パフ代表の徒然ブログ「釘さん日記」

さて、5月からリライト・再掲しはじめた「新・パフ創業物語」も今週で最終章を迎えました。

先週は「番外編」と称して、ちょっと寄り道をしましたが、本日からまた本編に戻っての再開です。

本編の前回(第46話 )は、若手起業家の支援をしているKさんから500万円の出資を得たところで終わっています。

本日はこの続きの第47話「社名はどうするんだ!?」です。

※第1話はこちら⇒新・パフの創業物語<第1話> 「最初の出会いは産婆さん?」

※原則として昔の原文のままですが、事実とは異なっていた内容、誤字も含めての不適切な表現、「てにをは」のおかしな個所は、修正しています。

※文中にある「今」の内容は、すべて執筆したとき(西暦2000年当時)のものです。


1997年11月初旬。

会社の設立日をいつにするか?

大株主のKさんにも相談したところ「1日でも早い方がよい」と言われました。

ボクも会社を作ると決心した以上、いまの会社の仕事をなるだけ早く引き継ぎ、スッキリしたいという気持ちになっていました。

いろいろ考えたあげく、設立日(銀行への資本金払い込みの翌日で法務局への登記日)は、「イッチニイッチニ」の12月12日にしよう!と考えたのでした。

当時ボクがサラリーマンとして仕えていたH社の社長にも、12月いっぱいで会社辞めて、新しく会社を作りたい旨を話しました。

H社の社長も若いころ、リスク覚悟で大企業からスピンアウトした人なので、ボクの独立には十分理解を示してくださり、結果的には同意してくれたのでした。

心配された資本金も、どうにかこうにか1,000万円調達のゴールが見えてきていたのですが、実はもうひとつ先送りにしていた問題が残されたままでした。

それは「社名」です。

ふつう会社を作ろうなどという奴は、最初から社名を考えているものでしょうが、ボクの場合、まったくのノーアイディア。

会社設立に向けて、定款だとか発起人議事録だとか株式申込証だとか、実に様々な書類を作らなければならないのですが、すべてにおいて社名は当然必要となります。

社名が決まらないと、それら書類に押す会社の実印すら作れない。書類作成期限までさほど猶予がないというのに、「これだ!」という社名が浮かばない。

ぜんぜん案がなかったかというとそうでもなくて、いま思い出しただけでも恥ずかしくなるような変な社名は、頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かびしていました。しかし、これといったものがなく、ちょっとしたスランプに陥っていたのです。

「社名も考えつかないなんてなー。オレ本当にやる気あんのかな……」

そう思いながら、夜、ひとりで地下鉄(丸の内線でした)に乗りこんだボクのあたまの中に、ある名曲が突然流れてきたのです。

♪Puff the magic dragon lived by the sea, and frolicked in the autumn mist in a land called Honahlee…

1960年代、アメリカの3人組のフォークシンガー、P.P.M(ピーター・ポール&マリー)が唄った、その名も「Puff(パフ)」という曲でした。

「Puff」とは歌に登場する主人公。子どもたちが大好きで、いつも一緒に遊んだり冒険に出かけたりする「魔法の竜」の名前だったんです。

どうしてこんな歌が突然浮かんできたのか?

原因は不明なのですが、ともかくもその時のボクは目から鱗が落ちたように、

「そうかー。『パフ』っていうのも悪くないな。魔法の竜ということは、いままで運営してきた『登龍門』にも通ずるところがあるしな。若い学生相手の仕事だし。なんだか夢があるし。おまけに短い社名だから、印鑑を作るお金も安くて済む。そして何より覚えてもらいやすい!」

もはや、もうこの社名しかない!という勢いで、自分の気持ちを固めつつありました。

帰宅して、カミさんと娘に社名の報告。このときの娘は幼いながら、ボクが独立して会社を作る、ということを理解していたようです。

ボク「決まったよ!社名」

 娘「え?何にするのー♪」

ボク「パフ」

 娘「パフ?なにそれ?パフやだ、パフやだー!」

ボク「えー、そんなこと言うなよー!もう決めたの!」

という、思わぬ身内からの反対はあったものの、他の支援者のみなさんの評判は概ね良好で、新会社の社名は 『 パフ 』 ということで、様々な書類作り及び印鑑の発注が始まったのでした。

さーて、あとは……。

あー!オフィスどうしよう?机も椅子も必要だし!!

( キミキミ!事務所も決まってないの?つづく)


講演会などで「パフの社名の由来」を説明するとき「若者の社会への巣立ちを喜ぶ、強くて優しいパフのような魔法の竜になりたくて・・・」などとそれっぽいことを語っていますが、真実は上に書いてある通りなのでした。

とはいえ、この社名はとても気に入っています。

それまで「パフ」という唄はカラオケでも歌ったことがなかったのですが、社名にした以上はちゃんと覚えなきゃ、ということでCDを慌てて買ったりもしました。

来週末に開催する「社長引退記念ライブ」でも歌うつもりです。ぜひ皆さんも聴いてやってくださいね(^^♪

さて、本日は朝イチで会社です。ホントは朝からスタジオを借りて練習するはずだったのですが……。

では、朝食&今日から再スタートするエール後、行ってきます!

