新・パフの創業物語<第2話> 「ゆふいん」
2020年5月11日 (月曜日)
20年前(2000年7月から約1年間)メルマガで連載していた自伝(自虐?)のコラムを不定期で再掲しています。きょうは第2話です。
※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。また当時の写真やイメージ画像等を追加で掲載しています。
大分県の観光都市別府から、車で山道をクネクネと1時間ほど走り続けると 狭霧の彼方に、情緒豊かな盆地風景が広がってきます。
この地こそが、僕が小学校~中学校の少年期を過ごした「湯布院町」なのです。
熊本の人吉温泉で板前をやっていた父は、昭和41年11月下旬に、勤め先の旅館を変えるために、一家を引き連れて、この湯布院に引っ越してきたのです。
当時、僕は幼稚園児。当然、湯布院の幼稚園に通うんだろうなと思っていたのですが、小学校入学まで間もないということで、「わざわざ通わんでもよかたい!」という親の非情な判断で、あまり聞かない「幼稚園中退」という悲しい学歴を僕は背負うことになりました…(当時の僕には自覚がありませんでしたが、我が家は相当に貧乏でした)。
ともあれ、小学校入学までの数ヶ月間、僕はプータロウ状態。
友達が誰ひとりとしていない、孤独な6歳の冬を迎えることになった訳です。
湯布院は標高が500メートルほどの高地で、九州とはいえども、ものすごく寒いところなのです。特に湯布院に移り住んだこの年は、12月から連日雪が降っていたのを覚えています。
湯布院には、由布岳という実にきれいな山があります。標高1,583メートル。阿蘇九重連峰のひとつなのですが、その美しさゆえ「豊後富士」と呼ばれていたほどの山です。
現在の由布院小学校から望む由布岳
この由布岳が雪化粧につつまれた景色は、幼かった僕の目にも焼きついており、「幼稚園には行けないけどいいところに引っ越してきたんだな…」と感じさせてくれたものです。
ところで、僕には5歳年上の兄がいて、当時彼は小学校5年生。兄はさすがに小学校中退というわけにも行かず、引っ越し後すぐに学校(由布院小学校)に通い始めていました。
その兄が学校から帰ってきて次のようなことを言っていたのをよく覚えています。
「湯布院はな、言葉が熊本とはぜんぜん違うとバイ」「熊本の言葉で友達にしゃべってもな、なーんもわからんとバイ」「なんかな、みんな喧嘩ばしようごたるとよー」「よーしゃべりきらんバイ」
数ヵ月後、兄と同じ由布院小学校に入学することになった僕は、その言葉の違いに散々悩むことになるのでした。
(つづく)
ということで、本日は「新・パフの創業物語」第2話でした。次回はいつなんでしょうね。案外明日だったりして(笑)。
さて、本日は晴天。東京の気温は30℃まで上がるそうです。では、朝食&エール後、ポロシャツ姿のウォーキングで行ってきます!
本日は第24期5月度キックオフ会議
2020年5月8日 (金曜日)
GW明け2日めの本日は、午前10時からパフ第24期5月度キックオフ会議が開催されます。
月に一度のキックオフ会議。たぶんヨシカワさんたち新卒一期生が入社したころから、ずーーっとやり続けているのではないかと思います。一度も欠かさずに。
この会議には全社員が参加して、各グループ&プロジェクトの最新状況が報告されます。誰が何をしていてどんな状況なのかを全社員で共有できる大切な時間です。
僕からは冒頭に、前月末までの数字を暫定的に締めたPL(損益)と業績見通しを発表するようにしています。
そんな大事な会議なのですが、本日は史上初めてのオンライン開催となりました。
先月(4月度のキックオフ)は、入社式と併せての開催だったので、オンラインとオフラインのハイブリッド形式でしたが、今回は完全オンライン。会社に出社していても手元のPCから参加することになっています。
全25名の参加になるのかな?
名古屋にいる社外取締役にも参加してもらえるでしょうから26名かな?
あ、そういえば、パフの新卒採用で最終選考段階まで進んでいる3名の学生もゲスト参加するって言ってましたね。
そうすると29名、僕を含めるとちょうど30名かな?
30人が画面にずらっと並ぶとどんな感じなんでしょうね。ちょっと楽しみです。
今期も残り2か月となりました。コロナなんかに負けず、どんな環境になろうとも最後まで走り切りたいですね。
では、業績数字をまとめたうえで行ってきます!
