、何といっても楽しみだったのは、現地の営業マンと繰り出す夜の街。当時はまさにバブル全盛期で、コンピュータメーカーの営業マンは相当な接待予算を持っていたんですね。各地でかなりの飲み食いをさせていただいたものです。

今でも記憶に残っているのが、これは地方ではなく東京の夜の出来事ですが、銀座の高級寿司屋で「えいちゃん」、そう、あの矢沢永吉さんと一緒に寿司をつまみながら飲んだことです。カウンターで偶然隣り合わせになっただけなんですが、恐れを知らなかったボクは「あれ?矢沢さんですか?」と気軽に声をかけ、先方も気さく会話に応じてくれて、帰りにはワイシャツの背中にサインまでしてもらったりして……。後々考えるとすごい体験でしたね。

ともあれ、仕事も遊びも非常に刺激的で、貴重な経験をした1年間でした。

しかし、そんなバブリーな日々はいつまでも続くわけもなく、1年後、Sプロジェクトも解散の日を迎え、ボクは出向元のディーラーに帰ることになったのでした。

そして、そこで大きな壁にぶつかることになったのです。

(どんな壁?…つづく)


 

このときのプロジェクトメンバーの何人かとは今でも年賀状のやりとりをしています。すでに定年退職を迎えられた方もいらっしゃいます。最年少だった新入社員ももう50代半ば。ずいぶんと昔の話になってしまいました。

当時はみんな20代で、いつも週末になると(たとえば事務所に出入りしていた生保レディーを誘って)合コンしたり、朝まで飲んで騒いだり……。バブルだったし。いま思い出しても楽しい日々でした。

さて、この物語もいいよ後半戦、20話を残すのみとなってきました。9月中旬にはなんとか終えられそうですね。よかったよかった。

では、朝食&エール再放送後、午前中は在宅で仕事します!

 

20年前(2000年7月から約1年間)、メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第31話です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1989年3月。釘崎青年28才の春間近。

某人材スカウト会社からの紹介がきっかけで、大手コンピュータメーカーF社傘下のディーラーM社に転職することになったのです。

リクルートを離れて以来、丸5年間お世話になったS社との別れは、正直言って相当に辛いものでした。S社の社長に対して、会社を辞めたい旨を告げたときには本当に申し訳なく胸が締め付けられる思いでした。

しかし一方で、ボクにはS社の組織作りや業績向上に大きく貢献してきたという(いま振り返ればたいへんに思い上がった)自負があり、「ここまでやったんだから、もう十分だろう」という思いから 「どんなに引き留められても絶対辞める。辞めるのは今しかない」という強い意志を持っていたのも事実であり、いろいろと悶着はあったものの最終的に社長に辞意を受け入れてもらうことが出来ました。

しかし社長に対してよりも、もっと辛かったのはボクが自ら採用してきたS社の後輩たちへの告白の時でした。

たいへん自分勝手なことだとは承知しつつも、後輩たちには自分が辞めることによる動揺をなんとか最小限に食い止めなければと、転職を決意するに至った経緯や心情を時間をかけて説明しました。

「釘崎さん、オレたちのことは全然気にしなくて構いませんから、どうか新しい会社でがんばってください!!」

後輩たちからこんな風に励まされたものですから、嬉しいやら、申し訳ないやら、切ないやら……。本当に辛かったですね。

そして、S社での最終勤務日。取引先の方々や、遠方に出張したり他社に出向していた同僚・先輩・後輩たちから「ご苦労さんでした」の電話が夕方以降、何本も何本もかかってきて、感極まって思わず泣いてしまったことを覚えています。

そして1989年4月。

世はまさにバブルのころ(当時の僕は貧乏な暮らしをしていたので、そんな感覚は一切ありませんでしたが)、転職先のM社での仕事が始まりました。

正確にはM社を経由して、ボクはコンピュータメーカーF社の丸の内の本社で、OEM供給を受けたUNIXワークステーションの販売支援の為の「Sプロジェクト」に投入されたのでした。

生まれて初めて経験する従業員数万人の大組織での仕事。好景気が続く中での、超多忙だけどバブリーな毎日。

リクルート時代でも経験したことのなかった、様々な刺激的な日々が待っていたのです。

(どんな刺激?…つづく)


 

当時の僕には有給休暇などという概念はなく、入社してからの5年間で休暇を取ったのは新婚旅行(いちおう行きました苦笑)のときくらいでした。

なので退職時には、繰り越し分も含めて20日以上の未消化有給休暇があったはずです。

ふつう退職時にはその未消化分を取得したうえで退職日とするのでしょうが、僕は1日も間を空けることなく(それどころか退職日の夜9時過ぎまで残務を仕上げたうえで)翌日から転職先に出社したのでした。なんて経営者にとって都合のいい社員だったのでしょうか(笑)。

 

さて、きょうは朝から暑いですね。日中は36℃まで気温が上がるそうです。きょうから内定者インターンシップが始まるので(僕も教育担当を命令されているので)出社せねばなりません。さすがに徒歩通勤は危険かな💦

では、麦わら帽子でも被って行ってきます!