 

今週は、創業物語<番外編>として、創業時の株主で、とくにパフの若い社員たちにも知っておいてほしい方々のことを紹介してきました。今回はその締め括りとして「仙台の志田かっちゃん」をご紹介します。昨日の「仙台の菅原さん」の続編「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第75を再掲してご紹介します。


 「求人サイト『登龍門』で出会った人々(その5)」 2006/05/22

前回のコラムで、メディアバンクが東北・仙台で開催した学生向けイベントのことを書いた。もう10年以上前のことである。前回も書いたが、このイベントに招いていただいたことで僕は、かけがえのない出会いを得ることになる。

このイベントには、地元(東北地方)の30社ほどの企業が出展していたのだが、気になる会社がその中に1社あった。

数週間前に『登龍門』に掲載を申し込んでくれた「サイデック株式会社」という会社だ。

仙台に本社を置く会社で、電子部品や精密機器の包装資材を供給しているメー カーだ。国内のいくつもの大手電機メーカーが取引先で、この分野では大きな 影響力を有している会社である。

「へー、サイデックさんも出展してるんだ。あとでご挨拶させてもらうとするかな」

イベントの全プログラム終了後、出展企業同士の情報交換を兼ねた懇親会が開かれた。

ビールでの乾杯後、サイデックの担当者を探すことにした。会場で遠目に見て チェックしていたのだが、とても体格のいい人だったので、苦労することなく探し出すことができた。

「あのー、サイデックさんですよね? 私、登龍門の運営責任者のクギサキと申します。先日は掲載をお申込みいただきまして、ありがとうございました」

「え、クギサキさんですか!ぜひお会いしたいと思ってましたー!!」

こんな感じで名刺交換をし、二人の初めての会話は始まった。

もらった名刺を見てびっくりした。「常務取締役」と書いてある。常務といえば、会社の重鎮である。ナンバー2とか3のポジションだ。

名前は、志田雄彦(しだかつひこ)さん。常務という役職に似合わず、飾らない気さくな人柄で、すっかり二人の会話は盛り上がっていった。

志田さんの年齢は僕と同じ(当時35歳)。子供の年齢も同じ(当時4歳)。 子供が女の子だということも同じ。ついでに言えば、愛(恐)妻家だということも同じ。他にも共通点がたくさんあり、なんだか初めてお会いしたとは思えないような親しみを覚えた。

・・・・・

このイベントから1年半後。僕は仙台まで志田さんを訪ねた。H社を辞め、独立することを告げるためだ。

志田さんはビックリした様子だったが、我がことのように喜んでくれ、独立後も応援してくれると言ってくれた。仙台駅前の料理屋さんで、東京行き新幹線の最終ギリギリの時間まで、二人で酒を酌み交わした。

そしてパフ設立後。志田さんは約束どおり、パフの協賛企業第一号として、契約を交わしてくださった。パフに何の実績も能力もない段階の時である。

志田さんは、それから現在に至るまで、パフの良き理解者として、ほとんどの社員たちと(お酒の席を中心に)交流を持ってくださっている。

社員たちとだけではない。企業同士の会合の席などでも、その独特で天真爛漫な(明るく元気で野性的な)キャラクターを存分に発揮しながら、パフの『広告宣伝部長』として大活躍してくださっている。

ある協賛企業の方に「パフを語るとき、志田さんを抜きにしては語れない」と言われたことがあるが、まさにその通りだ。志田さんとの出会いがなければ、 今のパフはないといっても過言ではない。

ということで今回は、『登龍門』を通じた出会いの5人目(通算47番目の出 会い)。サイデック株式会社の社長(当時常務)、志田さんでした。

※志田さんは2003年3月、サイデック株式会社の代表取締役社長に就任。 現在に至っています。


このコラムを書いたのが14年半前。志田さんとの出会いが、そこからさらに遡ること10年前。つまり志田さんと出会ったのは、いまから四半世紀も前になるわけですね。

当時僕らは35歳だったということに、このコラムを読んだいまビックリしています(笑)。

このときのコラムには書きませんでしたが、志田さんに独立を告げた直後、志田さんは即座にパフへの出資を決めてくれました。

パフ創業から5年間くらい、僕は月に最低一回は仙台に出張して、採用コンサルだけでなくITコンサルのようなこともやらせてもらっていました。目的の半分は、国分町で飲むことだったように思いますが(苦笑)。

👆5年ほど前のかっちゃん@仙台

 