たくさん歩いた令和2年のGW
2020年5月7日 (木曜日)
令和になって丸1年が過ぎました。
昨年のGWは何をやってたのかなと振り返ってみたら、そうか、昨年の令和初日は皇居ランをしていたのでした。
そして昨年の今頃はよく隅田川テラスを走っていました。日記にも連日のように走っているときの風景を載せていました。
なんだか随分と昔の出来事のような気がします。
で、今年のGW。ランは(マスクをしながら走ると呼吸困難で死にそうなので)自粛。
でも、それじゃあまりに運動不足になってしまうので、たくさん歩きました。ボーっと音楽を聴きながら。
走るのもいいですが、のんびりと歩くのもいいものです。
僕の自宅は中央区日本橋の端っこ。隅田川沿いを30分ほど川上に向かって歩くと浅草に着きます。
そして隅田川を渡って川下の方に歩いていくと、墨田区や江東区です。
永代橋付近には、渋沢栄一の本宅跡地があります。
すぐそばには、佐久間象山の砲術塾の跡地もあったりします。
坂本龍馬や吉田松陰も、この地で学んでいたんですよね。
この時代も、いま以上に激動、激変の時代だったんだよなあと思いながら、しばし立ち止まって物思いに耽ってしまいました。
このGWはもちろん歩いていただけではなく、映画やテレビもたくさん観ました。自宅のリビングの大型テレビで、amazon、Paravi、Huluに繋いでの観賞でしたが、なかなか優雅なものでした。
そして自室の書斎では、Zoom飲み会を連日やったりもしていました。
散歩するのも、自宅でテレビを見るのも、オンラインの飲み会も、これはこれで楽しかったわけなのですが、でもやっぱり外に出て、思いっきり走ったり、飲んだりしたいですよね。映画はやっぱり映画館で観るのがいですよね。
早いところそんな休日が訪れてほしいものです。
さて、本日は久々に会社に行って仕事をしようと思います。ハンコを押さなきゃいけない書類もあるし、郵便受けもチェックしないといけませんからね。
天気もいいことだし、歩いていきましょうか。
では、まずは朝食&エール後、行ってきます!
新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」
2020年5月1日 (金曜日)
本日から時々(日記ネタがない時とかw)昔のメルマガで連載していた「パフの創業物語」を再掲していきます。
いまから20年前の西暦2000年7月から約1年間、週いちで連載していた物語です。
原則として昔の原文をコピペして載せますが、誤って載せてしまった事実、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は修正していきます。付け加えたいエピソードなんかもあれば書き加えていきたいと思います。
昭和35年11月30日。これがパフの創業者、釘崎清秀がこの世に命を授かった日であります。
熊本県八代郡坂本村(現在は八代市と合併)の「鶴の湯」という木造3階建ての旅館で、産婆さんの手によって取りあげてもらったらしいです。
この旅館は、母の実家であり、板前をやっていた父は、この旅館で調理の手ほどきをしていたことが、僕の両親が結婚するきっかけだったとのことでした。
この母の実家の旅館で暮らしていたのは3歳くらいまで。その後は父の実家にほどちかい日奈久というところに移り住みました。トイレ共同のオンボロ長屋でした。お風呂なんてもちろんありません。
当時、日奈久の街には馬車が走っており、馬の糞が道に転がっていたことと、名産だった「ちくわ」を人差し指に突っ込んで、おやつとして、よく食べていたことを覚 えています。
僕の記憶があるのは、4歳の誕生日を迎えるあたりから。昭和39年(1964年)の秋からです。
👆唯一残っている4歳前後のころの写真
このころの一番の思いでは、なんといっても昭和39年10月10日から始まった「東京オリンピック」。正確には3歳10ヶ月のころなのですが、よく覚えています。
「パーン、パーパパパーン、パーンパパパパパパパパパーン…」という、幼心にも「何かスゴイことがはじまるのかな・・・」とすごくワクワクさせるようなファンファーレの音は、ずっと脳裏に染み込んでいます。
5歳からは父の仕事(旅館の雇われ板前です)の関係で、同じ熊本の人吉というところに移り住みました。幼稚園は、この人吉の「青井幼稚園」というところに普通の乗り合いバスで通園していました。
今はバスというとワンマンで、100円玉を機械に入れて乗り込む無味乾燥な乗り物なのですが、当時のバスには黒いバッグを抱えた車掌さん(記憶にあるのは必ずキレイなお姉さん)が同乗しており、「発車オーライ!」という明るいかけ声とともに走り出す、実に楽しい乗り物でした。
若くてキレイな車掌さんの「おはよう!(ニコっ)」という清々しい挨拶と、堅い厚紙の切符をハサミでパチッと切る凛々しい姿には、たいへん憧れたものです。
この頃から、記憶がはっきりしており、自分の行動やその時の感情等もある程度正確にお伝えできそうです。
この頃大好きだったテレビは「ウルトラQ」そしてその後番組だった「ウルトラマン」です。あと、「オバケのQ太郎」も好きでした。
「ウルトラマン」も「オバケのQ太郎」も日曜の夜のテレビだったんですが、これを見終わると「青春とはなんだ!」という青春ドラマをよく観ていました。
このころのテレビは白黒テレビで、映りも相当に悪かったはずなのですが、僕はかなりの「テレビっ子」で日曜日は朝から晩までテレビばかり。藤田まことの「てなもんや二刀流」とか、アニメでは、「ジャングル大帝」、「鉄腕アトム」、「鉄人28号」、 「宇宙少年ソラン」、「スーパージェッター」、「エイトマン」……。それから「ひょっこりひょうたん島」もこの頃、NHKで毎日放映されていた人形劇でした。
考えてみれば、僕の5歳前後の1960年代中頃というのは非常にレベルの高いテレビ名作が多かった時期だと思います。
そう、「ビートルズ」が日本に来たのもこのころ(1966年)でした。パフの社名の由来になっているPPM(ピーター・ポール&マリー)のヒット曲「Puff」も、実はこの頃リリースされた唄なんです。
(つづく)
てなわけで、「新・パフの創業物語」第1話でした。先はまだ長いですねw。
ところで、明日からGWに突入なので「釘さん日記」もお休みです。このお休みの期間に創業物語も書き溜めておくことにしましょうか。
では、そろそろ(きょうは在宅勤務なので自宅書斎で)仕事に取り掛かります!