いまでは会える機会は年に数えるくらいになってしまいましたが、いつも会えば深夜まで大いに盛り上がってしまいます。お互い、いい歳なのに……。

パフの10周年式典のときも、20周年式典のときも、登壇していただいて楽しいコメントをいただいたりもしていました(20周年のときは紅白歌合戦の審査員でしたねw)。

志田さんは通称「かっちゃん」と呼ばれています。僕もオフタイムでは、いつも「かっちゃん」です。かっちゃんとの友情は一生もの。これからもずっとお付き合いが続いていくことは間違いありませんね。

さて、来週は創業物語の本編に戻り、いよいよ最終章を迎えます。最終回は、リライトではなく新たに書き下ろそうかとも考えています。

ではまた来週もお楽しみに(@^^)/~~~

 

ここ数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介しています。今回は「仙台の菅原さん」をご紹介します。今回は2006年5月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第74話をリライトしながらご紹介します。


 「求人サイト『登龍門』で出会った人々(その4)」 2006/05/15

僕がいたH社には、適性検査の販売をしてくれている代理店が全国に何社かあり、そのうちの1社で、メディアバンクという会社が仙台にあった。

メディアバンクは東北地方を中心として、採用支援サービスと学生の就職支援サービスを手がけており、東北の有力企業を数多くクライアントとして抱えていた。

今回の出会いの人物は、同社社長の菅原さん。元々は東京の大手メーカーや大手教育会社に勤めていたのだが、同社の運営に窮していた創業者に請われ、社長に就任したのだという。

菅原さんと僕とのお付き合いは、1992年頃からだったと思う。僕がH社で人事情報システムを企画開発し、拡販し始めた頃だった。仙台市内の企業の何社かが人事情報システムの導入を決定してくださり、その導入支援で、仙台に出張することが多くなっていた。

仙台といえば、お酒と食べ物が美味しいことで有名だ。仙台に出張するたびに、菅原さんと一緒に地元のいくつかの味のあるお店に足を運んでいた。

僕はサラリーマンだったが、菅原さんは経営者。僕とはまったく違った視点で世の中をとらえていることが興味深く、商売のことはもちろん政治や経済や文化のことなど、様々なことをお酒を飲みながら聞かせていただいた。

そして僕が求人サイトの運営を始めたことで、菅原さんとのお付き合いはさらに深まることになった。

前回のコラムと同じ1996年3月ころだったと思う。『登龍門』をさらに世の中に広めていこうという時期だった。メディアバンクは、仙台で学生向けの大きなイベントを実施していた。学生は500人以上、企業も30社ほど出展していた。

僕はこのイベントで、「インターネットを使った新しい就職活動のスタイル」といった感じの講演を菅原さんから依頼されていた。一時間ほどの講演の後、ブースを設けて、学生の就職相談コーナーなども引き受けた。

実はこのイベントに招いていただいたことで、もう一つの、かけがえのない出会いを得ることになるのだが、その話しはまた次回書くことにしたい。

それから2年後、菅原さんには、パフを設立する時にもたいへんお世話になった。創業時のたいへんな時代から現在に至るまで、様々なシーンで助けていただいている。

菅原さんとの出会いは、僕にとってもパフにとっても、極めて大切な出会いだったことを付け加えておきたい。

※メディアバンクは、1998年(平成10年)、株式会社エムジョイという別会社を設立し、すべての事業を移管しています。

株式会社エムジョイ ⇒ http://www.m-joy.co.jp/


菅原さんのこと、エムジョイさんのことは、パフの古株社員はもちろんのこと、現在の若い社員たちもよく知っていると思います。

が、創業前からのお付き合いであり、株主だったということを知っている人は少ないかもしれませんね。

また、現在僕が幹事兼事務局長の仕事をしているふるさと就職応援ネットワーク(Fネット)を発足させた中心人物も、僕を無理やりこのネットワークに引きずり込んだのも、菅原さんなんです。

👆Fネットのホームページに掲載されている菅原さん

 

ということは、ふるさと就職応援ネットワークの現会長であり、パフの社外取締役を務めている名大社社長の山田さんとも、この菅原さんがいなければ知り合っていなかったのかもしれません。

人の縁とは、こうやって不思議なくらい見事に繋がっているものなのですね( ^)o(^ )。

さて、本日は朝から出社。出張でもないのに、キャリーバックにたくさんの資料を詰め込んで電車に乗らなければなりません。

では、ちょいとその資料の準備をして、朝食後(きょうは朝ドラ見る余裕がないので)キャリーバックをゴロゴロしながら行ってきます!

 

本日は前々回予告した東映のお二人のことをご紹介します。

前々回は東映の元常務取締役、矢澤昭夫さんのお話でした。今回のお二人は、矢澤さんが人事担当役員だったころからの部下、磯辺さんと矢津田さんです。

たぶん矢澤さんは、二人のことを息子のように可愛がっていたんじゃないかなあと思います。

なので、僕が矢澤さんに出資のお願いをしに行った際に、「おーい、磯辺くん、矢津田くん。釘さんが会社作るらしいから、キミらも出資しなさい!」と、無茶ぶりとも思える声掛けをしたのではないかと。

出資しろと言われて「うわ、これは困ったことになったぞ…」という表情をした二人の顔がいまだに忘れられません(笑)。

この磯辺さんと矢津田さん、結局はパフに出資することになり、創業株主になってくれたのでした。

でもそのおかげもあって、このお二人とは個人的に長くお付き合いすることになりました。

僕が10数年前から始めた音楽ライブにもいつも参加してくれています。たぶん皆勤賞ではなかったかと思います。

新潟の笹神村(現 阿賀野市)で開催した50歳ライブにも、わざわざ東京から足を運んでくれたほどです。

ライブ翌日、笹神を散策したときの写真👆僕の右が磯辺さん、左が矢津田さん

 

パフとの仕事上の取引も細々と続くことになりますが、その取引額が矢澤さん+磯辺さん+矢津田さんの出資額を上回ることは一度もありませんでした。まあ、それはご愛嬌ということで(苦笑)。

磯辺さんは僕よりも3歳年上、矢津田さんは僕よりもひとつ年下。年が近いせいか好きな歌やドラマやマンガや映画など共通項が多く、飲みに行くといつも盛り上がっていました。

磯辺さんと矢津田さんは、漫才コンビのようで、僕から見れば仲のいい兄弟みたいでもありました。

一度だけ、お二人のことをこの釘さん日記にも書いたことがあります。

定年退職と監査役就任を記念しての飲み会(2017年7月28日の日記)

こちら👇そのときのお二人の写真です。

奥にいるのが矢津田さん、手前が磯辺さんです

この日の日記にも書いていますが、磯辺さんは3年前に定年を迎え、その後は嘱託として東映での仕事を続けることになりました。矢津田さんは東映人事部を離れ、東映アニメーションの監査役に就任しました。

実は矢津田さん、この日の飲み会の1年半ほど前に肺ガンの病に侵されていました。僕の55歳ライブに参加して会場で元気に飲んで騒いだ直後のことでした。

その後、闘病生活が続きましたが、持ち前の明るさとバイタリティとで、上の写真のように一緒に飲めるくらいまで回復しました。

大きかった癌も、治療の成果で消え去り、ほぼ完治したかのようでした。昨年(2019年2月)開催した僕の「春よ来いライブ2019」にも参加してくれましたし。

今年2月の「春よ来いライブ2020」にも真っ先に申し込んでくれました。

こちら、予約申し込みをしてくれた直後のメールやり取りです。その一部をコピペします。


矢津田佳広<toei-anim> 2019/12/16 14:25

釘崎さん、磯辺さん

チケットは案内メールが届いたその日に申し込みました。

2 月のライブではまた新たな挑戦を楽しみにしています。

ところで中野飲みオッケッケーです!12 月は無理そうなので年明け 1 月で日程調整しましょう。体調を整えて頑張ります。

ところで、わたしの現況ですが、今年は 5 月下旬頃から放射線治療・抗がん剤点滴・レントゲン/CT/MRI 検査などを繰り返していました。

今も 4 週間(1 週治療+3 週休養)サイクルの治療&各検査を 6,7 ヶ月継続しているところです。その間、山下達郎ライブや舞台「めんたいぴりり」に行ったりもしました。

月に 4,5 回の会議を中心に出社もしています。磯辺さんとは 20 日の東映グループ監査役会で一緒になりますね。そこで軽く打ち合わせしましょう。

今回は治療前に喉(声帯)を痛めて美声をお聞かせできないのが残念です。常に裏返っている状態なんです。アース・ウィンド・アンド・ファイアか森山直太朗か!?(笑)

1 月の日程(注:飲み会のこと)は改めて調整しましょう。

釘崎さんの引退&フォークソング居酒屋開業の話しもたっぷり聞かせてください。


 

しかし、今年の2月21日、ライブ会場に姿を現したのは磯辺さんだけでした。

実はこの数日前から容態が急変していたのだそうです。磯辺さんはこの日、矢津田さんが入院している病院に見舞った後、ライブ会場に直行したのでした。

そしてライブが終わったあと、磯辺さんからこう告げられました。

「矢津田なんだけど、実はもうダメなんです。でも釘崎さんが今夜歌ってくれた曲、とくにラストの3曲は矢津田も大好きで、いつもカラオケで歌ってた曲なんですよ。きっと矢津田のところにも届いたんじゃないかな…」

矢津田さんはこの翌朝、奥様に看取られながら静かに息を引き取ったそうです。

ほんとうに本当に、残念でした。もっとたくさん飲んで、もっとたくさん歌いたかったなと。

亡くなられてもう半年になりますが、まだ名古屋にある矢津田さんのご自宅に伺うこともできていません。そろそろ世の中も落ち着いてきたころなので、磯辺さんと一緒に、手を合わせに行きたいと思います。

ちょっと湿っぽくなってしまいましたが、矢津田さんは僕と同じ熊本出身。肥後もっこすで酒好きの明るく豪放磊落な性格です。「釘さん、湿っぽく扱うのは好かん、勘弁してくれ!」と言ってるような気がします。

最後は、10年前の新潟笹神村に向かうバスの中で熱唱していた、磯辺さんと矢津田さんの写真で締めくくることにしましょう。

 

磯辺さんの熱唱

 

矢津田さんの熱唱

 

そういえば矢津田さんが亡くなられたあと、こっそり磯辺さんと(本当は矢津田さんも誘って一緒に行くはずだった)中野のディープなお店で「矢津田さんを偲ぶ会」というのを催しました。ぜんぜん湿っぽい会ではなく、大笑いの連続でした。

矢津田さんにはやっぱり、酒と笑いと昔のフォークソングが似合います。

矢津田さん、いつか僕も天国に行ったら、また一緒に飲んで歌って騒ぎましょうね(@^^)/~~~

ということで今回は、東映の兄弟のような人事マン、磯辺さんと矢津田さんのお話でした。

さて、大昔の写真を漁りながら書いていたらすっかり遅くなってしまいました。今日はこのあと会計士との打ち合わせ、さっそく準備します!

<追記>

実は本日の日記を書くにあたって、磯辺さんと電話で数カ月ぶりに話をしました。実名で日記に書くことを快諾してもらったのはもちろんですが、日記に出ることをとても喜んでくれたことが、僕にとってもとても嬉しいことでした。

 

ここ数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介しています。昨日予告した東映のお二人はちょっとあと回しにして、今回は「キムラさん」をご紹介します。今回も2006年2月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第61~62話をリライトしながらご紹介します。


システム開発の仕事をしていた20代の頃、僕が働いていた会社には凄いエンジニアがいた。

わずか10数名しかいない小さな会社だったのだが、働いていたのは個性的なエンジニアばかりだった。そのなかでも最も個性的だったのが今回登場のキムラさんだ。

キムラさんは僕よりも7歳年上。当時、ちょうど30歳になったばかりの中堅エンジニアだった。無口な人で、僕とは別のプロジェクトの仕事をしていたこともあり、ほとんど口をきいたことがなかった。

もともとキムラさんはフリーのエンジニアで、正社員として働いていたわけではなかった。なのでプロジェクトが進行中のときには会社にいるのだが、それ以外は顔を合わせることも少なかった。

・・・その時も、会うのは半年振りくらいだったと思う。バイクのヘルメットを片手に事務所に入ってきたキムラさん。顔を見てビックリした。

ありゃー、まるで森の熊さんだ!!

口のまわりから顎にかけて、一面黒々と髭をたくわえていた。それも実に見事な髭。明治維新の英雄たちもビックリするくらいの髭だった。

そのころからだったと思う。キムラさんが僕と喋ったりお酒を飲むようになったのは。

キムラさんの仕事スタイルはとてもハッキリしていた。

毎朝、新横浜の自宅から、愛車のナナハン(750CCのオートバイ)に乗って颯爽と会社にやってくる。皮ジャン姿でヘルメットを片手に「おっす」と、ぶっきらぼうな挨拶をしながら自分のデスクに座る。自分の部下たちに、パパッと指示を飛ばし、その後自分も仕事に没頭する。

そして夕方の6時。僕などは「あーあ、今夜も残業だなぁ。ラーメンの出前でも取るか」と思っている時間だ。

「じゃあな、お先に!!」。そういってヘルメットを片手に、ささっと帰っていく。キムラさんの部下たちもそれに続いて帰っていく。

昔のSEやプログラマーといえば徹夜が当たり前の世界だったのに、キムラさんのプロジェクトだけは、徹夜はおろか残業している姿をほとんど見たことがなかった。

僕が担当していたプロジェクトなどは、納期前になると一週間連続で寝泊りするなんてことも珍しくなかったのに……。キムラさんは、よっぽど楽な仕事ばかりを選んでいるんだろうと思っていた。キムラさんのプロジェクトで働いているメンバーはラッキーな連中だなと、やっかみ半分で眺めていたものだ。

しかし、キムラさんが担当していたプロジェクトは「楽」な仕事なんかじゃなく、当時としては先進的な新聞社向けの画像処理システムだった。残業をしないっていうのは仕事が楽なわけではなく、仕事の見積もりが正確で、無駄なく無理せずテキパキと、スケジュールどおりに仕事を進めていたからだったのだ。

それが分かったのは、僕がエンジニアの仕事を始めて5年目。僕はキムラさんと一緒に仕事をしたことは一度もなかったのだが、一度だけキムラさんが納品の作業で詰めていた新聞社まで届け物をしたことがある。その時に晩飯をご馳走になりながら、キムラさんの「仕事哲学」を聞いたのだ。凄い、と思った。

僕はその直後、28歳で会社を辞め、システム開発の仕事から足を洗った。キムラさんとも、以来、顔を合わせることはなかった。

再会を果たしたのは、それから8年後。僕が「パフ」を創業しようと決意した時だった。

会社を創ろうと思ったものの、貧乏サラリーマンだった僕には資本金となるべき現金がほとんどなかった。

そこで僕は、いままでの人生の中で知り合った信頼できる友人のところを毎日のように訪ね歩き、出資のお願いをして回っていた。

しかし、なかなか思うように資本金が集まらない。当時の法律では「株式会社」を設立するための最低資本金は1千万円。そうカンタンに集めることのできるお金ではなかった。

そんななか、ふと思い出したのがキムラさんのことだった。数年前に独立して、会社を経営していることは知っていたが、不義理なことに連絡は一度もをとったことがなかった。

キムラさんが作った会社には、僕の昔の同僚だったI君やT君や、先輩たちも何人か入社していたので、「皆で会おう」と連絡をしてみた。もちろん僕の目的は、皆から出資を仰ぐことだったのだが。

東京は蒲田にある居酒屋。昔の同僚3人とキムラさんが駆けつけてくれた。酒を口にする前に僕は、自分が会社を設立しようと思っていることと、出資を仰 ぎたいことを切り出した。

キムラさんは、

「クギ、独立なんかやめとけ。社長になっても良いことなんて何もない。苦労するだけだ。奥さんや子供にも苦労をかける。考え直せ」と、僕を諭すように言う。昔の同僚たちも神妙な面持ちで、うつむいている。

それでも僕の考えは変わらない。出資を仰ぐなんてことは、もうどうでも良かった。会社をつくって自分の力を試してみたい、ということや、どんな苦労があろうとも絶対に負けない覚悟はできている、といったことをキムラさんに訴えかけた。

キムラさんはそれでも、「クギ、悪いことは言わない。やめとけ」を繰り返すばかりだった。気まずい沈黙の時間が流れた……。

「クギ、100万円でいいか」

突然のキムラさんの言葉に、僕は耳を疑った。

「え!?」

いまの今まで、さんざん「やめろ」と言っていたキムラさんが、急に100万円ものお金を出すと言う。狐につままれた気分というのは、こういうことを言うのであろうか。

キムラさんは続けて、「まあ、クギがそこまで本気で会社をやりたいっていうんなら大丈夫だろう。俺が応援しないわけにもいかないだろう」と、笑顔で言ってくれた。

涙が出るほど嬉しかった。いや、実は本当に涙が流れた。

後で分かったことだが、キムラさんは最初から皆と相談して100万円を出資することに決めていたらしい。同時に、会社を設立するということが、どれだけ大変なことであるのかということも分からせ、それで僕の気持が揺らぐようであれば、引き止めたかったのも事実らしい。

キムラさんには、それ以来、いろんなところで助けてもらっている。パフの監査役も務めてもらっている。

森の熊さんキムラさん。素晴らしいエンジニアであると同時に、男気溢れる僕の人生の大先輩だ。最初に出会った23年前(注:2006年のコラム執筆当時。現在は出会ってからすでに37年が経ちました…)まさか今のような関係になっているなんて夢にも思わなかった。


キムラさんには、現在でもパフの監査役を務めていただいています。

創業からしばらくのあいだ仕事が受注できず資金繰りに汲々としていたとき、リーマンショックでどん底になったとき、酒を飲みながら僕を励ましてくれました。

パフにシステムの分かる人材が不足していたときにはキムラさんの会社からエンジニアを派遣してもらったこともありました。

上の写真は3~4年前、僕が初めてキムラさんを築地の寿司やで接待したときの写真です。なぜか白黒なのですが(;’∀’)

僕は社長を辞めてしまいますが、キムラさんにはもう少しだけ(少なくとも任期となる来年の9月までは)監査役に留まってもらいたいと考えています。

ということでキムラさん、もうちょっとだけ面倒をおかけしますが、よろしくお願いしますm(__)m

さて、本日も在宅でWeb会議だらけですね。出社するより疲れるかも…汗。

では、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

前回の日記にも書いたとおり、これからの数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを紹介していきます。

本日は東映の常務だった矢澤さんです。

2006年7月に書いた「釘さんの素晴らしき100の出会い」の第84話をリライトしながらご紹介します。かなり長いです。


東映といえば、戦後の日本映画製作の中心的役割を担ってきた会社である。

特に、僕らの世代で有名なのは、鶴田浩二、高倉健、藤純子、菅原文太などが主役として登場する任侠ものの映画だ。

僕がはじめて東映と仕事面での関わりを持ち始めたのは、30歳になったばかりの頃だった。僕が勤めていた会社のセミナーに、東映の人事部長が参加してくださったのがきっかけだった。

人事部長のお名前は矢澤さん。口数が少なく一見恐そうにみえるものの、たまに見せる笑顔がとても優しく可愛い。まるで東映のヤクザ映画に出てくる組の親分みたいな雰囲気を持っていた。当時50歳を少し超えたくらいの年齢だったろうか。

そして何回かの営業訪問を経て、東映と正式なお取引を開始することになった。東映の社員採用時に使っていただくための、とあるツールを提供させてもらうことになったのだ。さほど大きな金額ではなかったが、採用においては大事なツールで、その後毎年採用シーズンになると、必ず注文をいただいていた。

1997年11月。最初の出会いから6年ほどが経過していた。僕は意を決して、矢澤さんに会いに行った。矢澤さんはこのとき常務取締役という、たいへん高い立場であった。

矢澤さんに会いに行った目的。それは、僕が設立しようとしていた会社(つまりパフのことです)への出資のお願いだった。以前のコラムでも書いたが、僕はこのとき連日のように知人・友人を訪ね歩き、出資者を募っていたのだ。

矢澤さんに、僕が会社を辞めて独立する旨を話した。新会社で実現しようとしていることを話した。そして、ぜひ矢澤さんにも株主のひとりになっていただきたいと、深く頭をさげてお願いした。

矢澤さんはひとこと。「釘さん、釘さんが作ろうっていうその会社は、人の役に立つ会社なのかい?それから独立するにあたっては、誰にも迷惑をかけたりしないかい?今の会社から人を引っこ抜いたり、険悪な関係になったりしないかい?」と聞いてきた。矢澤さんは「義」をとても重んじる方だったのだ。

僕は「も、もちろんです」と答えた。矢澤さんは「そうかい。じゃ、ちょっと待ってな」と言い残して、ぷいっと部屋を出て行ってしまった。

いったいどうしたんだろうと思って待つこと15分。矢澤さんは部屋に戻ってきて僕の前に再びどかっと腰を下ろした。

そして背広の内ポケットから「ほい、これ」といってパンパンに膨らんだ銀行の封筒を取り出して、テーブルのうえにどさっと置いた。

中を見ると、数十枚の札束が入っていた。僕はびっくりして「え…? い、いやあの、いま現金でもらっても困るんですけど……」と感謝の気持が沸き起こるより前に、いま目の前に積まれたお金の取り扱いに窮してしまったのだった。

それにしても出資のお願いにきたその日に、いきなり現金(しかもかなりの額の札束)をどさっと差し出すなんて。まさに東映の任侠モノの映画に出てきそうな光景だ。

無口で男気あふれる矢澤さん。僕にとっては親父さんというか「親分」みたいな人だ。

現在すでに東映の役員は退任され、お仕事も完全に引退されている。もう3年以上(注:このコラム執筆の2006年時点での年数)お会いできていないのだが、「親分」元気でいらっしゃるだろうか。

なんとかお元気でいらっしゃるうちに、パフを成長させて恩返しをしたいものだ。「株式配当金」を銀行の封筒にパンパンに詰めて、どさっとテーブルの上に置き、「あの時はありがとうございました」と、ひとことお礼を言いたいと思っている。


そして、実はこのコラムを書いた3か月後の2006年11月3日に、矢澤さんは亡くなられてしまいます。恩返しをすることも、配当金をどさっとテーブルの上に置くこともできないままでした。

ご葬儀の直後、追悼コラムを書いていましたので、本日はそちらもあわせて再掲したいと思います。


3日(金)の午後のことだった。休日だったこともあり、ひとり有楽町に映画を観に行ったその帰り道。携帯にメールが入っていることに気がついた。

見ると休日出勤している梅木(注:当時のパフ新入社員)と、自宅にいたカミさんから、それぞれ同じ悲しい報せ。

「東映の元常務、矢澤さんがお亡くなりになったとのことです…」

びっくりした。まだ72歳。ご病気だということも知らなかった。本当に突然のことだった。

矢澤さんは、僕がサラリーマン時代、そしてパフを設立するとき、たいへん お世話になった人であり、大きなご恩をいただいた人。奇しくもわずか3ヶ月前、このコラムでも矢澤さんのことを取り上げたばかりだった。

そして、前回のコラムではスナック『のろ』のことを取り上げたのだが、 この『のろ』に一番最初に行ったのも、矢澤さんとだった。コラムを書きながら、矢澤さんが楽しそうにカラオケを歌っていた姿を思い出していた。

『のろ』に行ったのは、パフ設立直後(1997年12月)のことだった。サラリーマン時代、僕は矢澤さんにとても可愛がっていただいていたが、一緒に飲みに行ったのは、後にも先にも、このとき一回きりだった。

後から東映の人事の方に聞いて知ったことだが、矢澤さんは、飲みに行って カラオケを歌ったりする人ではないそうだ。「矢澤常務は、釘崎さんと飲みに行ったのがよっぽど嬉しかったんでしょうね」と言われたのが、いまも心に残っている。

その数ヵ月後、パフの設立パーティーを日比谷の中華レストランで行ったのだが、この時のスピーチも矢澤さんにお願いしていた。矢澤さんは他の用事 が入っていたにもかかわらず、快くスピーチを引き受けてくださった。その日の用事を調整してパーティーに駆けつけてくださり、心温まるスピーチを披露してくださった。

会社が設立されて3年目のころだった。パフが学生向けに開催したイベント『キミは就職できるか?』の就職相談コーナーで、矢澤さんに無理を言って 就職相談員をお願いしたことがある。このとき矢澤さんは、すでに東映の役員を引退されており、東映アニメーションの相談役の立場だったのだが、やはり二つ返事で僕のわがままなお願いを引き受けてくださった。

2003年3月末の株主総会の日(当時パフは12月決算でした)。矢澤さんは、とつぜん月島にあったパフの事務所に顔を出してくださった。総会が始まる1時間以上前だったので、久々にゆっくりとお話することが出来た。今から考えると、顔を合わせてお話しをしたのはこのときが最後だった。

サラリーマン時代、そして会社(パフ)創業時と創業後、矢澤さんにいただいたご恩はとても大きい。特に創業時、僕にかけてくださった優しい言葉の数々と、父親のように優しい眼差しを忘れることができない。

矢澤さんとの出会いは、僕にとって間違いなく、かけがえのない『素晴らしき出会い』だった。

この原稿を書いている数時間前、世田谷にある斎場でご焼香をしてきた。祭壇に飾られた矢澤さんの優しい笑顔の写真から、「おい釘さん、 まだまだ若いんだからしっかり頑張んなさいよ」という声が聞こえてきたような気がした。

矢澤さん、いままでお世話になり本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

矢澤昭夫さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


 

矢澤さんから、銀行の袋に詰め込まれた札束をもらったときには本当にビックリしました。23年経ったいまでも、あの時の情景は忘れられません。

このときの東映人事部には、磯辺さんと矢津田さんという、僕とも仲の良い、そして矢澤さんの子分のような方々がいらっしゃいました。

「おーい、磯辺くん、矢津田くん。釘さんが会社作るらしいから、キミらも出資しなさい!」

室内の他の方々にも聞こえるような大きな声で、そう呼びかけたのにもビックリしました。磯辺さんと矢津田さんは、とんだ巻き添えを食った感じです(苦笑)。

でも、そのおかげでお二人とはその後20年以上にわたる個人的なお付き合いが続いています。

次回は、(矢澤さんに命じられて強制的に出資することになってしまった)この磯辺さんと矢津田さんのこともご紹介したいと思います。

さて、本日は在宅勤務。web会議だらけですね。台風10号も心配ですが、朝食&エール再放送後、仕事します!

 

ここ数回の「新・創業物語」では、出資者集めのことを書いてきました。まだ生まれてもいない(何のビジネスも行っていない実績ゼロの)会社に対して出資するなんて、ふつうなら考えられないことです。

でも、そんな「ふつうなら考えられない出資」をしてくださった株主さんのおかげで、パフは事業をスタートすることができました。

しかし、20年前に書いた元々の創業物語では、その株主さんのことをあまり詳しく書いていませんでした。

前々回「パフ創業の陰には、いろんな方々のご支援があったんですよね。現在のパフの社員たちにも、この事実は知っておいてもらいたいことです」と書きましたが、あらためてこれからの数回は、創業時(正確には会社が生まれる前)に出資してくださった方々のことを(特にパフの社員たちに向けて)紹介しておこうと思います。

ほとんどの方々のことは「釘さんの素晴らしき100の出会い」という(やはり15年ほど前にメルマガで連載していた)コラムに書いていましたので、それをリライトしながらご紹介していきます。どうぞお楽しみに(^^)v。

 

さて、僕の社長退任まであと3週間となりました。実は長らく続いたこの「釘さん日記」も社長退任と同時に終了することになります。

2001年から書き始めたこの日記、どうやって締め括ろうか思案しているのですが、まあ、もともと締まりのない人間なので、キッチリとした終わり方は似合わないですかね(苦笑)。

あ、そうそう、社長退任まであと3週間ってことは、記念ライブの開催までもあと3週間ということですね。焦らないといけません。申し込んでない方はぜひこちら👇から。


= 釘さん社長引退記念ライブ(ネット生配信+リアル若干名)開催概要=

●日時 2020年9月25日(金)18時開場、18時半開演(終演は21時半ころ)
●場所 四谷Lotusより生配信(会場には関係者含め23名15名まで入場可)
●出演 山と鼓と葉
●コンセプト
昔懐かしいラジオの深夜番組のように、皆さんからのリクエストはがき(メール?)を読みながら進めていきます。さらに当日はtwitter等でもリクエストや声援や野次を受け付けながら参加者の皆さんと一緒に楽しく進行してまいります。どうぞお楽しみに!

☆お申し込みはこちらから⇒ 釘さん社長引退記念ライブ(ネット生配信です!) 


できれば「チャリティーチケット」を買ってもらえると嬉しいです( ^)o(^ )。

では、そろそろ朝食&エール再放送後、行ってきます!